ドイツ滞在日誌(3)

著者: 合澤清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
タグ:

1.やっとインターネットが通じた
ドイツに来始めてもう随分になる。今回ほど気苦労をしたことはなかったように思う。ちきゅう座に掲載原稿を送る約束で来ているのに、来てから幾日にもならないうちに四面楚歌の状態におかれたからである。「インターネット・カフェ」で映し出した画面は「文字化け状態」で、全く読めず、もちろん書いたものも送れず、いろいろ工夫してみたのだがうまくいかない。その後間もなく自分のパソコンまでが壊れてしまうことになり、原稿の打ち込みすらできなくなってしまった。原稿書きどころか、ノートや参考書がわりに打ち込んできた資料すら開けないのだ。これでは何のためにドイツくんだりまで来たのやら、自分が情けなくなった。

水曜日(6日)、パソコンが壊れる前に打ち込んでいた原稿のUSBをもって友人のユルゲンと会った。日本人には不慣れのドイツのコンピューターでも、ドイツ人の、しかも流体力学を学んだ理系の彼なら多分何とかしてくれるだろうとの思いから、前もって電話で「ネット・カフェ」に一緒に行ってくれるよう頼んでいたのだ。親切な彼は気軽にOKをしてくれて、いつもより一時間も早く、夕方の7時に待ち合わせ場所に来てくれた。家内も一緒に3人で「ネット・カフェ」に行き、さっそくインターネットを試みた。驚いたことにその日に限って画面は文字化けしていないのである。彼は自分のカバンを指さしながら「魔法のカバンだ」とか何とか言って笑っている。しかし実に不思議なことだ。この日も僕が自身でインターネットを開いたのだから…。早速編集部に原稿を送稿する。その際メールの文章がローマ字になるので、何とか日本語にならないかと思い、ユルゲンに相談した。彼はいろいろ試みてくれたが、やはりだめなようで、彼の出した結論ではこの店のオーナーが言語CDで日本語を止めているせいだろうということだった。いずれにせよ、最初の送稿ができただけでもよかったとほっとしながら、久しぶりに暑くなったその夕べを「シュツルテン」で大いに楽しんだ。

僕のドイツに持っていったパソコンがぶっ壊れてしまったのは、ちょうどユルゲンと会うことになっていた水曜日の朝だった。内蔵されているバッテリーが急に作動しなくなって、蓄えた電気が急速になくなり、あっという間にパソコン自体が作動しなくなった。なんとなく最悪の事態になりそうな予感はしていたのであるが、その数日前に、近くのKauf Parkを散歩中、偶然にも広い構内の中でO₂という名前の携帯電話などを扱う会社の出張所を発見していた。実は僕のドイツでだけ使用可能な携帯電話は、この会社のものなのだ。この出張所の入り口に、パソコンの修理をするというようなことが書かれていたのを思い出した。「溺れる者藁をもつかむ」まさに窮余の一策、ドイツ語がうまく通じるかどうかなどかまってはおれない。すぐにパソコンを持参して、治るかどうかを直談判した。相手のドイツ語にひどい訛りがあり、何をいっているやらよくは判らなかった(ということにしておきたい。実際にはこちらが単にドイツ語が判らなかっただけかもしれない)が、それでもどうやら大丈夫だとの返事だけは受け取った。バッテリーの型式番号などをコンピューターに入れながら、すぐに発注してくれたが、それでも10日ぐらいはかかるだろうといわれた。その際、ドイツに2カ月ぐらいしか滞在しないのだが、その間インターネットをすればどれぐらい費用がかかるのかと聞いてみた。彼がいうには、契約は2年契約になるので、2カ月ぐらいの滞在だとコストが高くなる。「ネット・カフェ」の方が安上がりだ、というものだった。

10日間ぐらいかかるといわれていた部品が何と2日後の8日にはとどいたと電話がきたのだ。早速出かけて行き、その場でテストだけはさせてくれるように頼み、作動させた。全く異常なし。担当者が別の人だったし、今度の人のドイツ語には訛りがなかったので、序でだと思い、再度インターネットの話をした。彼の返事はいたって明快だった。「そんなの簡単だよ。プリペイドカードに30ユーロ、毎月の使用料に25ユーロ、2ヶ月間なら全部で80ユーロ払えばすぐに手続きができるよ」「毎年80ユーロ払わなければ駄目なの?」と僕。「いや、そんなことはない。来年からは月に25ユーロ払えば、そのまま継続できるよ」
話がつくときはこんなものなのか、とんとん拍子で話がついた。すぐに契約した。その場で手続きを終え、住まいに帰ってパソコンを入れたら、膨大なメールが入っていた。
女房曰く。「壊れたままにしていたほうが楽だったんじゃないの」

