デュピュイ・永倉千夏子訳『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り―現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012.03を読む(3)

1.問題の所在

2.システム的悪

以上(1)

3.システム的悪からの脱却

4.目に見えない悪

以上(2)以下(3)

5.カタストロフィー

6.テクノ・セントリズムの終焉

以下(4)

7.有限性の自覚

8.今後の課題

*注は最終回末尾に一括掲載

5.カタストロフィー

デュピュイは本書の中で頻繁に術語「カタストロフィー」を用いる。訳者は一部で、これを「大惨事」(注14)と翻訳している。本文から使用例を拾ってみよう。「チェルノブイリの大惨事に起因する死者の数の見積もりは、通常ではあり得ないほど幅広く分散している。何しろそれは1から1万までの幅にわたっているのだから! 私が示したのは、この著しい乖離はまさに、低線量の放射線の影響をどうとらえるかについて対立する見方が存在するということからきているということだ。ある人は、ある値を下回ると病気の罹患率および致死率が性格に言えばゼロに等しくなるような値が存在すると考えており、別の人々は、健康に対する影響は、取るに足りぬような線量であっても、被曝した線量に比例すると主張している。チェルノブイリの大惨事を総括する公式報告では、原則として後者の比例するという見方が採用されている。しかし報告書は、その見方を被災した住民のきわめて限定された部分集合に当てはめているにすぎず、今日もなお低線量にさらされている数百万の人々は排除されているのである。このようないかさまは本当に言語道断だ。そしてそれは(フクシマ以後の―石塚)日本の場合にも繰り返されるおそれが十分にあるのだ。」(注15)

私は、カタストロフィーについて、私なりの定義をもっているが、それを翻訳するならば「大惨事」よりも「破局」がふさわしい。それはそれとして、カタストロフィーには大きく分けて2つの類型がある。一つは現象のそれ、今一つは心理のそれである。フクシマを例にすると、民主党政府は、後者の拡大を恐れて前者の詳細を隠蔽した。チェルノブイリもスリーマイル島も大枠では同じである。デュピュイは力説する。

「核の支配者たちは、自らの機械を恐れているわけではない。彼らが恐れているのは人間の恐れである。彼らは、この人間の恐れが次々と『連鎖反応』を引き起こすという形で彼らの機械と同じように働くと見ている。しかし彼らは、物理学の法則に従う以外にない中性子ならばコントロールできると思っているが、人間の非合理性を前にしては自分たちが無力であると認めるだろう。なぜなら、いかなる法も人間の狂気の沙汰は押さえられないのだから。人々のパニックを目の当たりにすると、彼らは恐れを抱き、なす術もなく、機密を守ろうとする。もっとも、時としてそれは嘘である場合もあるのだが。」(注16)

人は、カタストロフィー(大惨事・大災害・終末的破局)が起こると予感すると、これを回避するか、乗り越える方法を考えだそうとする。しかし、回避できたり乗り越えできたりすれば、それはカタストロフィーではなくなる。絶対に回避できず乗り越えられないもの、それがカタストロフィーである。したがって、カタストロフィーは結果的に認識できるだけである。そうであれば、いっそ、カタストロフィーを察知しないシステムを構築するのがよいこととなる。デュピュイは知己の一人から以下の言葉を聞かされた。「チェルノブイリは、ソヴィエトの事故であって、原子力の事故ではないのだよ。」(注17)ソヴィエトの事故なら回避や乗り越えが可能だという意味になる。反面、もし原子力の事故であればカタストロフィー=人類破滅ということを意味する。

しかし人間社会は例外を設定して生き延びようとしてきた。歴史上というか神話上というか、かつて、カトストロフィーをマイナス(人類滅亡)からプラス(人類救済)に転じる方法が考案されてきた。神話的ファナティシズムと歴史的ファナティシズムである。前者は神が激しく怒るところから発生した。ほんの人にぎりの人間しか生き残れなかったものの、ノアの洪水がその典型である。後者は、自国内外の異教徒・異民族は人間ではないとの観念を下地にしたエスノサイドやジェノサイドである。あるいはまた、成功したためしはないものの、敵対する者への無差別暴力をもってする革命なども後者に括ることができるかもしれない。2001年9月11日にニューヨーク・ワシントンで発生した大惨劇は、アメリカン・グローバリゼーションに追い詰められた諸勢力には世紀の吉報だった。その後アメリカのブッシュ大統領は、なかばアルカイダへの報復の一環として、またなかば石油利権の独占をねらって、2003年3月から国連決議を経ないまま「悪の枢軸」すなわちフセイン独裁下のイラクを武力攻撃し、甚大な数の民間人死傷者をだした。これはアメリカ国民の心理からカタストロフィーの不安を払拭する対症療法だった。

