ドイツ滞在日誌(2)・(1)

著者: 合澤清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
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ドイツ滞在日誌(2)

1.住まいの環境など
Petra(ペトラ、我々の大家さん)の住まいはゲッティンゲンの北西部にある。この辺は新興地帯で、今でも拡張工事や道路整備などがあちらこちらで行われている。しかし、それではさぞかしうるさくて、潤いのないところかというとそうでもない。周囲には多くの古木(巨木)が茂っているし、少し離れた所には森が見える、非常に静かな環境である。歩いて5分ほどのところにあるスーパーマルクトに買い物に行くときなど、この静かで、よく整備された環境を十分堪能できる。素敵な散歩道である。徒歩10分ぐらいのところにはKauf Park(買物団地とでもいうのだろうか)という巨大なスーパーマルクト群(巨大な店舗がいくつかよりあっているもの)がある。そこに行く道路は、まだ舗装中で、途中の道沿いにはまだ新しく店舗住宅ができるのであろうか、造成地にトラクターが入って工事をしていた。地元の「ゲッティンゲン新聞」やコルドラさん(僕の女友達である小母さん)は、こういう開発が自然破壊につながると厳しい批判の目を向けているのだが。

住まいからゲッティンゲン駅まで(ほとんど旧市街地と同じと考えてもよい)は、徒歩で約30分だが、オーソドックスに歩けば、大きな自動車道に沿っていくことになる。歩道が日本のように狭くはないので、車は気にならないが、散歩道としては面白くない。ところがその脇に、大きな「墓地公園」があることにすぐ気がついた。ドイツの墓地はほとんど例外なく木々で鬱蒼とおおわれている。これも日本の墓地のような殺風景な景色とは雲泥の差である。全く散歩にうってつけである。第一すぐ横を沢山の車が走っている感じがしない。車の音は確かに聞こえはするが、それでも静かである。ノーベル賞を受賞した大物理学者のマックス・プランクの墓はここにある。それ以外にも10人ほどのノーベル賞受賞者がここに眠っている。ここを過ぎれば駅まであと10分ぐらい、警察署の横を通り、川にかかる橋を渡るとすぐ駅が見えてくる。Gewitter(小台風)にでも遭わないかぎり、ほとんど気になる距離ではない。

ペトラの住まいは、日本流で4階建てのアパートの最上階。台所兼食堂、お風呂場、トイレを除いて3部屋ある。割にゆったりしたリビングルーム、ご自分の寝室兼居間、それに我々が使っている部屋である。彼女は朝から夜遅くまで、実に忙しく働いている。しかも家の中は非常に清潔できれいに片づけている。猫を二匹(親猫とその子猫、しかし今や子猫の方が大きくなっている)飼っているが、この親猫の方がなかなか人懐っこい。少し油断をして戸を固く締めないでおくとすぐに部屋の中に闖入して、ベットの下あたりにもぐりこんでしまう。甘やかすとすぐに足元に寄りかかってくるので、僕は追い出すことにしている。ペトラには娘と息子がそれぞれ二人ずついるそうだが、今は独立している。彼女自身は、日曜日以外ほとんど家でゆっくりする時間がなく、食事もほとんどが勤務先での食事になっているため、この家の台所は今までは子供たちが専用で使っていたらしい。今は我々専用の台所といってもよく、大変ありがたい。先日、彼女に日本茶(緑茶)とみそ汁をふるまった。最近はドイツ人で緑茶を愛飲する人が増えているそうなのだが、彼女は初めてだったらしい。美味しかったとはいっていたが、まだその味に慣れてはいないようだ。みそ汁の方は多分気に入ってくれたのではないだろうか。目の前で、椅子に腰かけて美味しそうに食していた。

2.7月1日のフェスト(「Goettinger Nacht der Kultur」)について
6月27,28日の両日は真夏の天気で、少し歩くだけでもリュックを背負った背中などはすぐ汗みどろになった。ところが、29日のGewitterを境にして、陽気が一変した。連日の曇天(時々小雨)、外気は14℃位で寒い(ベルリンなどでは11~12℃)。セーターや長そでシャツを持参していてよかったと思う。