2.ドイツの中のアメリカとドイツの田舎
今住んでいるところの周囲の環境については前回少し触れた。しかし、街でビールを飲んで、夜遅く帰っているときに、いくつかのことに気がついた。ドイツの夜はおおむね暗い。闇夜というイメージは、既に日本の都会では遠くなっているが、ドイツではいまだに現実そのものだ。ところが、そんな暗闇の中で、こうこうと明かりをつけた派手な看板が目に付く。「マクドナルド」と「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」と「シェル石油」である。いずれもアメリカの代表的なチェーン店だ。部屋の窓から外を眺めていても、これはなんとも異様な景色に見える。一晩中ネオンをつけっぱなしの看板は、日本やアメリカならいざ知らず、ここドイツでは異様である。概してドイツには日本の様な仰々しい看板などはあまりない。「あまり」と書いたのは、このところ残念ながらその種の看板が目立ってきたからだ。特にこの辺などの郊外地に増えている。資本主義の「いやらしさ(傲慢さ、強引さ、尊大さ)」であろうか、アメリカ系企業の進出を嫌いながらも、事実としてそれらがやってきたときには、対抗上ドイツ的なるものをかなぐり捨てて、自らアメリカナイズされた宣伝に走らざるを得なくさせられたのである。もちろん、そうでもしないと商売上太刀打ちできなくなるからであろう。しかし、この資本の持つ「否応なしの強制力」、これを何とかしなくては、原発問題も外国人排除(排外主義)も環境破壊も真には解決しないのではないだろうか。
例えば、ドイツでは現在、ナチスに対する称揚・礼賛・同調などは法律で禁止されている。しかし、これでこの問題が最終的に解決したとは言い難い。国内に深刻な失業問題を抱え、地域間の格差も膨らんでいる。現に旧東ドイツ地域の人たちは、ラジオなどのインタビューで、こういう状態を解消できるのであれば、「右でも左でもかまわない」と答えている。ヒトラーの亡霊もスターリンの亡霊もいまだにこの世界をさまよっているのである。もちろん、日本もアメリカも中国も例外ではない。

ドイツの田舎の環境については何度も書いたのであるが、実際にすばらしい。このことは多分、「百聞は一見にしかず」の諺どおり、実見する以外お分かりいただける最良の道はないだろう。

先日、一年ぶりでコルドラさんとお目にかかり、彼女の車に同乗してゲッティンゲンから小一時間ほど離れた彼女の家に招待された。途中の小道は森の中をかなり曲がりくねって続いていて、家内は最初に行った時に車酔いで、ソファに寝込んだままだったので、今回は目をつぶるか、横になるかする方が良いだろうと教えたら、今度は大丈夫だった。僕の方はこの美しい景色、途中に小さな古城と領主の屋敷(今はホテルになっている)もある、また車に覆いかぶさる木々の新鮮な色香を堪能していた。彼女の家は本当の意味でゲッティンゲンの郊外にある。しかも村からは少し離れた場所に祖父の代だったかに地所を買い、かなり広い土地で百姓をしている。一昨年彼女のご亭主が亡くなり、今は息子が後を継いでやっている。大きな犬を2匹飼っているのであるが、雌犬の「ヘーラ」とは僕は数年前にお邪魔した時からの知り合いだ。去年は彼女は病気をしているとかで、かなり元気がなかったが、今年はどうだろうか、と思いながら到着した途端にこの大型犬(立ち上がると僕の背丈ははるかに超えてしまう)がいきなり嬉しそうに飛びついてきて、周辺を跳ねまわる。今年は元気そうだ。Gパンによだれが大量にくっつく。あごの下をなぜると、じゃれついて喜ぶ。もう一匹の雄犬「フロー」とは一昨年以来の中だが、こちらはまだ若くてやたらにそこら辺を走り回る。行儀も良くない。我々が野外でバーベキューなどやっていると、すぐにそばに来ては手を出してくる。「Nein, Warte!」(だめ、待て)と叱られると行儀よくお座りをするのだが、すぐにまた手を伸ばしてくる。

この日はベルリンから彼女の両親も来られていて、家族4人と我々と犬2匹、広い庭先の傍らに池がある場所で楽しい屋外ホームパーティーをしていただいた。とにかく静かだし、木陰は涼しくて快適だし、日本のように蚊に悩まされることもなく、その上旨いビール(これは南ドイツの「ヴァイツェン・ビール=Weizenbier」で、酵母で濁った色をしていて、瓶を振りながら酵母をかき混ぜて注ぐ珍しいビールである)と食事。これ以上何を望むことがあろうか…。ドイツの子供たちの将来就きたい職業の第一番は、「森の管理人」だそうであるが、なるほどとうなずける。