さて、原子力はどうか。事故であれ事件であれ、原子炉が破壊され放射線が世界に飛散したならばカトストロフィーはマイナスに作用し、地上はせいぜい「猿の惑星」(ピエール・ブール原作のアメリカ映画)となるくらいだろう。だが、科学者はそうならずに済む手立てを確保できると信じている。それには一つの条件がある。民衆の側にカタストロフィーを予感させるような情報を与えないことだ。万が一、それが核の専門家(テクノクラート)の外部に漏れると、社会は群衆パニックに陥る。だから、「チェルノブイリは、ソヴィエトの事故であって、原子力の事故ではないのだよ」と言い放つのが最善なのだった。

一度パニックが起これば、対症療法はないことを専門家たちはよく知っている。フクシマの惨劇は想定外の地震と津波によるものであり、核技術それ自体に原因はない、と結論するにはあまりに無様な事後展開となった。にもかかわらず現在のところ日本にパニックが生じていないのは、専門家の力量によるのでなく、その後同規模以上の地震が発生していないからにすぎない。

ルネ・ジラールを愛読するデュピュイは、9.11に関連して以下の発言をなしている。「なぜアメリカ人たちは、かつてツインタワーがそびえていた場所を『聖なる空間』と呼ぶのだろうか。おそらくは一つの野蛮な行為が21世紀の恐怖への扉を開いたその場所で、彼らはどんな聖なるものを崇拝しているのだろうか。思うに、テロリスムの行為の場所を聖なるものにしているもの、それはその行為の舞台となった場所で行われた、暴力そのものである。」(注18)

一方には「リメンバー・パールハーバー」とも「悪の枢軸」とも叫んで報復戦争を支持するアメリカ人がいる。しかし他方には、グラウンド・ゼロを崇拝するアメリカ人、自らコントロールできない、予期せぬ暴力の前に、自らが跪くアメリカ人がいる。因果を合理的に突きとめられない現象は科学者の判断の埒外に置かれる。あとは、その場その時の風土的心理や時代思潮に任せるのみである。そうであるならば、その後はジェームズ・フレイザー著『金枝篇』の中に記された動物崇拝に「聖なる空間」信仰原因探索のヒントを探すこととなる。目の前でどうすることもできないまま、ワニにわが子を食い殺された母親は、以後、そのワニのウロコや歯を守護フェテシュに選定するのである。(注19)

6.テクノ・セントリズムの終焉

デュピュイは本書の中で、科学批判、専門家批判を行なっている。「専門家たちは、自分たちが何をしているのか、考えていない。それが最大の危険なのだ。」「私があえて示唆するとすれば、専門家による評価を望ましい方向に改革するためには、専門家を志望する者には皆、しっかりした哲学の基礎的訓練を受けることを義務づける必要があるのではないかということだ。」「科学は中立であるどころではない。科学は、それ自体のうちに、一つの意図を持っている。科学は一つの形而上学を現実に完成させたものだ。」「テクノクラシーはこのような保障(原子力の安全性―石塚)を与えることに関しては、無能である。その理由は本質的なもので、状況によるものではない。それは、テクノクラシーは、さまざまな人間的現象のうち非合理的と判断したことには意味を与えることができないということなのだ。」「とりわけ、専門家の狭い意味での合理主義的では、人間が、人類に対し、最大限の悪をなすために自殺することもできるなど予想だにできないのだ。」(注20)

デュピュイは専門家を俎上にのせるが、ここで私は社会のオピニオン・リーダたちをそうする。核の研究とその応用に対する否定的論者の多くは、核の誤用ないし核戦争は地上の全人類とその文明をもろともに絶滅させてしまうという内容を根拠に議論をする。また、核の研究とその応用に対する肯定的論者の多くは、原子力の安全性は日進月歩の勢いで高まっており、全世界を一気に破滅に導く意味での核の誤用を想定する方こそ、常軌を逸しているという内容で反批判を展開する。また前者の多くは、核の汚染によって地球上を数十億年前の微生物の世界に引き戻してはならない、と警告し、後者の多くは原子力(科学・技術)を放棄して地球上を原始人の世界に引き戻してはならない、と警告する。

