夏休みの最後の週に、トルコの友達を訪ねてきました。その時の様子を少し書きます。
ラマダン(イスラム断食期)明けの祭日を利用してボドルム(Bodrum)で夏休暇を取っていた友人から、「是非、来るように」と誘われて行ってきました。昨年に次いで2回目のボドルム行きになります。
地図を見ればわかるように、ボドルムはギリシャのエーゲ海にあるコス島の向かいに位置しています。2015年、難民がバルカンルートでヨーロッパを目指したときの結集点になったところです。その時は、ボドルムから友人がコス島の私たちを訪問して、それ以来、今度は必ずトルコ側の彼らを訪問するようにと何回も強く言い含められていました。
昨年、それが実現することになりますが、ちょうど、2016年のクーデター未遂事件後の粛清がトルコ全土で吹き荒れていた時です。トルコ出身のドイツ国籍をもつジャーナリストが、また、同じく、ドイツ国籍をもつトルコ系市民が休暇で帰郷しようとしてイスタンブールの空港で立て続けに逮捕―拘留されていました。トルコ―エルドアン批判が完全に封殺されようとしていた時期です。
このクーデター未遂とその後の粛正の顛末および対応に関しては、すでに報道されているところでしょうから、ここに改めて書く必要はないと思われます。ただ、それがどのような影響を市民のなかに残してきたのかという点で、私の興味を引きます。
逮捕―拘留の理由は、「(クルド派の)テロリストを支援した」が主要なポイントでした、が、これまで納得のある実証は何一つ示されることがありませんでした。その後、1年~1年半近くも裁判もなく拘留されながら、今度は何の説明もなくジャーナリストは釈放されてきた経過があります。私にはこの理由と経過が、いまだにわかりません。ましてや、ドイツ国籍を持つ拘束されたトルコ系市民については、私の見落としがありうるとはいえ、メディアの中でも報道されることはなかったように思います。
2017年、そんなトルコに向かうことになりました。安上がりのトルコ系航空を利用したからでしょうか、フランクフルト空港のチェック・インのカウンターで、まず、私たちのパスポートが取り上げられました。係官がシゲシゲとパスポートと私たちの顔を見つめながら、「ちょっと待ってください」といって席を外し、この間15分くらい経ったでしょうか、再び戻ってきて、笑顔で「大丈夫です」と。こうして搭乗手続きは終わりましたが、こちらはその間、悪気もないのに冷や汗ものでした。
想像するに、彼は間違いなく何らかのセンターに連絡を入れ、私たち2人の身元を確認したんだろうと思われるのですが、まんざら当て外れではないでしょう。
理由などなんとでも付けられます。それも本人にかかわりなく。ただの訪問者、観光客でさえこうですから、実際にトルコと直接関係のある人たち、家族、親族、親友、仕事関係者になると先行きのわからない状況であるのが理解されます。〈心理テロ〉の現状を見せつけられた思いでした。
ドイツ側からはこうしたエルドアンの政治粛正に対して、報道の自由に反する! 表現の自由を剥奪する! 民主主義制度を破壊する! 司法制度への挑戦!等々の批判が投げかけられる一方、エルドアンからは、ドイツへ「ナチ!」、「テロ支援者」の罵声が浴びせかけられてきます。
ドイツとトルコの関係は、それによって抜き差しならない状態に陥りました。トルコ国内では「反ドイツ」感情が扇動され、大衆動員がかけられていきます。ドイツ国内では、EU加盟に向けた話し合いの打ち切り、ドイツ―トルコ関係の中断、経済制裁、さらにドイツでのトルコ政治家の選挙運動禁止がそれに加わり、ドイツに住むトルコ人内部でもエルドアン支持者と反対派、そしてクルド族との分裂を引き起こすことになりました。
友人の間では、ドナーケバブ屋に行くにしてもエルドアン支持者は避けて、クルド系の店に行くようにとの内輪の合意があったほどです。トルコの選挙で、確かドイツ国内のトルコ人の65%強がエルドアンに投票し、これが決定打になったことから、ここでも再び戦後のトルコ系市民のインテグレーションが何だったのかが議論されることになりました。
言ってみればドイツの地で民主主義、自由と平等を謳歌しながら、なぜそれを剥奪し独裁制を目指すエルドアンを支持するのか、ドイツ側からすれば理解できないことになります。ドイツは外国人にそれほど魅力に乏しいのかというナイーブな自省から、トルコ系市民にはインテグレーションへの拒絶があるという断罪まで、ありとあらゆる意見が飛び交います。
トルコへの観光客はそれによって激減することになり、閑古鳥の鳴く観光地がメディアで報道されれば、ドイツ政府からは、トルコの国内事情、治安を鑑みてトルコ観光を避けるようにとのアピールが出されます。ドイツ側からのジャーナリストおよび不当拘束者の即時釈放に対して返されてくる言葉は、「ナチ!」と「テロ支援者」の二つです。
これが2017年の両国の政治状況でした。したがって、友人の家でこそ政治について語ることはできても、家から一歩出れば、当たり障りのない話題になってしまいます。ボドルムは、選挙の得票分析に見られる通り反エルドアン派の強い地域です。その地にしてからがそうです。全体的な状況が、一人ひとりの口を重くさせてしまうのです。それは自制ではなく、目に見えない圧力です。エルドアンの目指したところは、反対派一掃と同時に、モノ言わぬ市民を強制することだったでしょう。