3.Bierstadt「アインベック」の散歩と「ボック」ビールの味
昨日(9日)、インターネットが通じたことの安堵感もあって、近くへの日帰り小旅行をしようと思いたち、駅へ向かう。時間に制約された旅ではなく、ただ行き当たりばったりで、旨いビールでも飲めればそれでよしの旅なので、行きの途中で近くの墓地公園の中を少しだけ歩くことにした。中はかなり広大である。全部歩けば一日がかりほどになりそうなので、とりあえず、「ノーベル賞受賞者の円形メモリアム」がある傍の池まで行ってみようということにした。池はあまり大きくはないが、モネの名画「睡蓮」を髣髴とさせる美しい池で、なるほどすぐ脇に円形に囲まれた記念碑があり、ゲッティンゲン所縁のノーベル賞受賞者(全員が自然科学者だった)約10名ほどのそれぞれの略歴が貼られた石柱がおかれていた。

実はこの日は最初から「アインベック」に行く予定だったのではなく、別のビール醸造所があるヴィッツェンハウゼンに行く予定だった。ところが、駅について見ると、肝心のカッセル行きの電車がストライキのため「間引き運転」で、このままでは3時間ぐらいまたされそうなありさまだった。それではつまらないので、逆方向の電車に飛び乗って、約15~20分ほどで行ける「アインベック」駅で降りた。実はこの駅はただの無人駅で、本当の「アインベック」(Stadt)までは、そこからバスかタクシーで行かなければならない。普通なかなかそこまで行く日本人はいないようだ。一種の穴場である。

天気はかなり不安定で、今にも降りそうな具合に曇って強風が吹いていたかと思うと、一転してすごい晴れ間がのぞく。なるようになるだろうと思い、バスに揺られて「アインベック」に降り立つ。16世紀からの古い家並の残るこの有名なビールの町の何と静かなことか!人波もちらほら、広場や歩道に乗り出して開店している喫茶店や飲食店の前だけが人だかりしている。ぶらぶらと街中を散歩し、「ブラオハウス」(アインベッカー・ビールの醸造所)の見えるところまで行ってから引き返す。写真も何枚かとったのであるが、僕の腕が悪いのとデジタルが既に不良品(?)になってしまっていて、上手く写らない。
そのうちトイレに行きたくなり、ラートハウス(旧市庁舎)の近くの、表で何人かが立ち飲みしている飲み屋に入っていった。

若いお兄さんと、白いあごひげのビヤ樽の様なおなかのおじさんが働いていた。おじさんが何か日本語で話しかけてきた。「コンニチワ、シンジ・カガワ」その後はドイツ語で、「君はサッカーを知っているのか」と聞いてきた。少し知っているといったら、「シンジ・カガワはこの辺のチームにいるんだ」とか言いながら、カレンダーの中の写真をもってきた。なかなか話好きのおじさんだ。気に入ったので、「ボックビア」の大きいのを一杯飲ませてくれと言ったら、大変喜んで、これは「マイボック」(つまりMai=5月に仕込んだ「ボックビア」)であり、他のミュンヘン辺りのは偽物だと怪気炎を飛ばす。
下手なドイツ語で、今はゲッティンゲンに住んでいること、この辺を「ニーダーザクセンチケット」で見物して回っていること、ここは大変静かで気に入っていること、などを話したら、「お前はドイツ語がうまいね」とか何とかお世辞をいってきた。そのうち、客のお医者さん(すぐ近くの病院の医者だそうだ)を紹介してくれたり、どことかがきれいだから行ってみろ、といくつかの駅名を紹介してくれたり、そして別れ際には「また必ず来てくれ」と言われた。「ボックビア」1杯の予定が、ピルスビアまで余計に飲んでしまったため、かなりのホロ酔い気分になってしまった。再び駅に還って、今から「ヴィッツェンハウゼン」に梯子しに行こうかと女房と話していたところ、帰りの電車もストライキの影響で1時間半の遅れとなり、中止のやむなきに至ったという次第。

ストライキに対してはドイツ人は寛大である。誰も文句一つ言わない。ゲッティンゲンのインフォメーションの女性に、「今日はカッセル行のこの電車は運休なのか?」と尋ねたら、返事は「ナイン、午後4時には運転する」との返事だった。慣れない僕は唖然として聞き違えたかと思ったのであるが。客たちも、ストと分かった段階でそれぞれどこかに消えて行った。スト慣れ?なのだろうか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0543:110711〕