こうした議論に接するとき、我々は核をめぐる諸問題はなにか純粋に自然科学上の問題でしかないような錯覚に陥る。つまり、核使用上での百パーセント安全性も、その予想の外での失敗も、ともに科学研究のこんにち的ないし近未来的“水準”にかかっている、という具合である。そのような議論の土俵にのっかると、例えば核廃絶運動の“正当性”の証明――すなわち核の“安全性”――は現代科学の神話である、との決定的な証明は、地球的規模での核汚染と人類滅亡の体験以外に不可能となるのである。スリーマイル島やチェルノブイリ、フクシマでの“前兆”を持ち出してみても、それはたんなる初歩的なつまづきでしかなく、また将来的に完成された核エネルギー機構からみたなら、ジョン・ケイとワット以上の落差がある、との反論が提出されよう。その方が、科学技術の威力に絶大な信頼をおく現代人に対しては、説得力を増すのである。ようするにとにかく、核を人類の利器にするか武器にするかという議論とは別個に、たとえ原子力の分野に限定してであれ、科学技術の進歩の度をストップさせることは問題解決のキーを宇宙空間に放出するに等しい、というところにおさまるのである。してみると、反核運動というのは“いまラダイト運動”にすら見えてくる。

ところで、もっとも熱心な反核指導者・運動家の中には宗教人がいる。核廃絶運動を推進する人びとは政治家や思想家、社会運動家である必要はない。“この緑豊かな地球を救え! 人類絶滅を許すな!”のスローガンは、資本主義・社会主義などのイデオロギーを超えている。その手法は一にかかって危機意識による反核派=反体制派の煽動である。核に代え得る新エネルギーを即座に提示し得ない以上、反核指導者の目標は、結果的には核開発以前の昔への回帰ということになるのである。その論旨を誇張して述べれば、原子炉によって各種の人工放射性同位元素が大量生産されるようになったおかげで達成された医学上の進歩――放射線療法など――もまた、捨て去られることになる。原子力開発の中止によるダメージはそれほどに大きい。

それでは“いまラダイト運動”ごとき核廃絶運動は、まったくの徒労、“社会の迷惑”でしかないのか。実状は違うであろう。現在欧米そのほか各地で組織されている核廃絶運動には、たいへん重要な世界史的使命が備わっているのである。あげつらっているスローガンはなるほど終末論的なイメージ、反文明的な装いでプンプンしている。だが、核廃絶運動は、既存の体制総体への反抗に向かうのだ。“いまラダイト運動”は、核打ち壊し運動をするつもりで、実は既存の世界秩序打ち壊しへと歩を進めていくのだ。技術を憎むつもりでいて、実は技術のこんにち的保持者・制御者を憎んでいるのだ。一部の核廃絶指導者は、なるほど核の廃絶は望むが、これを凌ぐような――環境汚染を伴わず再生産可能であるような――新エネルギーの開発へと向かう先端技術には絶大な信頼を置いている。ようするに、こんにち以後の核廃絶運動の狙いは、技術の進歩の停止としての核廃絶というのではなく、技術の革新、そのかぎりなき運動の先に生じるであろう核廃絶に定められるべきなのである。またそれと同時に、欧米ほかの原子力行政を批判することによって、技術の担い手の変革、技術の革新を生み出す能力ある社会システムへの移行に定められるべきである。これこそ、先に私がプルードンを参考に述べた、近代からの分離の内実なのである。

かつて1970年、私は“学問=科学はイデオロギーを内包する”と書いて、学問の中立性がペテンであることを説いたが、その立場は現在も不変である。

「支配イデオロギーをつきくずす思想は如何なる意味があろうとも支配イデオロギーではなく、対立する反逆思想とみなされたのである。科学の『中立性』自身は、主張そのものが思想だった。支配者は、己れに害なき(あるいは利ある)思想に対しては、その思想の『中立性』を必ずしも要せず、しかも『中立性』の幻想をうえつけ、支配の思想を万人に普遍的利益を与えるものとして宣伝する。思想の『中立性』は常に思想の『支配性』を隠蔽するために用いられるのである。ガリレイは、『科学は中立である』と信じていた。その宣言はローマ教会には何の役にも立たなかった。そのことは、ガリレイの主張が真に『科学=学問』を理解していたのではなく、かえってローマ教会こそが真に『科学=学問』のもつ意味を歴史の中で示したにすぎなかったのである。」(注21)

