師走の選挙、さぞ街は騒がしいことだろうと想像するが意外に静かである。例によってメディアは騒いでいるが、人々の気持ちは冷静なのである。これは冷静というよりは醒めているというべきなのかもしれない。三年前の政権交代のかかった選挙への期待が裏切られた気分に変わっているところが大きいのだ。これは簡単には解消しない。アメリカの大統領選挙にも見られた光景であった。
寒さのきつくなったテントの中で談笑しているところに電話がきた。午後の11時も少しを回ったところであろうか。Yさんが危ない。持ちそうもないという連絡だった。Yさんは先週の終わりころに脳内出血で倒れ大阪で入院していた。突然の知らせに場は一瞬シーンとなった。ポツリポツリと彼のことが話だされていた。11時半も過ぎたころには亡くなったという知らせが届いた。重たい気分の中で臨場の通夜のようなことになった。
テントに関係していた人たちのうちで亡くなったのはこれで四人目である。もちろん、これは私たちが知っていて、比較的身近な人でという意味である。私たちの知らないところで亡くなった方もおられるのかもしれないが、この四人はテントに出入りし、よく知られた人たちである。彼らは私たちのこころにどこか重いしこりのようなものを残して行った。Yさんもまた。彼はふっと私たちの中に訪れてその生前の姿や表情で何かを思い起こさせるのだと思う。そして私たちはそこで何事か話し語る。相手ならざる相手に向かって、いや自分に向かってである。
Yさんとは「9条改憲阻止の会」からの付き合いなのであるが、彼は大阪のグループから派遣されているような形で活動をしていた。笑顔が人の警戒を解くところもあり、人懐こさもあって人気があった。3・11以降はテントの立つ前まで私たちは福島の子供たちに箱根の水や果物を運ぶ活動をしていた。彼はその中心的なメンバーの一人であって箱根や伊豆に、また福島に出掛けていた。そしてよく車の中でかつての活動についてあれこれ話をした。これらはとても興味深いものであった。彼はおくびにも出さなかったけれど、ある時代の闘いに中での挫折を背負っていて日々を再起という形で関わっていたのだと推察されるところがあった。人は他者からは想像できないような挫折や屈折、あるいは言葉にならならい世界を背負っているものであるが、それを短い付き会いの中で感得させるようなところがあった。それは彼の人柄と言っていいとのだろがそれだけに得難い人だったのだと思う。
昨年の9月11日にテントが出来てから彼はあたかも主のような存在であった。
テントの奥に座り込んでいたが彼が居る事で安心めいたものを周囲に与えていたのである。テントの初期はこれがどのように存続できるのか見通しも立ち難い中で、権力側との緊張感は強かった。だから、テントを支える面々には心的な重圧のかかる日々だった。個々が想像し、自分なりの闘いでテントを支えると覚悟するしかなかったのであるが、彼はそれを言葉少なく引き受けていて周りには力強い存在となっていた。なかなか、宿泊態勢も整わない日々の中で彼はその多くを背負っていたのだ。彼にはこのテントひろばをつくり維持していくことが、かつての運動を超えて行くことであると考えられていたのかもしれない。そんな希望が彼の腰の据わった行動にはあったのだろうと思う。
彼とは脱原発の運動で全国にテントが出現して、テントで繋がるようなことがあるといいなとよくはなしあった。デモや集会という意思表示の伝統的な形態に併行してもう一つの陣地戦的な運動形態が出現することを望んでいたのだろうか。脱原発の運動が長期的である必然の中でその運動的なありようを考えていたのだと思う。彼には経産省前のテントが持続するだけでなく、社会《生活や地域の場》に向かって降りて行き、またそこから出てくる運動の契機になることがイメージされていたのではないかと推察する。テントはその出発であることが意識されていたのだと思う。脱原発の運動が本当の意味で国民的運動になって行くイメージを話し合ったが、テントが全国に出現するのはその一つだったのだ。
彼は大飯での原発再稼働の日程が浮上するや、大飯の現地にテントを張った。彼は経産省前テントから活動場を大飯に移しその中心として活動した。最初は港の近くで張られたテントは大飯の丸山公園に移ってから本格的なものになった。このテント村を訪れた時には彼は嬉しそうな様子で説明してくれた。経産省前テントとは幾分か様子は違っていたが、それを語るかれの表情は生き生きとしていた。大飯現地での再稼働をめぐる闘いにおいて彼の果たした役割は大きなものがあったと思う。そしてこれは大阪でのテントに引き継がれて行ったし、彼はまたそこでもまた精神的主柱のような存在だったのではないか。彼にしてみれば経産省前のテントひろばから得たものを次の場で実践し、今後の再稼働をめぐる運動や闘いのあり方を示唆するものを生みだしたのだと思う。いつか福島県庁前にテントひろばが出来るといいなと話しあったこともあるが、持続的で社会の深部に向かう闘いを願っていた彼の一端は実現されたのだ。
私たちは一種の敗戦とでも言うべき場所にいつの間にか追いつめられていると感じる他ない日々の中で、安倍が提起した憲法改正の動きに危機感を持って再結集のような形で集まった。その中で私たちは出会った。あれから、国会前の座り込み等いろいろとやってきた。濃霧に遮られたような視界の切り開けない時代の中で闘ってきた。多くの時を過ごす中で気になっていたのは生き急ぐような彼の姿勢だった。周りの誰もが気がつきながらも、また、誰も止められなかったことだ。これには悔いも残るが、でもこれはどうしょうもなかった。ただ、彼はよく生きよく闘ったというのは周りの者の偽らざる感想がこれに対する救いなのか知れないと思うこともある。言いわけかもしれないが…
Yさんよ、私たちは偶然の契機で出会い、偶然のように別れて行く。しかし、その中で何かが残る。それは人の生の中で生き続ける。別れは様々だが死という別れだって同じだよね。君のことは私の中で時に思い出すようにしかないのだとしても、君の笑顔が忘れ難いように君のことも忘れ難いと思う。ただ、今はやはり君と出会えたことをありがとうという言葉でしかいえない。ほんとにありがとう。私のこころに扉はない、かつてに来てくれてひと時を過ごしてくれたらこんな嬉しいことはないと思う。私が呼び出すのだとしても同じ事だ。
テントに訪れた愛媛大学の先生と話したことを記したかったのであるが、訃報に接してのこんな風になってしまった。これはまたの機会に。 (M/O)