デュピュイ・永倉千夏子訳『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り―現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012.03を読む(1)

1. 問題の所在

2. システム的悪

以下(2)

3. システム的悪からの脱却

4. 目に見えない悪

以下(3)

5. カタストロフィー

6. テクノ・セントリズムの終焉

以下(4)

7. 有限性の自覚

8. 今後の課題

*注は最終回末尾に一括掲載

1. 問題の所在

資本主義は生産の無政府性あるいは過剰生産を宿命とする。かつて、19世紀から20世紀にかけて、それは約10年周期の経済恐慌を生み出すことで、結果的にではあるが過剰生産を社会的に調整していた。1929年世界恐慌を境に、その後過剰生産は政治的に調整されるようになった。国家が経済をコントロールすることで恐慌を未然に回避しようとしたのである。だが、その間、資本主義は生産規模を縮小したわけではない。アメリカは、第2次世界大戦中から①ゴム、繊維などの人口生産技術開発、②電気通信技術や計算技術開発、③原子力開発(新しいエネルギー源の確立)などを推進してきた。そして戦後には、修正資本主義的な需要拡大政策、エネルギー多消費型産業の形成を通じて、インターネット情報社会と大衆消費社会を確立したのである。いわゆるパックス・アメリカーナの完成である。その影において石油産出諸国・諸民族(OPEC・OAPEC)との対立が激化していった。そして、①ドル・ショック(1971)、②オイル・ショック(1973,79)、③ヴェトナム戦争敗北(1975)のトリプルショックを被り、1980年代には世界最大の赤字国に転落し、ついに④セプテンバー・イレブン(2001.9.11)の悲劇を引き起こすのであった。

こうして<アメリカの平和>時代は終焉した。けれども、その間に欧米で進められたエネルギー政策―原子力開発―は留まるところを知らず、フランスで、ロシアで、ドイツで、過剰生産が維持され、国策としての原発ビジネスが隆盛を極めだした。当該諸国政府は、環境問題が地球大で深刻化しているとのメディア情報を流布させつつ、あるいは二酸化炭素排出権売買を、あるいは原発技術商品ビジネスを国益追求の目玉としてきたのである。

資本主義の公正なルールに基づいてクリーンなエネルギーを扱うビジネスは悪徳でもなければ非合理でもない、という方向に民意を操作して続行されてきた原子力技術開発は、もう一つ、科学の中立性理論に支えられてきた。科学技術それ自体は善でもなければ悪でもない、善悪の問題は、それを開発する者・使用する者の価値観にかかっている、という観念である。あるいはまた、もし悪に傾いたとして、それは最初からの意図ではなかった、という観念である。あるいはまた、大善を為すのに小悪が派生するのならば、それは必要悪として甘んじなければならない、という観念である。

原発技術は100パーセント安全という日本神話がいともたやすく崩壊したフクシマ(2011.3.11)以後、私たちは上記の問題、つまり人類滅亡の原因となる可能性が最も高い原子力技術を開発する者・享受する者における善悪・功罪の基準問題、これをじっくり考えなければならない時に至っている。これまで、私は科学技術の中立性問題を折りに触れて表明して来た。最初は、1970年に書いた「学問論の構築へ向けて」の中で、原水爆禁止運動に関連させて言及した(注1)。しかし、あれから40数年、大項目で論じたことはない。現在は東京電機大学で技術者倫理や身体科学を講ずるものの、当該問題に特化した議論はなして来なかった。ところが、このほど当該問題を正面から扱った著作が翻訳刊行された。ジャン=ピエール・デュピュイ・永倉千夏子訳『チェルノブイリ・ある科学哲学者の怒り―現代の「悪」とカタストロフィー』(明石書店2012年、原著2006年刊)である。ついては、本書を座右において原子力技術に例をみる科学技術と社会の係りを、「善悪・功罪」「中立性」「カタストロフィー」「テクノ・セントリズム」などの観点から検討してみたい。

