安保法案が成立したからとて終わりではない
「国会へ坂をあがれば秋の風」。テントにいると多くの人が国会への道を尋ねてくるようになった。今日は集会などもあったが、それでなくても、その数が増えたということである。国会に向かって足を運ぶ人の姿が一つの光景になったということだろうか。いつの日か国会周辺の風景を変えたというように言われて欲しいものだ。僕らが何年か前に国会前で座り込みをはじめた頃は、想像できないことだった。「銀杏さんこんにちわ」と僕らを見守る銀杏と対話をしていたのが想起されるが、孤独なものだった、国会にはいろいろのグループが陳情や政治的な意思表示にやってくる。デモもやってくる。それでも万を超える人たちが、それも諸個人の自発的な行動や集まりを主体としてやってくることは想像できなかったのだ。
これは単なる「安保法案=戦争法案」に対する闘いではない。それを端緒にした戦争の接近(現実化)に対する闘いのはじまりであり、その危機感の表出なのだ。この国会周辺での人々の行動は一つの法案の成否を超えた長い射程を持っている。この法案は「安全保障の法案」であり、戦争法案であるというのは誇張である、これが政府や与党の主張である。これは戦争法案であり、戦争への接近が目論まれている、この市民や地域住民の直観や反応は正しい。どこで戦争が起こるのか、今の政府に戦争を担当する能力っているのか、という疑問はある。これも間違いなく存在する。しかし、こうした中で、政府の決意で戦争は現実化するし、戦争担当能力もついてくる。戦争の始まる契機や事件などは分からないが、政府が決意すればあっという間に事態は変わっていくものである。国民の抵抗と非戦(反戦)の強い意志だけがそれを留め得るにしても、それは困難な所業である。
アメリカの強い要請と安倍政権に国家主権(国民主権なき)の恢復の志向があるにしても、戦後70年の国是を破っての戦争への道程が始まったことは明瞭である。僕らにとって戦争が過去の事から未来のことに、未来が投げかける現在の問題にはじめてなったのだ。戦後70年、僕らにとっての戦争の存在形態は変わったのだ。変わる端緒に入ったのである。
僕は1960年安保闘争の後のように『アカシヤの雨が止むとき』を歌わない。何故ならこの闘いは最後の闘いではなく、戦争の現実化に対する最初の闘いとしてあるものだかである。戦争への道は、また、自由や民主主義を抑制する道だ。国家は戦争にむけて強権化を進めるし、また、国家権力は社会権力(地域・会社・学校・家庭)との協力(関係強化)を画策する。戦争を可能にする社会体制の再編がいろいろの領域で起きる。予想もしなかった事柄がいろいろの場面で起こりはじめるに違いない。その動きがみえてくるだろう。
だから、闘いは総合的に、そして重層的にあるほかない。そして、僕らは戦争への初期の道程がどのように現象するか、知らねばならない。戦争の歴史を学ぶことで闘いの多くのヒントを得なければならない。さしあたって太平洋戦争を前史も含めた15年戦争として学ぶことだ。とりわけ、満州事変から日中戦争の前史を。これは現在の戦争について学ぶことと同じくらいに大事なことだ。
国会周辺での政治的意思表示があたり前の、いつもある光景にすること、それを続けることは長い射程を持った闘いの基礎をなすものだ。「はじまり」であるという人々の意識を本当のことにするためには、それに何が必要か、何が問われているのかを絶えず自問することが大事だ。国会に向かう坂道は今日も多くの人で埋まった。多分、あすの代々木公園も、これから、非戦争・反戦争の声のあふれる街と季節にしていこう。(三上治)
裁判傍聴記3
9・11の4周年・経産省ヒューマン・チエーンに続き、9・18高裁結審(第三回弁論)にたいして、安保法制・国会前闘争と重複したにもかかわらず、160名が結集した。叉6人の弁論(第一、二、三テントからの江田、寺崎、高瀬氏、正清、淵上氏、河合弁護士)も原告・経産省側を圧倒した。
当日次回判決日を言い渡さなかったことに対し、後の報告会で大口弁護士は「生の声が裁判所に伝わった、裁判所ももう少し検討しようということだろう」と説明していた。
弁論において第一テントの江田氏は、(9・18満州事変勃発にふれつつ)地裁判決の欺瞞性を述べた。占有者は二名でなく多数である、迫る再稼働にたいし一時的でなく持続的な経産省のど元での活動の必要、右翼の攻撃等に対する七〇名くらいの態勢、多様なテントの活動を説明した。
第二テントの寺崎氏は3・11以降の反原発運動に参加し、10・27からの福島の女たちの座り込み、10・31からの全国の女たちの座り込みに参加しながら、第二テント設営後テント当番も引き受けるようになった。ドイツ映画上映会、大間裁判にもかかわった。日照時間の短いドイツでの太陽光25%にたいし日本の少なさを対比し、これまでの「おまかせ民主主義」からの脱皮の必要、テントは「民主主義の学校」と述べた。