友人が休暇で滞在しているところは観光地化されているとはいえ、まだ昔の漁村風景と雰囲気が残り、外国人観光客ではなくトルコ市民の国内観光地として親しまれていますから、なおさら政治発言には注意が必要になってきます。
一例です。ホテルのロビーで宿泊客が政治問題について議論していたそうです。すぐに責任者が現われ、「他人に聞かれると通報され、ホテル側の責任が問われますから、止めていただきたい」と申し出てきたという話しを友人から聞かされました。
町の日常は、どこの避暑地とも変わりなく晴れやかに照り輝く太陽の下で、何事もないかのように長閑に進んでいます。しかしその実体となれば、間違いなく各人の内的な精神世界を拘束していることは確実だと思われてなりません。そうした状況がいつまで持ちこたえられるのか。
今年2018年は、そんな問題意識を持った訪問になりました。
ここでテーマを変えて、これまでの個人的なトルコとの関係性について経過を追って触れてみます。
1990年代の初頭にはドイツに多数の難民が入ってきましたから、それへの対策として政府の「難民法改正」(注)が議論され、他方でそれに対抗して、市民のなかに複数多様文化を受容しようとする寛容なドイツ社会を目指した運動が広がってきた時期です。学校、大学、文化センター等々、町の至る所ではイスラム圏を中心としたオリエンタルな文化活動が紹介されていきました。その一つがベリー・ダンスです。私は映画で見たことはありますが、実際には知りませんから興味もあり、文化コースで受講したドイツ人女性たちの発表会に招待されて見に行きました。体形の異なる大きいドイツ人女性のベリー・ダンスは、千一夜の夢を見せてもらえるどころではなく、夢から覚めて現実に引き戻されてしまった記憶が今でも残っています。
いま改めて当時を振り返り、その時の社会の底辺深く広がる多様な文化と人びとの流れが90年代後半から2000年代の初めには見かけられなくなってきていることに気づかされます。激しくなるイスラム議論と無縁ではないように思われるのですが。
(注)この時の「難民法改正」が、現在の難民問題をめぐるドイツ-EU政治問題のネックになっているというのが私の基本的な見解です。
同様に語学学校、大学のドイツ語コースではさまざまな外国人と一緒に勉強することになり、私の成績は別にして、それだけでも楽しかったです。そのなかにトルコ出身の姉妹がいました。幸いにもお互いに大学入学が決まり、私の家で入学祝を兼ねてみんなで食事をすることにしました。前もって参加意思を伝えていた姉妹は、しかし当日、現われることはありませんでした。「どうしてなのかな?」と心配したり、怪訝に思ったりもしました。後に知ることになるのですが、モスレムの女性は、未婚、既婚を問わず身内外の男性との交際は固く禁止されているのです。
ここで「名誉殺人」が発生したりします。女性が家族から離れて隠れて異性と交際でもすれば、モスレムとしての家族の名誉を傷つけられたことになり、こうして父親、兄弟から、すなわち身内の男性の手で姉妹を強引に家族に引き戻すために、その結果、殺害事件が引き起こされ、それが頻発して社会政治問題に発展したのも90年代半ばころの話です。
モスレム家族の女性は、常に男性の監視下に置かれていることになります。一緒にドイツ語を勉強した姉妹も、同じ環境に置かれていたことを知りました。共に学んだ意味がどこにあるのか、何だったのかと思うと、空虚な思いにかられます。
こうしたトルコ人家庭の現実的な課題に関する啓蒙と広報を担当していた知人のトルコ出身の警察官から、町の劇場メンバーと協力して「名誉殺人」をテーマにした演劇が公演されるから、「ぜひ!」といって招待されました。「日本にも過去に『名誉殺人』があったことを知っていますか」といわれ、わが身の無知を恥じ、他人事のようには思われませんでした。
大学の政治学の講座で、クルド系の学生と同席することになったときのことです。クルド族の独立と独自国家の建設に向けた闘争がPKK(注)を中軸に闘われ、それがドイツにも波及していたのが、同じく90年代半ばのことです。政治学部の教授がこの現実的なテーマを議題に取り上げ、「彼らテロリストが!」と発言したとき、クルド系学生が即座に立ち上がり、「10人、100人の少数グループではなく、民族全体の要求として、組織された闘争を、どうしてテロリストと呼ぶことができるのか」と反論しました。
教授と講義参加学生は、「何事か!」と彼の方を振り向きましたが、言葉が返ってきません。講義は白け切ったままで、クルド系学生は講義室を立ち去り、それ以降、キャンパスで彼の姿を見かけなくなりました。推測の域を出ませんが、おそらく彼は、戦闘に参加していったのでしょう。
とにかくテーマと議論は現実的であり、政治的に活発な当時の大学生活でした。そこで、政治学からではなく、私はドイツ-ヨーロッパの政治を学んだように思います。
(注)クルド族のマルクス‐レーニン主義者党。独立国家の建設に向け武装闘争を組んできました。ヨーロッパ、アメリカ政府は「テロ・グループ」と規定しています。
(つづく)
初出:「原発通信」1530号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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