7月1日も朝からぐずついた天気だった。小雨が降ってきたり、また少し明るくなったりの繰り返しで、この後土砂降りになるのやらどうやら見当がつかないまま、部屋の中で待機していた。プログラムによると、午後2時ごろからあちこちの場所でイベントが行われているはずだ。他の場所のフェストは知らないが、少なくともゲッティンゲンのフェスト(お祭り)は、旧市庁舎前のメイン会場以外でも、旧市街地の数カ所に、テント張りの舞台を作り、あるいは街路上にそのままで、次々にいろんな出し物が行われることになっている。歌あり、踊りあり、演奏あり、また多分漫談や漫才の様なものなのであろうか、たのしいおしゃべりあり、の盛りだくさんである。

僕の見るところでは、ドイツ人はかなりのフェスト好き(あるいはパーティー好き)で、日ごろの謹厳さ、真面目腐った様子は全く見られずに、ひたすら騒ぎまくっている。心理学者の言う「お祭り効果」(昇華作用)なのであろう。以前にも触れたことがあるのだが、日本の「お祭り」との違いは、日本では演技者(神輿を担ぐもの)と観衆との間にまだ画然たる区別がある。最近でこそ、街路上の踊りに飛び入りで参加する人たちも増えたようだが、それでも線引きがはっきりしている。ドイツではその線引きがかなりあいまいになっているように思える。宵闇の迫れるころともなれば、アルコールのホロ酔い気分もあって、あっちこっちで一緒になって踊り狂っている姿が見られる。ディオニュソスの子孫たちだ。

この日、街に出かけたのは結局6時過ぎになった。「シュツルテン」に立ち寄ったら、やはり去年顔見知りになったポーランド人の女子学生が働いていた。挨拶を交わし、フェストを見てから、後で来ると伝える。案内の小冊子によると、「ヴィルヘルム・プラッツ(ヴィルヘルム広場)」でジャズをやっているそうなのでそちらへ出むくことにした。狭い広場は既にかなりの人だかり。「メンザ(大学食堂)」の入り口辺に舞台がかけられ、二人のジャズメンによってジャズが演奏されていた。久しぶりに聞く生バンドのサウンドはさすがに迫力満点だ。そのうち、観客の中から知り合いらしい人が舞台に飛び入りし、それまで太鼓をたたいていた人が今度はタップダンスをやり始めた。小雨模様の肌寒いなかで、上着を脱ぎ捨て、コミックな仕種で見事なタップを踏んでいた。観客も、演技者に前の方に招かれて、一緒に飛び跳ねる人もいた。およそ1時間のたのしい演技時間が終了、大変満足な時間を過ごさせてもらった。今度は「シュツルテン・ビュルガー」での楽しいひと時が待っている。

店には運よくまだ混んでいないうちに入ることに成功したが、間もなく超満員になってきた。最初は表のテーブルで飲んでいた人たちも、小雨と寒さで中に入ってきた。この日は忙しさを予想してのことだろうが、ペトラが出勤していた。いっぱいの客をさばききれなくなり、ドイツでは珍しく、相席を頼む役割を彼女がやっていた。僕らのすぐ脇に一人で座っていた老人の席に、二人のご婦人が押し付けられた。最初、ご婦人がたの方で遠慮がちだったが、ペトラが「あのお父さん(Vater)はご婦人が好きだから」と言いながら座らせてしまった。Vaterは少し照れながらも、ご満悦の様子だった。僕らの席にも二人連れ(多分父親と娘?)が相席となった。最初に「日本人だろ?」と聞かれた以外にはお互いの干渉はせず、帰りがけにまた「Gute Reise!」(「良い旅行を」というよりは「お気をつけて」の方が日本語に合っていると思うが)と声をかけてきた。外ではまだフェストの騒音が聞こえていたし、時々は仮装姿の人たちが歩くのが見えた。

3.「休日=Feiertag」の楽しみ方
2日も相変わらずの曇り時々雨の天気で寒い。午後から再び「ネット・カフェ」に行って、かつて友人から教えてもらったことなどをいろいろ試してみた。
Ansicht→Kodierung(Encode)→mehr→Japanisch→http://www.chikyuza.net
しかし何度試みてもやはり「文字化け」は治らない。ついにあきらめて、とりあえず編集委員のSさんに電話をかけ、事情を説明した。他の交信方法を考えなければなるまい。
この日は「シュツルテン」によらず、イタリア系「リストランテ」(レストラン)にピザを食べに行くことにした。前からよく行っていた店なのだが、途中で経営者が変わったのか店の名前が「タオルミナ」(イタリアの地名)から「フェリーニ」(有名な映画監督のフェデリコ・フェリーニにちなんだ名前)に変わった後、いかなくなっていた。久しぶりに入ったのであるが、味は前と変わっていないように思う。ピザのボリュームも満点。従業員が、前はインド人だったのが今はイタリア人に変わっていた。

