雨に降り込められテントの中から外を長めているとやはり憂鬱な気分になる。梅雨時に「ながめ暮す」というのは日本ではかつては田植えの季節と密接に関係していたらしい。そして長めという言葉の喚起する欝屈感には田植え時に若い男女が隔離され、禁欲をしいられたことがある。これは折口信夫の説であるが、僕らは子供のころには田植えの季節の華やいだ雰囲気を感受した世代であり、この説は想像力を刺激し、こころ魅かれるところもある。このことは以前にも語ったことのあるのだが、ここで少し述べたいのは季節感についてである。
このテントに泊まり込んだりしながら、何となく思うことは季節感についてだった。コンクリートのビルに囲まれた一隅にテントはあるが、この霞が関界隈は意外と緑も豊かで季節感を感じさせてくれる。季節感は四季折々に変化する感覚であるが日本ではこれが年として循環するところで生まれた。それは年年繰り返されるものであり、特に農耕社会において強く意識されるようになったのかもしれない。季節についての感受性が身体化され、文化的な伝統になったこともよく分かる。例えば、俳句の季語はそれをよく示している。ある意味ではこの季節感は社会観《社会についての意識》にも影響を与えてきた。
これに対して歴史というものの登場がある。歴史は循環するものではなく一回ごとの現象であり、流れていくものであり循環という反復する季節感とは違うものだ。これが社会観に反映されてきたことはいうまでもない。生活感と結び付いた季節感、そして社会観は歴史的な社会観はどう関係しているのだろうか。伝統的な季節感は農耕的、あるいは土俗的なものとして言われてきたが、それは明治時代以降の近代化の中で掘り崩されてきた。これは伝統的な社会観の解体にも関与してきた。他方で歴史的なものは急速に浸透するとともに季節感を変え、同時に社会観を変えてもきた。僕は季節感の変貌と社会観の変貌を重ねて考えているのだが、そこに社会観の現在の問題を見ている。社会観の現在はいわば未成でイメージ化し、身体化することの困難性の中にある。霞ヶ関や永田町の住人たちはどんな社会のイメージや構想を持っているのだろうかとよく想像をするが、これはひるがえって我々にも切実に迫りくるものだ。
テントに泊まり季節感を敏感になりながら、そのことを日本の社会をイメージすることに重ねることをやっている。これは簡単に前に進めない。テントに座りながら自己問答をしていることの一つなのだ。東日本大震災や原発震災が喚起した課題であり、脱原発の意志表示に出てきている人たちの胸の内をよぎっているものでもあると思う。脱原発に立ちあがった人々の心の内で沸騰しているのは解体だけは確実に進む社会のイメージであり、そのもたらす不安とそれを超えて行くものの希求だろうと想像する。
第二テントの入り口には笹が置かれ、笹には短冊が下がっている。ここには様々な願い事が書かれている。7月7日にはテント前で納涼の時(18時から)が持たれ、官邸前に向かってカンショ踊りで短冊を届けに行くという。その後には第にテントで映画も催される。この企画をした人々のこころにあるものは
単なる七夕という行事の活用ではなく、無意識も含めて社会をイメージのうちに取り戻したいという渇望でもあるように思う。
テントでは6月29日の首相官邸前の行動について、とりわけ最後の段階での主催者の取った処置について議論が交わされた。これは主にネットで展開されている議論がこちらにも浸透してきた形である。予想超えて人々の集まりと混雑ぶりに主催者は早目の解散を宣言したことが議論を呼んでいるのだ。官邸前アクションは如何に多くの人が脱原発の意志表示をするかということに主眼が置かれてきたと思う。その意味では権力側の規制を受け入れ人々の結集しやすい方法に意を砕いてきたのだと思う。これが成功し、6月29日は予想超えた人々の集まりになった。主催者や参加者事態の予想を超えた事態が出現したことで対応について戸惑いがあり、主催者が早目の解散で対応したことを非難しても仕方がない。それは当たらないし、野次馬的な面々の非難である。
当日、私も雑踏の中にいて、人の流れが遮断されたりして意志表示に現れた人たちに不満が残ったとことを想像できた。これを今後はどう解決して行くかについて考えも浮かんだ。これは機会がれば主催者の人たちと話ができたらと思った。私は一人の意志表示者として今後の官邸前行動に参加し、それが十二分に行われる努力をしたい。それを規制してかかる警察などとの対応をどうするかということも問題として登場する。これは一人一人の意思表示が予想を超えて人々の集まりになった場合の表現形態《行動形態》として新しい経験をしているのであり、一人ひとりが具体的に考えることだ。権力との衝突を前提にした昔取った杵柄風の考えを呼びもどすつもりはない。それは現在の意志表示の必然と意味を理解していないことだからである。 (M/O)