私にしてみると、核廃絶運動はまさにイデオロギーの転換による“科学の変革”を促すものなのである。学問=科学・技術は変革されてこそ時代に奉仕するものとなる。21世紀のそれはハイ・テクノロジー至上主義(テクノ・セントリズム)やエネルギーの一極集中主義をイデオロギーとしたのでは、社会を破壊してしまう。さまざまな意味でハイブリッドである必要が生まれている。私の術語では「ローカル・テクノロジー」「ローカル・エナジー」となる。

世に謂うローテクとは、旧式の技術のことをさす。そうであるなら、あらゆる技術は開発当初はハイテクであっても、遅かれ早かれローテクになりさがる。ハイテクとローテクについて、そのような定義を下したのでは、2つの言葉に固有性は生まれない。そこで、技術を自力=ローテクと他力=ハイテクの2つに区分してみてはどうだろうか。停電しても関係なく動く技術:人力車・人力発電などは自力技術である。それに対して、停電したら動かない技術:電気・電子製品一般は他力技術である。あるいはまた、身体の(自然な)動きを維持し補強する技術ならローテクであり、反対に身体の(自然な)動きとは相対的に別個の動きを作り出す技術ならハイテクである。

動力で分類すると、自転車に代表される人力(物理的)機械はローテクで、電気洗濯機・冷蔵庫などの電動(電気的)機械や携帯電話・デジタルカメラなど電子(IT的)機器はハイテクである。そのほかのエネルギーでみると、自然力(太陽エネルギー・水力・風力・火力など)はそれのみであればローテクに関係し、電気力(電磁誘導によるエネルギー)や原子力(核融合および核分裂によるエネルギー)はハイテクである。

おおきく概念区別をすると、ローテクは人の不健康と苦痛を軽減し心を豊かにする。それに対して、ハイテクは人の健康と楽しみを増幅しモノを豊かにする。どちらも大切であるが、ハイテクは、ローテクと比べて環境破壊をもたらす傾向が強い。そのことを踏まえるならば技術の基礎はいつまでも廃れないローテクであろう。優れた技術は永続的にして普遍的なのである。

けれども、技術にはロー・ハイ2種にくわえ、もう一つある。地域に根ざした技術という意味でのローカル・テクノロジーである。これは上記2種の技術ロー・ハイのいずれをも取りこむ。地域にとって相応しい技術であれば、ローもハイも併用し、ドンドン取り込み、ユニット(結合)し、アマルガム(融合)にする。それが、資源問題と環境問題の壁にはばまれている21世紀人の選択するべき技術革新というもの。資源の地産地消に資する[人と技術の地産地消]を確立しようではないか。

たとえば、かつて農山村において粉引きなどの動力に用いられた水車は、現在ではマイクロ小水力発電に転用されている(注22)。都会の駅では、改札口を通過する乗客が踏む圧力で電気をおこしている。いずれもロー・ハイのユニットである。あるいは、伝統的建築技術で建てられた木造家屋のいくつかは、数百年の風雪に耐えて現存している。そのようなロー・ハイのユニットこそ、エネルギー自立(サスティナブルな地産地消)を取り込んだローカル・テクノロジーなのである。地域に根ざした技術という意味でのローカル・テクノロジーであれば、リスクは最小限に抑えられ、かつそれらは十分克服可能なものとなる。

それに対して、従来クリーン・エネルギーの代表とされてきた原子力はどうか。「エネルギー白書」2011年度版ほかをみると、ひとたび大災害を引き起こした今となって、環境への被害リスクはどの化石燃料もおよばないほど甚大となっている。また、こうした災害が生じるパーセンテージも、人が1年間に被る自動車事故よりも高い。原発稼働中のリスクのみならず停止中のそれも著しい。原子力エネルギーはオール・オア・ナッシング(制御できれば最大利益、暴走すれば人類滅亡)のリスクを秘めているのである。

以上の議論をまとめると、次のようなフレーズになろうかと思われる。ローテクは人を豊かにし、ハイテクはモノを豊かにしてきた。それに対してローカル・テクノロジーは人と人の関係を豊かにする。ローテクとハイテクとをうまく連動させようではないか。その先に、伝統的生活様式とオール電化の生活がリンクする。ハイテク・オンリーで電化された生活空間には低周波音被害などが潜んでいるが、ローカル・テクノロジーのハイブリッド生活空間には特定周波音だけが響くという状況は考えにくい。

―(4)に続く―

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