3日はFeirtag(日曜日)、飲食店以外は原則的に閉店である。昨日買い込んでいた食材で食事を済ませ、午後から散歩がてらに近所を歩くことにした。手始めにKauf Parkの方に行ってみた。なんだか車がやたらに止まっているし、人影も多い。まさか店が開いているのではないだろうな…、と思いながら近づいて見たら、建物の周辺一帯にフリー・マルクトの出店が並んでいた。我々もぶらぶらといろんな店を覗き込みながら周囲を一周し、少し離れた場所の人だかりのほうに歩いて行った。そこでは、いかにもドイツらしいというべきか、力自慢の若者たちが力比べをしているのだった。勾配のなだらかなコンクリートの舗装の上に、1メートル四方ほどの鋼鉄の板やコンクリートを何枚か重ねて貼り合わせ、それに鎖をつけた物体(多分100キログラム以上はあるだろう)を二つ置き、二人でそれぞれを引きずりながらこの坂道を10メートルほど、2度ずつ上下して速さを競うというゲームである。筋肉隆々の若者たちが果敢に挑戦していたが、最後までたどり着いたものはいなかった。それほど重いということであろう。僕も挑戦したかったが、最初から動かせないでは、大恥をかくのでやめた。
また、電柱ほどの丸太をちょうつがいで地面のほうの金枠に固定化し、それを一方から他方に、他方から一方に、交互に持ち上げては倒す、その回数を競うこともやっていた。なんだかひどく懐かしい。日本でも、戦後の一時期、何の遊び場所もない時分、当時の青年たちが集まってこんなことをしていたようにうっすらと記憶に残っている。ここには、既に日本になくなってしまった、仲間たちの集う共同体の絆がまだ厳然として残っているのである。これがドイツ・ゲマインシャフト(Gemeinschaft血縁的共同体)に向かうとなると、排外主義が入り込んでくる可能性もあるが、「一人の自由は万人の自由と共に実現される」という意味における新たな真に自由な共同体形成に向けての一歩となるなら、強力な力を生み出すことになるのではないだろうか。もちろん、どちらの方向に向かうかはこれだけでは見極め難い。しかし、さまざまな市民運動(反原発運動や環境保護運動など)にこの絆が力を発揮しているのは事実であろう。

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ドイツ滞在日誌(1)

1.コペンハーゲン、ハノーファー経由でゲッティンゲンへ
2011年6月27日、コペンハーゲン経由で無事ハノーファーに降り立った。今回の飛行機の旅は、途中の乗り換え(コペンハーゲンからハノーファー行きに乗り換える)も含めて非常にスムーズにいった。去年は、同じコペンハーゲン空港のボディチェックで、何とポケットに入れていたポケットティッシュが引っ掛かって、ポケットのものを全部出させられた思いがある。今回はその教訓に学び、最初からポケットを空にしたのがよかったのであろう。

乗り換えの一時間も、手洗いに行ったりして、すぐに時間が来た。搭乗口のおじさんに「ハロー」と会釈したら、「ハロー、コンニチワ、アリガト」と日本語が返ってきた。狭い機内はほぼ満席状態で、去年と違って、若い人が多いのに驚いた。飛行機は飛び立ったかと思ったら、30分ぐらいでハノーファーに到着した。上空から外を眺めていて、最初に見えてくる海上には、かなりの数の風力発電用の風車が立っていた。ドイツの地域に入るや、見渡す限りの森と田園が目に入る。散発的にその中に村の家々が見える。いつもながら、このような森に囲まれた集落、都市のあり様には心からうらやましさを感じる。森や自然との共生が、かなり早くから意識的に追求されてきた結果の都市(集落)づくりなのであろう。

