1.問題の所在
2.システム的悪
以上(1)以下(2)
3.システム的悪からの脱却
4.目に見えない悪
以下(3)
5.カタストロフィー
6.テクノ・セントリズムの終焉
以下(4)
7.有限性の自覚
8.今後の課題
*注は最終回末尾に一括掲載
3 システム的悪からの脱却
20世紀、特にその後半、情報通信・交通運輸部門におけるハイテク・イノベーションの恩恵を受けて、諸国民ないし諸民族はいわゆるグローバリゼーションを達成してきた。通例「全世界の一体化」などと翻訳されるグローバリゼーションは、世界大で絶え間なく変動しつつ同時進行する政治的・経済的諸情勢を人々が的確に把握し、自身の行動に対する実際的にして合理的な目標ないし指針を確定しうるという点で、大きな利点を有する。個人や一団体の特殊にしてローカルな活動が情報のグローバルなネットワークに支えられ、多大な付加価値を産みだしていく。
しかしグローバリゼーションは、反面、スリーマイル(1979年)・チェルノブイリ(1986年)に先例をみる環境破壊といったマイナスの資本産出をも推し進め、資本主義的な市場原理に見合うよう、地域や風土に固有の文物制度や社会習慣、自然環境を世界各地でどんどん解体し劣化させてきた。そこで、今後はグローバリゼーションと切れるべく、クレオリゼーションに着手することである。経済や文化のグローバリゼーションがここかしこで展開するようになれば、発展の段階や類型を異にした種々さまざまな経済や文化の相互接触が見られ、そこに個性あふれるクレオリゼーションが併発すると考えられる。クレオール的な文化は、20世紀にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカといった政治経済的マイノリティ・周辺地域にしか妥当しないように思われていた。しかし21世紀の扉がまさに開かんとしている今日、欧米の価値基準に基づいて展開してきたグローバリゼーションはもはや欧米の人々にすら豊かな実りを保障しはしなくなっている。1年間に3万人以上の自殺者がでるようになった日本は、どう取り繕おうが、豊かな国であるはずがない。今こそ、価値基準の多様性を特徴とするクレオリゼーションへと発想や方針を転換するべきなのである。
ところで、アフリカの指導者たち知識人たちは、<ユーロ・アメリカン・スタンダードとしての近代>を早くから拒絶していた。その代表にギニア・ビサウ解放の指導者アミルカル・カブラル(1924~73)がいる(注5)。彼は、宗主国ポルトガルからギニア・ビサウの独立を勝ち取るに際して、指導理念として「文化による抵抗」を掲げた。カブラルにとって文化は、アフリカ人民のアイデンティティとディグニティに深くかかわる。それは闘争によって生まれ、また闘争そのものを引張っていく。カブラルにとって優れた文化とは、ただそれのみという固有性の中に普遍的なものを体現する、そのような価値を有する文化、いわば[絶対的文化]である。他との比較における優劣でなく、人類に普遍的と評価されることがらと一民族に固有と評価されることがらとの双方不可欠なものの体現度をみての一文化内的な優劣である。
カブラルは諸民族の「文化の差異」に注目する。その度合いが大きければ大きいほど、一民族が他民族を征服・支配しにくくなるという。したがってまた、その差異が大きいほど、抑圧者に対する被抑圧者の抵抗運動が強力となる。その際、カブラルは文化の差異に注目するのであって、文化の高低を云々しているのでない点が重要である。彼は個々の民族に備わる文化を、絶対的文化――他との比較でなく、比較しえない唯一性を備えた文化――とみて、これを民族解放闘争の武器、抵抗運動の環とする。カブラルの理論からすると、アフリカの人々がもし欧米の物質文明を摂取したとしても、それはアフリカ文化の中に欧米文化を呑み込む行為としての摂取であって、同化としてのそれであってはならないのである。カブラルの用語で表現するならば、森を豊かにする欧米文化はすすんで摂取するが、森を破壊する欧米文化は断固として拒絶するのである。
このように見てくると、近代においてイギリスを先頭に形成されたヨーロッパ文化=近代ヨーロッパは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸大陸の諸民族・諸文化にとって普遍的な目標を内包しているようには思われなかったといえる。例えばアフリカ文化は、一度はヨーロッパ文化によって原始的と卑下され破壊されさえした。しかしカブラルはギニア・ビサウ民衆に対し、そのようなヨーロッパ文化を呑み込んで〈精神の再アフリカ化〉をはかるよう求め、民衆はそれを実践した。こうしてヨーロッパ文化はアフリカ文化に包摂され、さらには多文化共生という特徴をもつ総合的にして連合的な文化によって包摂されることになったのである。総合的といっても、それは単一統合や一極集中を意味しない。ヨーロッパ文化もアフリカ文化も、ともに固有性の中に普遍的なものを体現し、多元的な特徴をもつ連合的文化の一部分となるのである。
