忙しさにかまけて広くは見ておりませんが、日本の主要紙の新元号の発表に関する社説にざっと目を通すかぎりでは、そのあまりに政権に迎合的な姿勢に驚きを禁じ得ません。そのことへの厳密な論証や批判は「ちきゅう座」に集う諸兄にお任せするとして、ここでは急ぎドイツ紙「Tageszeitung」電子版に載った記事をご紹介して、みなさんの比較の労にいくらかでも資したいと思います。(ただし全訳ではなく、抄訳です)
4/2付 日本の新しい時代は「令和」
新元号の美しいポエジーめいた由来の説明には、美しからざるナショナリステイックなメッセージが隠されている。七世紀から数えて247の元号はすべて中国の古典文学から取られた。「皇帝は時(時代)を支配する」という観念に基づく元号制定の伝統も、中国から日本が引き継いだものである。この伝統を断ち切ることによって、日本が時代を超越した価値を持つようになることを右翼保守主義の安倍首相は意味させたかったのである。
(私見のかぎりですが、手元の漢和辞典によれば、令の字体は人が跪いているかたちから来ており、人を集めて従わせるが原義といいます。したがって、「よい」の意味は派生的であるようです。たとえば、論語の「巧言令色、鮮(すく)なし仁」―顔色を和らげて人に媚びることを、道徳的に劣るものとするーとあるように、ペジョラティブ(侮蔑的)な使われ方をされることすらあるのです)
3/31付 日本の新元号は、「令和」となる
経済的奇跡は終わった、中国は世界第二の経済大国として日本に取って代わった。 人口は高齢化し、国は他国にはない大きな借金を抱えている。 日本では「失われた数十年」と言われている。平成の間に、17人の異なる人が首相になった、そのうち2年以上継続して職に就いたのは4人だけであった。安定性と信頼性は、明仁天皇と彼の妻美智子妃によって保証されたのだ。彼らは時代の重要な部分に貢献したが、それは彼らが自然災害の犠牲者との出会いを通して人々に暖かさを与え、第二次世界大戦の記憶を呼び覚ますことによって彼らは国民の道徳的良心となったという点においてであった。・・・天皇夫妻は象徴天皇としての役割にかなった自分たちのスタイルを身に着けた。
平成天皇のもう一つの活動の焦点は、その名において帝国軍隊がアジアの半分を征服したところの彼の父親の歴史的遺産に対するものであった。今日まで日本の保守的エリートは、戦争によって引き起こされた苦しみを認めて謝罪するのに抗っている。この点に天皇は強いアクセントを置いた。天皇としての最初の外国訪問先としてインドネシアと中国を選んだ。中国では彼は日本の侵略を遺憾とし、中国文化の功績を称えた。そのことによって彼は、日本人に彼ら自身の文化が中国にどれだけ負っているかについて思い起こさせた。2015年に戦争終結70周年を迎えたとき、安倍晋三首相が「遺憾」という言葉を使わなかったのに対し、天皇は自身の演説の中で「深い自己批判」を強調した。
「天皇はどの平成の首相よりも、日本のアジア諸国との持続可能な和解に力を注いできた」と、在京のドイツ人日本研究者ウェーバー氏は言う。法的な縛りのため、戦争そのものへの直接の謝罪は差し控えられたが、しかし彼は常に慎重に選んだ遺憾の言葉を見つけて、すべての戦争の犠牲者のために祈った。
皇室の専門家らによると、天皇の早めに退位するという決断は、保守的な勢力が彼の年齢と健康を口実に彼の活動を制限しようとしていたということと附合する。そのような状況になれば、天皇の新しいイメージは色褪せ、(象徴天皇制という)制度の存続は再び危険にさらされることになることを天皇は恐れたのだ。息子に手付かずのまま彼の活動を引き渡すために、天皇は時期尚早に退位したというのである。・・・この二月に、徳仁次期天皇は彼の両親の道を追求すると約束した。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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