ハノーファー空港には予定時刻通り18時05分に到着。成田で預けておいた荷物を受け取り、Sバーンでハノーファー中央駅(ハウプトバンホーフ)に出る。その際、ドイツ人の友人から教えられていた「ニーダーザクセンチケット」(ニーダーザクセン州だけで通用する格安の切符で、二人で使え、24ユーロ。ただし、各駅停車の電車に限り乗車できる)を買った。確か、去年は切符の自動販売機がうまく操作できずに苦労したはずだったが、今年は時間的なゆとりもあって、案外うまく操作でき、買うことができたのは幸いだった。

ハノーファー中央駅で1時間半ほど時間をつぶす。重い荷物を引きずりながら、駅の出口辺をうろついていたら、若いドイツ人女性から英語で“Can I help you ?“と声をかけられた。あわてて“Nein, Danke.“と言いながら、やはり「おのぼりさん」に思われたのだろうな、と家内と喋りながら、早々に予定のプラットホームに上がっていった。ゲッティンゲン行の電車の時刻は、出迎えの友人との間であらかじめ決めていたのだが、どうもそれより一本早い電車でも十分間に合ったようで、ホームに上がるや、すぐ目の前でやはりゲッティンゲン行の電車がまさに出発したところであった。

電車はゲッティンゲンとハノーファー中央駅間を往復している私鉄(metronomという名前だった)で、珍しく全車両冷房の快適なものだった。というのは、コペンハーゲンもハノーファーも、この日はかなりの暑さで、リュックと手荷物の重さで既に汗だくになっていたからだ。各駅で1時間40分ほどの道中を、僕は久しぶりで見るドイツの田舎の景色に見とれ、家内はそれまでの長旅の疲れからか、座席に横になって眠ってしまった。幸い乗客も少なく、誰の迷惑にもならなかったろうと思う。9時45分(21時45分)恙無くゲッティンゲンに到着。プラットホームで出迎えの友人(ユルゲン君)と再会する。彼は少し太ったように見える。彼の車で、その住まいまで行く。外はまだ明るい。ちょうど日本の夏場の7時頃のようだ。外気は程よいぐらいで、非常に気持ちが良い。それでも、つい先ごろまでは寒かったという。

2.ユルゲンの住まいにて
彼の住まいは、ゲッティンゲンの新市庁舎の裏手にあり、街の中心地まで徒歩で10分ほどの便利な場所にある。古い建築物を改修したのであろうか、外からでは分からないのだが、中に入れば、階段も、また部屋の中の床なども、歩くとぎしぎし音がするほどの代物である。ドイツ人は、そうした古い建物に住むのを好むらしい。その3階が彼の住まいである。3階といってもドイツ式の数え方であるから、つまり日本流の1階は「地上階」(Erdgeschoss)と呼んで、階に入らず、日本の呼び方で2階を1階と呼ぶ数え方なので、3階とは日本流では4階に相当することになる。毎度のことながら、この部屋まで重い荷物を、しかも疲れた身で引き上げるのは骨が折れる。今回彼は勿論、家内の方の荷物を運んでくれた。僕はリュックをしょって日本流の3階まではこの重い荷物を引き揚げたのだが、さすがにここで少しばて気味になった。家内にリュックを預けて、重い荷物を階段の中ごろまで引き上げたら、ユルゲンが助けに来て、一気に上まで運んでくれた。少し情けなかったが、この際は有り難さが先に来た、多分年のせいだろう。

僕は彼の部屋にこれで3度目の世話になることになった。今回は女房連れである。シャワーを浴びて、彼が用意してくれたビール(用意してくれたのは、すぐ近くのビールの町=Bierstadtで有名な「アインベック」の銘酒「アインベッカー」を3種類―pils,hell,dunkel)を飲む。西窓の外に見える夕景色、はるかにゲッティンゲンを囲む丘と沈みゆくお日様を眺めながら、冷やしたおいしいビールを飲む。つかの間の幸せを感じる瞬間である。僕の郷里で買ってきた「吉四六さんが酒樽を抱えて悦に入っている素焼き人形」に入った焼酎をお土産に差し出すと、彼は相好を崩して喜び、「きっちょむ、きよし」などとけしからんジョークを飛ばす。僕の方は専らEinbecherの「コクのある」dunklesbierを飲みながら、辞書を調べつつであるが、「このビールは実にコク(gehaltvoll)があるね」といったら、すかさず彼に、「コクがある」という言葉はドイツではWeinに対してしか言わないよ、と注意された。しかし、このEinbecherのdunklesbierこそが、あの有名な「ボックビア」(ドイツ南部のバイエルン地方の訛りでこういうふうに呼ばれるようになったらしい)なのである。ビール好きにはこたえられない伝説の味だ。

