テント日誌7/18日経産前省テント広場―312日目…祭りの後の静けさという雰囲気の中で

7月13日(金)の首相官邸前行動と7月16日の代々木公園での「さよなら原発10万人行動」という二つのおおきな行動も終わってテントも静かだ。美空ひばりの「お祭りマンボ」という歌があるが、祭りの後の悲哀に満ちた気分に似ている。悲哀というのと誤解を招きそうで、祭りの後の静けさとでも言うべきだろう。いずれにしても、独特の雰囲気でテントも静かだ。国会や霞が関では院内集会などあり、やすむ暇もなくいろいろの動きがあるが、週末になればまた賑やかになるのだろう、と思う。そうなってもらいたい。

急に暑くなってテントの当番も大変である。扇風機ひとつないのだから、暑いなぁーというのが自然と口をつく挨拶の言葉になっている。真夏日の夜は大変だと思ったが、テントをまくり上げ風通しもよくして快適だった。そういえば、こどものころは風だけが暑さを凌げるものであり、あけっぴろげの家だったことを思い出していた。テントでは蚊よけに香取線香をたいているが、蚊帳でも用いるといいのかもと思った。今時、蚊帳なんてどこの家も持っていないかもしれないが、テントの中には蚊帳がつられていたというのはいいかもしれない。蚊帳なんてしらない子供たちに体験させるのもいいことだろう。

エアコンというのは便利だ。確かに熱帯夜を凌ぐのには欠かせないと言う人もいるだろう。でも、エアコンをつけて寝ると身体がだるいし、健康にいいとは思えぬときもある。文明の機器であるだろうが、我々の生活に必要か、どうか、必要ならどうした場面かを考えてみることが必要だろう。エアコン等は無縁のテントで夜を過ごしているとむかしの田舎での生活と共にこんなことも考えさせてくれる。季節感を感じさせなくする生活が文化的生活であるとされ、そこを支配している利便性について考えめぐらす、それは原発について日常的に考えることである。僕は農村で育ってきたから自然の苛酷さも、自然の生み出す矛盾も知っている。だから、自然の単純な賛美をしたくないし、自然を浪漫の対象にはしない。だが、自然を克服する対象として見る無意識も含めた文明史観(刷りこまれてきたものも含めて)を見直してもいる。

毎週金曜日に現れる意志表示の空間は人々の予測や想像を超えて出現したという意味で自然発生性的に成立しつつあるものと言える。人々(民衆)の政治的空間が歴史的に登場するのは多分に自然発生的であり、意識された政治集団(政治党派やグループ)の指導によってではない。政治集団の指導が大衆化しても同心円的に拡大するだけで、自然発生的なところには届かない。その力も場の形成にも及びつかない。この自然発生的なところに直接民主主義の意味と力があり、間接民主主義が官僚制に支配されていく基盤を壊す力を持つ。確かに、自然発生的なものの問題もあるが、まず、その存在意味を理解し、認識することが重要である。代々木公園での「10万人集会」にも毎週金曜日の行動は影響を与えたが、本当はこの二つの集会は微妙な違いを含んでいる。この違いについて考えているところがあるが、機会あればというところだ。

眠れぬままに深夜の国会通りをあるいた。待機タクシーの運転手と時折雑談を交わしながら、この通りのなかで想像をめぐらしていたのはここを意思表示の場として集まり、そのことで場を場にしめていた人々の行動についてだった。この場についてだった。自分もその一人であるのだが、そのことを考えてめぐらしていた。結論めいたものは出てこなかったし、必要ないが頭から離れない。屋根裏の散歩ならぬ深夜の国会通りの散歩もいいものだというのを発見した。政治家たちが夜な夜な怪談をめぐらしている辺りだろうが。 (M/O)