第三テントの高瀬氏はアメリカのオキュパイ運動等の背景、テントは「危急存亡の下での主権者国民の権利」、福島被災者はじめ全国の人々の集まりであり、経産省は国有地の管理者にすぎない。国家権力と脱原発国民との力関係の非対象性(富と宣伝力)のもとでは、基本的人権は国家の義務規定であり、司法はそれを国家権力に命じなければならない、と法律・憲法概念で訴えた。
正清氏はこの裁判は、経産省が原発被害者を救済していないことを隠蔽するためのものである。ポケットパークは自由に使える場で、経産省役人にも開かれており、何万~何十万人に支持され、世界の人々の関心のもとにある。内藤氏の「宿営型テント」論が言うように争われているのは表現の自由そのものである。裁判官は一審判決を破棄してほしいと訴えた。
淵上氏は、原判決の根本は、経産省が原発政策の本拠でありながら原子力政策の是非を論じていないことだ。原発の安全、責任を論じてしまうと破産を証明してしまうからだ。安全性を犠牲にしての原発推進のため、脱原発の意見を経産省周辺から排除したいというのが本音にすぎない、という基本構造について述べた。
河合弁護士は、原発訴訟は3・11までは安全キャンペーンのもと負け続けてきた。3・11以降は元原子力委員長近藤駿介のいう「最悪のシナリオ」(4号機プール崩壊で250km・東京をふくむ東日本全体の立ち退き)という問題が明確化した、このことぬきにテントの問題はない。日本を亡ぼすのは原発と戦争である、再稼働を押し込むのは集会、デモ、自治体・マスコミ対策、…であり、ドイツの自然エネルギー30%を参考にする。国民運動の拠点、恒常的拠点・場としてとして亡国の役所としての経産省に忠告する場としてのテントの役割…といったことを述べた。
一審判決の問題点はなんといっても、淵上氏のいうように、原発政策そのもの、その被害・責任について判決も、経産省も述べていないことであろう。被告たるべき原発加害者が責任をとることもなく、原発批判、被害者救済を訴える人々、場所を告訴するという転倒である。
そして「テント」そのものも、設営当時の意図にかかわらずもはや社会的共有物、公共物になってしまっているのである。当初は再稼働せまるなか、集会・デモ等一時的でない経産省のど元への持続的参加の場所、ニューヨーク・オキュパイに続く、2008~9年の派遣村、かつての記憶(大学占拠や国会突入)等が重なっていたろう。(だから数日、一週間くらいの撤去の可能性の想定もあった。が経産省の負い目や民主党政権ということで撤去できなかった)
その間金曜日行動との暗黙の連携、福島の女たちや全国の女たちの座り込みがあった。福島や全国、各種活動している人の集まりの場、世界と情報発信・交換の場となり、24時間・365日の存在それ自体が経産省・原子力村との対峙の場となった。「民主主義の学校」「表現の自由」の場ともなった。
その間伊方、川内等へ出張・拡大し、各種告訴団(福島・大間~)とも連携し、福島被災者との交流、行動隊のような原発廃炉・福島被災者支援運動等との交流の場ともなった。
原発立地の運動や派遣先の運動と結合し、地域利権に抗し疲弊する地元農業・産業発展ということも課題となるだろう。
そして日本を亡ぼすのは原発と戦争のみならず、今国会で問題となった労働者派遣法改悪(非正規労働問題)や、沖縄辺野古への基地移転建設でもある。
原発事故は「第二の敗戦」と述べた人がいたように、戦後日本資本主義・帝国主義の発展・成長主義の破産でもある。その資本輸出大国化と利権・安保軍事対象地域化、国際競争激化・衰退の労働者への犠牲の転嫁(非正規労働問等)、沖縄への基地転嫁、原発・武器輸出等々一億棄民化の破綻がドラステイックに露呈したのが原発事故である。それでも再稼働を強行…その「亡国の政府、経産省」(河合氏)との対決がテント裁判だ。
今起こりつつある安倍との闘いと連携し、また全国の原発との闘いの一環としてテント撤去と闘う。(裁判後の報告会での、駆けつけてきてくれた福島の女たち、弁護士、井戸川元双葉町長の連帯の発言はおおいなる激励となった) …迫る高裁判決、それ以降へとテントをめぐる闘いは問われる。(A・B)
◆9・23さよなら原発、さよなら戦争全国集会
日時・場所:9月23日(水)13時30分~ 代々木公園
主催:さよなら原発1000万署名市民の会
◆9・24「さあ、安倍政治を終らそう」緊急院内集会
日時・場所:9月24日(木)午後1時~ 参議院議員会館 101号室
主催:立憲フォーラムと戦争をさせない1000人委員会共催
◆9・25再稼働反対抗議行動
日時・場所:9月25日(金)18時30分~20時*首相官邸・国会議事堂正面
主催:首都圏反原発連合ほか