結局12時過ぎまで、明日も仕事のあるユルゲンをつき合わせることになった。それでも時差ボケの残っている僕は翌朝の4時半頃には起きだしてしまった。ユルゲンは7時に起きて、いつもどおりにシャワーを使い、三人分の朝食を用意してくれた。コーヒー、パン、ヨーグルト、チーズ、マーマレード、それにドイツ独特の「ミュスリ」(穀類を乾燥させたものに、牛乳を混ぜて食べる)が主である。日本食にならされた僕にとっては、何となく物足りないし、野菜がないのが不思議なのだが、それを補うのが「ミュスリ」と「オープスト」(食後の果物)なのであろうか。因みに彼はワインの本場フランケン地方(現在はバイエルン州に属している)の出身なのだが、こういう簡素な朝食はこの地方の伝統食であるように思う。それはドイツ中を旅してみて初めて思い当たったことだが。

3.28日の行動
ユルゲンの話だと、「シュツルテン・ビュルガー」のラルフが、僕らも見知っているペトラ(中年の女性)の住まいに、2ヶ月間の仮住まいを見つけてくれたので、彼女に会って、直接そこに行ってみるのが良いだろうという。2ヶ月間の短期滞在のためだけで住まいを見つけるのは大変難しい。しかも不動産屋を通さずに、安上がりにやろうというのだからなおさらだ。従来のHochhausでもよいのだが、今回は二人連れなので、少しまともな部屋を探したいため、あらかじめユルゲンやラルフに頼んでいたのである。

ユルゲンの住まいに荷物を預けたまま9時半過ぎに外出。最初にドイツだけでのみ使える僕の携帯電話(Handy)を使用可能な状態にしなければならないし、カード料金を補充しておかなければならないので、「O2」という名前の店に行く。次に、開店が12時なので、多分まだ開いてないだろうと思いながらも「シュツルテン・ビュルガー」を覗きに行ったら、何とこの時間にもう店を開けて準備をしていた。通用口が閉まっていたので、開いていた窓から厨房へ「ハロー」と呼んでみる。何度か呼んでみても応えがないので、諦めかけていたら、中から見知った顔の女性が出てきた。簡単な挨拶を交わしてから、中に入ってもよいかと許可を求め、厨房に行く。シルビアの顔が出てきた。いつものように笑いかけながら手を振ってくれた。しかし、近寄ってみてびっくりしたのだが、彼女は松葉づえをついていた。昨日右足にけがをしたのだという。これでは出てこれないわけだ。挨拶の握手をしてから彼女にも「吉四六さんの焼酎」と羊羹の詰め合わせをお土産に渡す。ユルゲン同様に、吉四六さんを見て笑い転げていた。ペトラは夕方来るそうだ。住まいの件も既に聞いているとのこと。一安心。ただし、彼女が夕方から仕事で来るということは、住まいが決まるのは明日以降になるかもしれないので、そのことをユルゲンに電話で伝え、申し訳ないがもう一晩厄介にならせてくれるように頼んだ。彼の応えは「もちろん、当然だ」というものだった。

外はかなりの暑さだったが、久しぶりのゲッティンゲンを散歩した。大学の植物園に行き少し木陰で休み、気を取り直して、ASTAという大学自治会がやっているドイツ語会話コースの予定表を見に行ってみる。家内が、実際は英語を勉強したいのだが、もしそういうコースがないのならドイツ語の初級コースに入って、仲間内の会話の中で英語を覚えたいというので、調べることになったのだが、残念ながらすべての学習期間が大幅にずれていた。
それではということで、ゲッティンゲン本駅裏のフォルクスホーホシューレ(VHS)に行ってみる。ここにはドイツ語の基本コースから上級コースまではもとより、そのほかの外国語コース(日本語コースも含め)がある。面倒なので、事務所の受付をいきなり訪問し、こちらの条件をいって、ドイツ語基礎か、英語のコースかで合いそうなものはないかどうかを聞いてみた。二人の講師とも面談したのだが、残念ながらやはり相当するコース期間とは期日がずれていた。諦めるしかない。