戦争との関連で言えば、欧米文化に端を発する日本国憲法(第9条)を全世界のもの、トランス・ナショナルなものとすることである。そのことはデュピュイの主張と一致する。「解決法は、たとえ法をつくるのが人間であり、それができるのも人間であるとしても、法を人間の気まぐれや情熱の及ばぬものとすることである。」(注6)こうして、ヨーロッパ中心的な文化史=世界史は、いまやアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸大陸の諸民族・諸文化によって深く耕されることとなり、その先にあらためて普遍的で総合的な文化史=世界史が再構築されることになる。いまや、横倒しの世界史(注7)がポジティヴに再生されようとしているのである。デュピュイが理論化した「システム的悪」からの脱却を私なりに提案すれば以上のようになる。
4 目に見えない悪
さて、ここで「目に見えない悪」の問題に入ろう。まず、デュピュイの言う「目に見えない」とは、巧妙に隠されているから見えないというものでなく、五感では察知できないというもののことである。「ウクライナやベラルーシの美しくも放射能に汚染された景色の中を辿ると、身がこわばる。何の痕跡も見えないからだ。災禍の跡すなわち災い・悪は目に見えない。」(注8)デュピュイは本書の中で、悪に関連してこうも記している。原発推進支持者のジョルジュ・シャルパクの著書『チェルノブイリからチェルノブイリへ』へのコメントである。
「シャルパクは、ノーベル物理学賞の受賞者で、科学を大衆の理解可能なものにするべく常に先頭に立ってきた。アレバ社の倫理委員会の委員でもある。その彼の見解に意味がないとは思われないだろう。さて私は表紙から4ページ目に何を読んだのだろうか。『我々は、新たなるチェルノブイリを避けて通ることはできない。人類は、来るべき数十年の間に、何十億人もの人口増加をみるだろう。それゆえ、原子力エネルギーは、これまで以上になくてはならぬものとなっている。しかし(・・・)、チェルノブイリ(・・・・・・・)の(・)事故(・・)で(・)は(・)、何(・)万人(・・)も(・)の(・)死者(・・)を(・)出した(・・・)はず(・・)だ(・)。』一読して私は納得した。この推定は正しいものであり、きわめて合理的であると同時に倫理にも適っている。」(注9)
こちらはいわば「必要悪」のようである。塩野七生のいう平和の犠牲と同種である。何十億の生存の為には何万人もの犠牲は受け入れざるを得ないリスクだということである。もっとも、デュピュイはここで「しかし(・・・)、チェルノブイリ(・・・・・・・)の(・)事故(・・)で(・)は(・)、何(・)万人(・・)も(・)の(・)死者(・・)を(・)出した(・・・)はず(・・)だ(・)」の方に力点を置いて甚大な犠牲者が出たことを認めるシャルパクをプラスに評価している。必ずしも必要悪を批判的に論評しているわけではない。私はここではデュピュイとは別の読みを行なっている。
ところで、目に見えない存在の代表は神であろう。ただし、これは信仰しない者には見えないが信仰するものには心の眼で見える。悪魔はどうか。これとて、信仰しない者には見えないが、信仰する者には心の眼でみえる。放射線という目に見えない悪に立ち入る前に、神と悪魔、あるいは正義と邪悪、その対概念に関して検討したい。
前近代人や野生人のおおらかな性格と対照的に、現代人・文明人の多くは一面的に正義を愛し排他的に悪を憎む。例えば、ファシズムを一面的に非合理主義=悪に結びつける。けれども、そのファシズムは民主主義の時代に民主主義を必要条件にして成立したのであった。合理主義=正義、非合理主義=悪、という分断的発想は、必ずしも成り立たち得ない。
第2次世界大戦中イタリア解放のパルチザンとして活躍したキューバ生まれのイタリア人イタロ・カルヴィーノは、1952年に寓話的短編小説『まっぷたつの子爵』を発表し、その中で次のような寓話を挿入した。「トルコ軍の大砲に、子爵はふっとばされて、体がまっぷたつ、半身になってしまった。しかも、その半身は悪の部分がつまって、領地へ帰ってきたものだから、領民は大迷惑。ところが、残りの半身も、やがて帰ってきた。こちらのほうは、善の部分だけがつまっているのだが、それは領民にとっては、悪の半身以上に、迷惑な存在だった。」(注10)
