友達に誘われて江の島に出掛け季節外れ(?)の花火を見た。冬の花火というのはよく耳にするが、秋の花火は初めてだった。多くの人出にびっくりしたが、花火は間近で見ると凄い迫力で堪能させてもらった。腹にずしりと来る音から幼い日の爆撃音を連想してしまっていたが、今の時代は何だろうかということを自然に考えていた。もう時代や社会のことなんか考えるのはよせという内心の声が時折あるがどうしてもその所から逃れられない。これはテント前に座っているとこの執着は何故という内心の声がやってくるのと同じである。
テントはいつの間にか400日を超えた。誰もこんなには続くと予想はしなかったけれどそれは存続している。テントはそれを生みだした人の意志や意向を超えて独り歩きをしてテントはテントという表現をしている。これは不思議なことであるが、この辺は毎週の金曜日の首相官邸前行動についてもいえる事なのかもしれない。確かにテントはそれを生みだした人、それに賛同した人たちの意志、つまりはその集合力として存在している。これは事実であってだから個々の意志が辞めようと思えば出来ることであると思える。これは半ば事実であるが、この事実を超えて個々の意志の判断では決められない要素も存在しているのである。これはテントが個々の意志《主観、あるいは共同主観》から生み出されながら、共同意志(客観的な意志)に転じていることがあるのであり、この役割や側面を持つのである。これはテントが体現している脱原発という共同意志の展開を要求していることであり、それを構想できなければ存続は決められないということである。
テントが脱原発の意志の表現としてどのようなものか、どのように展開して行くはそれを生みだした当人たちにも明瞭であるものではなかった。何人かがとりあえずやってみようと決意してできたのであり、そして当人たちの想像を超えて展開をしてきたのだ。本来、政治的な運動や表現はこうしたものであり、個々人の意志から生まれながらそれを超えて展開をするのである。そして、逆に個々人の意志に迫るのである。それは脱原発の運動の発展の方向性である。
このことは先にあげた毎週金曜日の官邸前行動にも言えることだ。共同意志の発現《表現》として脱原発の運動はどのような展開をとるか、その展望を構想しえているか、という問いかけをテントも官邸前行動も我々にせまるのである。
言ってみるだけでいい、やってみるだけでいい。それだって単なる思いつきではできない。我々が考え考えしているのはこのところである。誰でも復興予算の使い方には呆れている。ひどい話である。日本の官僚的政治《行政》の実態を見ている。本当に自民のどちらかが政権の座につくということではない。それを超えた事態である。これは官僚主導の日本の政治の現実を示しているのであり、原発行政は密室で進んでいるが故に同じように、いやもっとひどいのだろうと思う。沖縄へのオスプレイ配備も同じように考えてもいい。私たちの前の現れる政治的現象は腹立たしいものだ。それは混迷というよりは誰が見たっておかしいぜという類だ。だが、これを変えるにはどうしたらいいのか、という問いを発した途端に考えあぐむ。そこで我々は立ちどまっている。これはテントや官邸前行動の問いかけにうんと口籠ることと同じである。
私たちには考えるということ、考えに考えを重ねるということにしか道はないし、その果てに「言ってみる、やってみる」ということしかできやしない。そんな形でしか、テントや官邸前行動が迫るものに応えることができない。テントに座るとき出てくる「執着は何故」という問いに応えようということなのだと思う。年を重ねればこういう執着からは解放されるものだと思ってきたがことはどうもちがうようだ。テントの前に座っていると興味深そうに見て行く人が少なからずいる。笑顔を向けてくれる人にほほ笑み返す時、私のこころはたゆたっているが、底に流れているのかこんなことだ。 (M/O)。