お昼時は再び「シュツルテン・ビュルガー」に行く。顔見知りの学生ミランが働いていた。彼はヨーロッパ近代史、特にフランス史専攻の大学生だ。聞くとペトラは5時過ぎからの勤務だそうだ。そのため、そこに1時間半ほどいてからいったんユルゲンの部屋に戻る。シャワーを浴びてゆっくりし、5時過ぎに再び、今度はペトラに会いに行く。店はかなり多くの客で既に賑わっていた。ペトラと挨拶してから、住まいの件について直接聞く。話はすべて呑み込んでいるが、今日は仕事で案内は無理だから、明日の夕方ここで会おうということになった。荷物も持ってくる方が良いとのこと。これで大方は決まった。後は「ヴァールシュタイナー」(これも大変美味いビールだ)を飲むだけである。

4.ついに下宿を確保、しかしインターネットがうまくいかない
昨夜はビールを少なめに飲むつもりだったので、2リットルだけで止めてユルゲンの住まいに帰った。ところが彼は既に帰宅していて、また「アインベッカー」を用意していた。宴会の再演。意志薄弱の僕としてはすぐに決意を変えてしまう。結局また12時過ぎまで飲みふける。

29日、通常通りの朝食を済ませ、10時ごろに外出。ユルゲンから、今日は夕方から小台風(Gewitter)が来るらしいよと朝聞かされたので、早めにペトラとの待ち合わせ場所の「シュツルテン」に行こうと考えていた。外は、なるほど雲行きが怪しい天気である。なんとなく蒸し暑い。とりあえず手ぶらで、先ずは「インターネット・カフェ」に行ってみる。去年使った店だ。最初に母親に電話してから、コンピューターに向かう。去年通りにこちらのアドレスなどを入力し、閲覧と発信を試みた。しかし、何度やっても画面は「文字化け」したままだ。店の人を呼んで、しかもコンピューターを三度も取り換えてやってみたのだがうまくいかない。1時間ばかり悪戦苦闘してみたが、ついに日を改めることにした。

ネット・カフェを出て、用心のため、去年まで住んでいた「Hochhaus」を訪ねる。万一ペトラの住まいが気に入らなければ、ここを再度借りるしかないからだ。受付の曜日と時間を知る必要がある。幸いこの日、顔見知りの女性の管理人が部屋にいたので、彼女に会釈だけして、予定表を確認した。ドイツにはめったにないほどの蒸し蒸しする陽気になった中を途中休みを取りつつ散歩して帰宅。早速、シャワーを浴びてさっぱりする。空模様はますます怪しくなる。ペトラとは夕方6時ごろの約束だが、早めに「シュツルテン」に行くことにする。そこまでの20分間、何とか天気が持ってくれますようにと祈るような気持ちで急ぎ足で行く。辺りがかなり暗くなったが、それでも何とか持ちこたえた。

ペトラは6時半過ぎにやってきた。彼女はクリニクム(大学病院)でも働いているとのこと、その勤務を終えて来たそうだ。彼女の車で、彼女の住まいまで行く。駅からは徒歩で約30分。少し遠いが僕ら夫婦にはほとんど気にならない。日頃からしばしば3時間ぐらいは歩いているからだ。その住まいは、小さなアパートの(日本流で)4階。居住空間はかなり広い。その一室を提供してくれるという。きれいに片付いた部屋で、寝具なども用意されていた。ただし、ここでもコンピューターは壊れたままだとか。それはともかく、すぐに入居することにした。「Hochhaus」に比べると格段に良い。これでやっと本当に落ち着いた。ユルゲンに報告の電話をかけてみたが、どうも留守のようで出ない。

9時ごろ、疲れが出てきたのかひどく眠いので、ベットにもぐりこむ。すぐに熟睡。ところが、11時半頃僕の携帯が突然なり始めた。ぼんやりした頭で取り上げたら、ユルゲンからの電話だった。「どうなったのか。…云々」。彼のドイツ語がほとんど聞き取れない。頭がまだ眠っているようだ。とにかく、住まいを決めたことだけは伝えた、と思う。それもはっきりは思い出せない。彼の矢継ぎ早の質問を完全に聞き飛ばしながら、明日こちらからまた電話するからとだけ言った覚えがある。許してくれユルゲンと少し胸の痛みを感じながら、すぐまた寝入ってしまった。

 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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