家の中は結構温かくてまだ半袖で過ごしている。というわけでテントにも半袖で出掛けた。ナップザックには上張りも入れたつもりだったがこれも反袖だった。昨日から愚図ついた天気で肌寒い。風邪を引きそうで大失敗だった。10月になっても台風が次から次とくるようで天候は不安定だが、暑さ寒さも定まらない。季節の変わり目には風邪を引きやすいといわれるし、風邪を引くとなかなか直りにくいといわれる。健康であることも闘いの一つであるわけでそれなりに気をつけているつもりだが時にこんな失敗もする。
テントはその日常的な動きとしてみれば賑やかで騒然としているような日と穏やかで静かな日とがあるのだけれど、総じて言えば金曜日を中心とする週末と週の前半で分かれるようだ。だが、穏やかで静かな時にも人の出会いや予想外の事件などもある。この辺はテント日誌でよくレポートされていると思うが、今日も朝早くテント前の椅子に座っていたらある官庁の職員の方が身分証明書を示しながらカンパをしてくれた。官庁などではテントがどう見られているのだろうか、原発問題がどう考えられているのか想像をしても、その動きはわからりにくい。だから、こういう形での動きは刺激的だし、時折見かける光景になってきたが嬉しいものだ。自己の政治的意志の孤立をどう超えるかが私たちに課せられた最大のものだが、それだけにテントが多くの人の意志の象徴になっているのを実感できる時は元気づけられる。
テントではそれこそ三人あつまれば話になるが、今は運動の見通し等に集中する。それが手探り状態にあることは誰しもが認めることである。それはまた一つの政治的な局面なのだろうと思える。私は大きな意味で今が持久戦の局面であるという判断を持っているが、これはかなり続くのであってそれに対応した行動が必要だと思っている。多くの知恵と工夫を要するがしばらく続く持久戦という認識の下に行動等を展開するしかない。
首都圏反原発連合では11月11日に大規模な国会包囲を提起している。百万人規模で国会を包囲し停滞気味にみえる現状を突破して行こうという目論みだが、その意気はともかく無理ではないか、百万人などというアドバルーンはあげない方がいいのではという慎重な意見も聞こえる。これは私の意見であるが、百万人というのは方向でかつて10万人と言っていたのを受け継いだだけでこれだけ脱原発の運動が広がり持続していることと考えればいいことのように思う。もし、それが実現できても脱原発が実現できなければという危惧もあるようだ。この場合には脱原発の運動の基本的方向ということにも関わるように思えるので私の考えを述べて置きたい。
自民党の党首選では予想外の安倍晋三が返り咲き、野田首相はパットしない内閣改造でお茶を濁している。国会や永田町の政治にはうんざりだが、我々は粘り強く異議申し立てをして行くしかないし、国民の意志が実現する道を追求するしかない。国会を50万人、あるいは100万人で包囲し政治権力や体制が否応なく考えざるを得ない行動をやる以外に手はない。いくらやってもというむかしの仲間からの声も届くのだが、僕はここで立ち止まって考えたい。毎週金曜日の官邸前行動は大飯原発の再稼働をやめさせることは出来なかった。確かに大飯は再稼働している。しかし、官邸前の行動は他の原発の再稼働に大きな影響を与えたことは確かである。もし、この行動がなければ再稼働は次々にやられていたかもしれない。これは十二分に想像できることだ。つまり、官邸前行動という意志の表現は再稼働を目指していた政治的意志《原子力ムラの意志)に衝突し、その広がりを押しとどめているのである。彼らのシナリオは狂わされているのだ。野田内閣がどんなに矛盾に満ちたものであれ、原発ゼロを口にせざるをえなかったのもそうである。政治的意志の結集《表現》は予想以上の影響をあらゆる面に与えている。政治的力を意志力と見てその広がりや浸透という点で考えればそれは予想以上の力を発揮している。逆にいえば、体制や権力側の巻き返しもそれだけ必死になされているのである。
政治的力とは意志力である。国民の意志が共同の意志となること、国民の意志に反する国家意志の存在を変えることが現在の政治的課題である。政治的関係とは意志の関係であり、そのせめぎ合いなのだ。原発問題はそれを具体的に示すサンプルである。国民の意志と既得権益を持つ体制や権力の意志が原発の保持をめぐって対立しているのであり、共同意志(国家意志)としてそれが争われているのだ。国民の内部でも廃止(脱原発)という意志と推進という意志があるように体制や権力内部でもその対立がある。原発の存続《是非》の最終判断を政府がやるのか、規制庁がやるのかの意見対立が浮上してきているが、それは意志決定をなるべく避けたい、意志決定に伴う責任を避けたいということである。これは政府(政治)がやるべきことであるのは言うまでもないことだ。こうした論議が出てくることはそれだけ原発の存続の意志決定が難しくなっていることだが国民の意志としての脱原発の動きが強くなっている証だ。
かつて原発は共同意志(国家意志)として保持され、それに異議申し立てをする部分は一部の国民の意志という限界の中に置かれてきた。それが反原発運動の歴史だった。それが、今、脱原発は国民の意志から共同の意志(国家意志)になる段階にある。歴史的な段階が変わりつつあるのだ。この過程、あるいはその闘いの中に現在はある。脱原発と言う意志が国民の意志であり、共同意志になる過程で、既存の国家意志と対立しているのだ。国家意志の内部での対立もこの過程の現象である。この対立がどのように展開されていくのかは判断の難しいところだが、この間の官邸前行動の持続が新しい局面をこじあけ、それゆえの反対派(原発推進派)の後退と巻き返しを生んでいることも確かである。
原発の存続をめぐる共同意志の対立は政権交代の動きも背後にあって一つの過渡《新段階》にはいりつつある。政党や政治家は選挙を意識し、官僚は政権交代を織り込んで方向を練り直している。こうした動きの中で私たちは大きな意味での持久戦の局面にあるのではないのか。脱原発の国民的意志の広がりの確保とそれを進める政治行動を持久戦が続くという判断の下に考え展開して行くことではないのか。選挙や政党再編、政党間抗争を見ながら、脱原発の意志が持続し保持されて行くことを展望し、それにふさわし行動《表現》を模索するしかない。ここで知恵や工夫があるはずで百万人での国会包囲もその一つである。外の雨音を聞きながらテントの中では連日のように議論が重ねられている。 (M/O)