チリ・クーデタ(1973年9月11日)から50年が経過した。
今年の9月11日には大統領府モネーダでボーリチ大統領の主宰で式典が行われた。
(因みに日本ではボリッチと表記されているが、現地ではボーリチと呼ばれている。出身地のチリ南部に多い東欧系の姓である)。
ボーリチは1986年生まれの37歳。アジェンデ大統領時代は言うまでもなく、軍政時代についてもほとんど記憶にないであろう世代である。そんな若者が、真摯な、また悲壮ともいえる面持ちで、人間にとって、また社会変革においても、いかに民主主義が重要であるかを訴えた演説は圧巻であった。アジェンデの三女で作家のイサベルも、民主主義や社会正義への信念を貫いた父親の思い出を威風堂々と語った。
アジェンデ政権は「世界で初めて選挙によって成立した政権」と言われている。しかし、それだけではなく、アジェンデは「民主的な社会主義社会」の建設を訴えていた。
≪民・軍クーデタ≫
チリでは1973年のクーデタは「民・軍クーデタ」(el golpe cívico-militar)と呼ばれている。米国や軍部だけではなく、中道派のキリスト教民主党も含め、反政府勢力が一体となって実行したものであった。
72年後半には反政府勢力が本格的な攻勢に乗り出し、トラック業者や民間企業のストライキなどが続き経済は悪化した。翌年3月の総選挙で人民連合が1議席でも減らせば合法的に政権を打倒できると反政府派は期待したが、逆に選挙では与党が議席を伸ばした。「社会主義化は不可避である。クーデタ以外に道はない」と考えたのである。
9月11日、クーデタが始まり、大統領府が爆撃された。アジェンデは側近とともに抵抗を続けたが、背中に銃弾を受けて負傷し、全員を退避させたあと、自らの銃で自殺した。街ではナチスをも凌ぐとも言われる虐殺が繰り広げられ、国立スタジアムは巨大な強制収容所と化した。16年半にわたる軍政下で殺害され、あるいは行方不明になった市民はおよそ3万人。
これほどおぞましい弾圧が繰り広げられたのは、社会主義化を阻止するには、制度だけではなく、そうした思想をもつ人間をも抹殺する必要があると考えたためである。実際、軍政下では焚書も行われている。
1975年にはシカゴ大学のフリードマンがチリを訪れ、カトリック大学などのシカゴボーイズが入閣し、新自由主義体制が導入された。まさにナオミ・クラインが指摘する「ショック・ドクトリン」であった。
≪エンパナーダと赤ワインの味がする社会主義≫
70年11月の大統領就任式の翌日、アジェンデは国立スタジアムで国民を前に、「選挙で成立した政権として、社会主義への移行は法治主義に基づき長い年月をかけて漸進的に進め、民主的な社会主義社会を建設する」と訴えた。これは「社会主義へのチリの道」(La vía chilena al socialismo)、「エンパナーダ(チリの人々が好んで食べる、ひき肉などの具材を薄い皮で包んでオーブンで焼いたスナック)と赤ワインの味がする社会主義」と呼ばれている。
チリ風の社会主義は、少数者ではなく、多数を占める働く人々や貧しい人々のための社会であり、虐げられ人々の平等、経済的文化的な生活の充足、国有部門と民間部門との共存による自立的な経済発展を目指す。
ここから彷彿とされるのは、今日、ラテンアメリカに広がる「21世紀の社会主義」である。新自由主義も、既成の社会主義も否定し、中央集権的経済運営体制を排し、疎外された人々の復権、代表民主主義と参加民主主義の結合などを掲げたものであり、ベネズエラなどの社会主義政権だけではなく、ブラジルのルーラ政権やメキシコのロペス・オブラドール政権など、いわゆる中道左派政権の政策理念とも相通じる。
しかし、当時、アジェンデのこの理念を理解していたのは少数の側近などに限られていた。チリ革命が悲劇に終わった一因もそこにある。人民連合の主要政党である社会、共産両党がこの理念を受容するのは軍政末期の1980年代以降のことである。
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