2. システム的悪

すぐれた技術や製品を保証する基準ないし条件は何か。それは利便性と安全性、経済性だけではない。もう一つ、倫理性がある。ここでは自動車の開発(モータリゼーション)を例にしてみる。自動車は低価格(経済性)で加速力や登坂力のあるもの(利便性)ほど良好だが、走っているうちにエンジンが加熱して発火するもの(安全性欠如)は困る。排気ガスが道路周辺住民の健康を害するものは困る。歩行者を危険な目にあわす道路拡張を伴うものは困る。ひいては社会的紐帯を破壊するようなモータリゼーション(倫理性欠如)ははなはだ困るのである。以上の困りごとを引き起こす可能性をもった技術を製品化するということは、技術者倫理を無視した行為である。これまで製造各社は、往々、技術革新による利便性と経済性の追求を優先してきた。安全性は二の次にしていた。倫理性は資本主義の正義からすると、取るに足らないものだった。安全とか福祉、環境とかは技術の倫理性を確保するのに不可欠の要素であるが、それらは利便性・経済性の前に名目的に掲げられるにすぎず、実際のところは利便性・経済性の犠牲にされてきたのだった。倫理性を軽視したモータリゼーションの行く先には、例えば2000年に発覚した三菱自動車タイヤ脱輪リコール隠しが待ちかまえていたのである。ようするに、モータリゼーションは、近年になって改善されたとはいえ、大枠において諸領域における社会的紐帯を破壊する作用をも有するシステム(倫理性欠如)となったのである。

2007年の正月3日、NHKテレビで作家の五木寛之と塩野七生による新春対談が放送された。その中で五木は、日本における昨今の自殺者数に言及した。ヴェトナム戦争で戦死した米兵の数と比べてなんと多いことか、と生命の大切さを語っていた。苦しい時代、戦争の時代にはらう生命の犠牲、という切り出しだった。それに対して塩野は、日本社会の自殺現象を、平和の時代にはらう犠牲、と言っていた。五木は、平和にも代償が必要なんですかねェ、と洩らしていた。塩野はなぜそのような発言をなしたのか。私が思うに、塩野が長年にわたって関心を示してきたローマ帝国の偉大さは、万民法で異邦人に寛容を示したことなのだが、それは圧倒的な軍事力で奴隷反乱や異民族反抗を抑えつけるという犠牲の上に実現していたのである。説得力ある塩野的な観点からすれば、年間3万人を超える自殺者の存在は、日本におけるコンピュータリゼーション社会を維持する必要悪=犠牲を意味する。原因のトップは健康問題・経済生活問題であるが、その背景にはライフスタイルを公私にわたって根本からかえてきたコンピュータリゼーションがある。高度成長期におけるモータリゼーションが果たした負の役割を21世紀にはコンピュータリゼーションが演じているのである。だが、自殺者の存在とその増加は、システムの観点からみて現代の高度情報社会が黙認しているのである。 

さて、話題を原子力に戻そう。フクシマが生じるその日(2011.3.11)まで、日本の内外で、豊かさを維持する前提として豊かなエネルギー資源を確保しようという動向が日増しに強まっていた。その目的実現の方途として、日本では原子力開発が国是としてシステマティックに推進されてきたのだった。日本の原発技術はチェルノブイリのように低レベルでありはしない、絶対に安全であり間違っても原子炉の事故は起きない、と政府関係機関は豪語してきた。事故の起きないものにリスクはありえない、存在しないもの、想定されないものへの対応マニュアルは要らない、ということだった。そのような認識の下で破局的な事態が発生した場合、その災禍の責任は何処にあると見るべきか。想定できないものに対する責任は、だれにもとることが出来ない。想定しないでいい構造に責任がある。その際、その構造を支えてきたものがエネルギーを巡る日本の社会システム(生産力主義、一極集中主義など)なのだった。そして、このような論点を科学哲学の領域で先鋭化した人物がフランスのエコールポリテクニーク名誉教授ジャン=ピエール・デュピュイであり、その代表作がこのほど明石書店から永倉千夏子訳で翻訳刊行された『チェルノブイリ・ある科学哲学者の怒り―悪意なき悪とカタストロフィー』である。訳者あとがきにはこう記されている。

「本書の提出する問題は、およそ次のようなものだ。(1)チェルノブイリというカタストロフィーは、何であったのか、被害評価を確定するものがかくも難しいのはなぜなのか(被害評価の不確定性)。(2)それを生んだ背景は何なのか(アーレントも言う『短見』に基づく行政システムが生み出すシステム的悪)。(3)それを自己正当化しリスクが現実化してさえ影響関係の有責性を科学的に『排除』する科学的合理性、(4)そのことが一般の人々のとらえる有責性と乖離していることに気づかない、もしくは気づこうとしない科学技術官僚(テクノクラート)の道徳的感受性の欠如、などである。」(注2)