「善」とか「悪」は、言葉として発せられた瞬間に、何かわかったような気になるものである。言葉は、それが具体的なものを指すのでなく理念的なものを指す場合、一人歩きしてフェティシュなはたらきをすることがある。「愛」「平和」「憎悪」「不幸」、そうした言葉に接すると人は、具体的現実という契機を省いて、いっせいに同じような価値判断をしてしまう。あるときには合理主義が悪とみえ、あるときには非合理主義が正義とみえることは自然な成り行きだということである。私の研究テーマ「フェティシズム」からすると、ものごとは関係論的に観察される。正義も悪も、普遍で不変の実体や本質があると考えるのでなく、さまざまな個人間や組織間、国家間において交互的・相関的に決定される間主観的概念なのである。デュピュイは彼なりの見解を述べている。「ミシェル・セールの言葉を借りるならば、合理的なものは非合理的なものの中に稠密に存在し、非合理的なものは合理的なものの中に稠密に存在するのである。」(注11)
かつてイギリスでは、主権者の国民は国内では同質的個人として政治的自由を分有していた。けれどもその同じイギリス国民は、インド等海外植民地住民に対しては民族的同質性の外におき、政治的自由を与えないでいた。すなわち、国内という関係では民主主義であるものが国外との関係では排外主義として機能する。また、1930年代40年代のドイツ国民は、同一国内からユダヤ人など非ゲルマン人を排除して失業者を600万から100万以下に減らした。ゲルマン人だけで国民投票を実施した。すなわち、ゲルマン人の内部では投票率百パーセントに近い理想的な民主主義であるものが、ユダヤ人や侵略相手国との間ではファシズムとして機能したのだった。ある制度や理念は、ある関係ではポジティヴに作用し、またある別の関係ではネガティヴに作用する。そのどちらか一方を切り離してしまっては、当該の制度や理念は認識不可能である。
2001年ニューヨーク9・11以後、アメリカ政府は欧米=キリスト教=正義、アラブ=イスラム教=悪の分断を強調した。その姿勢は21世紀にふさわしくない。他者のアイデンティティを尊重する精神がせつに求められている。
ところで、アイデンティティには、個人的なものと集団的なものがある。人は、あるときは集団のなかに安堵をもとめ、またあるときはそれを個人のなかに求める。このように、集団的アイデンティティと個人的アイデンティティは交互に行きつ戻りつしているのである。問題は、双方のどちらかに加勢することではない。双方を行きつ戻りつする運動のなかに浮き上がってくるアイデンティティ、あるいは、個人=人格を基本単位とした上での、そうした個の連合としての集団的アイデンティティ、すなわち「間主観的アイデンティティ」を獲得することである。
さて、放射線であるが、これは見えないのだから、原発近辺の汚染地帯であっても、日常生活のレベルでは存在しないも同様である。あるいはその存在を知らされなければ「存在しない」のである。デュピュイは言う。「活動する清算人たちを写した写真もある。2分以上いると致死量の放射線を浴びる恐れのある原子炉の屋根の上で。目には見えないが致死量の放射線を放出している巨大な開口部に砂とホウ酸を投下するヘリコプターの中で。遠隔操作の機械―その回路は放射線で焼かれるであろう―を操作する人。トラック、残土、残骸、もつれたホースなどの墓場。それはカオス、恐怖である。」(注12)
事態や状況を以上のような場面にあてはめるとして、汚染地帯の生活者は次のようである。「飢えたままでいるか、それとも自家生産物を口にして死に至るかという悲惨なジレンマの中で、どう生きていったらよいのだろうか。」(注13) 文字通り、目に見えない悪に仕掛けられたジレンマである。レイモンド・ブリックス原作のアニメ映画『風が吹くとき』(日本語版監修・大島渚、1987年)を見た人は知っていよう。イギリスの田舎で余生を送っている老夫婦は核ミサイル戦争の犠牲となるがその場を離れず、放射線が2人を蝕み続けるが日常生活を全うして死んでゆく。見えない悪に身体は破壊されつくすが、人格のアイデンティティと精神のディグニティを破壊されずに、である。
見えない悪に立ち向かう、その構えは、一人(私)の個人的アイデンティティを基盤とし、これともう一人(あなた)の個人的アイデンティティとが交互する「間主観的アイデンティティ」の形成を促すであろう。立ち向かう先、相手はカタストロフィーとテクノ・セントリズムである。
―(3)に続く―
(Copyright©2012 ISHIZUKA Masahide All Rights Reserved.)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0796 :120312〕