それでは、いよいよ本書本論部分に分け入って、必要箇所を引用しよう。

「我々は今日、巨大な悪は悪意が完全に不在であるところから引き起こされるということを知っている。巨大な責任は、完全な悪意の不在と対になることもあり得るということも。我々の生活領域に断絶をもうけるような巨大災害は、人間の悪意や愚行の所産というわけではなく、むしろ短見からくるものだ。」「この悪は、道徳的悪でもなければ自然的悪でもない――この第三のタイプの悪を、私はシステム的(・・・・・)悪(・)と呼んでいる。このシステム的悪の形体が、聖なるものの形体と相同であることを示そう。

かつて自然の要素によっても近親憎悪によっても引き起こされてきた悪は、人間にとって苦悩の源であり続けてきた。しかし、システム的悪はと言えば、それは人間にとっていささかも気苦労の種となることはない。おそらく、敵はあまりに近いところにいる。なぜなら、敵とは自分自身なのだから。」「我々は、知ってはいるが、自分たちの知っていることを信じてはいない。形而上学的立場としての覚醒せる破局論は、カタストロフィーの持つある特徴からくる障害を乗り越えることを目的にしている。それは、カタストロフィーが起こると信ずることができないという特徴である。そしてこの障害は、災い・悪はシステム的に存在するという点に基づいて考えるならば、乗り越えることができるのだ。災い・悪は我々の領域を越えている。災い・悪は、我々には運命のようなものである。我々からそれをより遠ざけておくことができるように、それを捉えようではないか。(中略)私は、自然災害と道徳的災害、環境災害についての考察を温めることで、この概念を形成した。私に欠けていたのは、産業的災害のケースであった。それゆえ、私はチェルノブイリに来たのである。」(注3)

長い引用となったが、私が一番注目するのは「巨大な責任は、完全な悪意の不在と対になることもあり得る」と、「敵はあまりに近いところにいる。なぜなら、敵、それは自分自身だからだ」のフレーズである。その問題をここでは戦争に置き換えて検討してみたい。

ある国家に徴兵された市民が別の国家の市民を殺害する事態、つまり国家間戦争で、このフレーズが出てきそうである。とくに、ヒロシマ・ナガサキの巨大な責任、これは国際法遵守下に行なわれる戦争というシステムの下で生じた悪なのであるが、発生の根源には自由(権利)と兵役(義務)を全うする国民=自分自身が存在しているのである。そのようなシステム的悪から逃れるには徴兵忌避では解決にならない。それはシステム内における義務の放棄にすぎないからだ。原発についてはどうか。デュピュイは明確には示していない。「災い・悪は、我々には運命のようなものである。我々からそれをより遠ざけておくことができるように、それを捉えようではないか」と言うくらいの程度である。

それでは、せっかく「システム的悪」という造語を用意した意図なり目的なりが半分しか実現しないことになる。私はその先に向かいたい。「我々からそれをより遠ざけておく」方法は唯一、ジョゼフ・プルードンが19世紀に言ったように行動することだ。すなわち、システムを能動的に維持している部分から、それを受動的に維持している部分が分離することだ。「労働者階級が、もしまじめに考えるのだったら、もし幻想でないものを求めているのだったら、しっかりおぼえていてもらいたい。何よりもまず保護者と切れることだ。これ以上、政府や反対派に深入りせず、今後は自分自身によって、自分自身のために行動することだ。権力をもっているとか、無力であるとかいうことは、交互的なことだ。」(注4)

保護者と切れる、とはどういうことか。フランチェスコ修道士のように隠遁して暮らすことか。シモーヌ・ヴェイユのように、豊かで幸福な生活を離れ、劣悪で不幸な生活をおくる人びとの地平で自らも生き、死んでいくということか。あるいはボリース・ヴィークトロヴィチ・サーヴィンコフのように、諸悪の根源を抹殺するべくテロリズムを敢行するということか。

保護者と切れる、ということは、私なりに換言すれば歴史的な意味での近代ないし近代主義と切れることである。そのことを、ギニア・ビサウ解放指導者アミルカル・カブラルの思想を紹介しつつ説明しよう。―(2)に続く―

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