前回の文章について「原発通信」編集部から、〈われわれはドイツを理想化していたのでしょうか〉という旨の問いかけがあり、その後この「理想化」の意味を、日本で自分は果たしてどのようにドイツの政治を見てきたのかと、ここ2ヶ月ばかり個人的に時間をさかのぼって考えていました。今回は、その辺の事情から書き進めます。 ドイツに視線が向かい、意識化された政治テーマとなってきたのは、68年以降だったように記憶します。戦争映画としては、たとえば『コンバット』のアメリカTV番組が娯楽の一部として各家庭に入ってきたのは確か60年代半ばだったでしょうか。ナチ軍を撃破・撤退させる強いアメリカ軍。それは歴史的事実だとしても、今から考えれば戦後アメリカ民主主義の政治宣伝であったでしょう。同じ線上に反共産主義-「べトコン」撃滅を目的としたベトナム戦争が発動されました。しかし、本国の膝元ではベトナム反戦運動が取り組まれ、その中軸を担ったのは学生運動、女性、マイノリティーおよびアフリカ系市民の自主解放闘争でした。 絶対的な権力と軍隊に対する人民の反抗は、世界各国に拡大していきます。その様子を、ベトナム解放後の90年代初めに現ホーチミン市(元サイゴン市)にある戦争記念博物館で目にして、「正しかったのだなあ~」と自分を慰めていました。 確かに戦後のアメリカ文化は、私たちの世代に強烈な刺激を与えますが、米帝のベトナム戦争は「アメリカ民主主義」のどす黒い別の一面を見せつけることになりました。 70年代の初めに、ベトナム解放軍の包囲網が日一日と狭められ、サイゴンが陥落するまでの様子を新聞紙上で毎日、歓喜しながら追いかけていました。 この体験が、国内の政治問題への意識的な取り組みを促した要素だと思います。沖縄とアメリカ軍、そして沖縄と本土、三里塚軍事空港、国内の女性、部落、在日差別。今まで見えなかった世界が見えてきます。 それだけではないでしょう。この時代を生きた当時の学生、青年たちは、間違いなくその時、大学の存在と学問の意味を問い、「自分は何か?」「どうするのか?」と真剣に自問したはずです。どんな可能性があるのか? 「第二、第三のベトナムを!」が未来への指針になりました。こうして単なる反米ではなく、(世界の)人民の解放が政治の目的になったと思います。 ベトナムが解放されアメリカ本土での反戦運動が終わってから、それを闘った学生、青年たちがどうしているのかに興味がありました。日本では拘置所が満杯になり、収容能力の限界が政府筋から語られるほどの大量逮捕、起訴が続きました。それは、学生、青年たちにとって将来への重い足枷になります。公安から監視・介入され、職場から排除されていく過程は、50年、60年経った現在でも聞かれます。しかし、彼(女)たちはひるむことなく、意気軒高としている姿が伝わってきます。闘う仲間を守り、新しい仲間を追い求めているのがわかります。 それ故に余計に、アメリカに興味がいくのですが、一度だけ、それに関する記事をドイツの新聞で見つけました。そこでは、反戦運動の潮が引けばエリート大学に戻り、卒業してキャリアを積んでいく学生の姿が描かれていました。それのできるのがアメリカ民主主義かと理解しながら、自分との違う世界を垣間見る思いでした。 他方ではマイノリティー、女性、アフリカ系市民の自主解放闘争は引き続き闘われていきます。そのときの人格的な活動家で、現在でも身近に届けられてくる名前はジョン・バエズとアンジェラ・デービスの2人だけです。もっとも私の情報不足で、知らないだけの話でしょうが。 アメリカはその後、反ソヴィエト共産主義の闘争をアフガン戦争で、タリバンとの軍事協力・支援の下ですすめ、以降は、中東を中心に反イスラム(原理)主義を今度はタリバンおよびアルカイダとの絶滅戦に入っていきます。このとき、しかし、アメリカからの反戦闘争は、1人の議員の反対以外には聞かれませんでした。そしてトランプの登場です。 フランスとドイツの68年革命は、このベトナム反戦闘争を引き継ぎ、次の政治課題を目指していたといっていいでしょう。 学生、労働者、青年、そして女性、移民たちが、戦争の歴史を振り返り、冷戦と核軍事兵器拡張の進む現実を前にして、「歴史を繰り返さない」ための思想闘争と運動を組織しました。その理論的な代表者になったのが、サルトルたちではなかったでしょうか。彼から影響を受けた青年たちが政治学者、哲学者になり、現在、対イスラム・テロと反極右・ナショナリストに対する論陣を張ることになります。 ドイツと同じような戦争の歴史を経験し、戦争への課題を有する日本の反戦運動は、こうしてドイツとフランスからともに学ぶことになりました。 戦争とファシズムに対する理論と路線を、ドイツ革命の敗北から再検討することでした。 それはまた、私自身の課題となりました。今年はワイマール共和国成立100周年に当たります。昨年でしたかフランクフルトの展示を見てワイマール共和国の社会、文化、政治的なダイナミズムに目を見張らされ、その後、今年1月にベルリンで報道写真家が残した当時の写真展示を見て,さらに、カッセルはワイマール共和国を宣言したシャイデマンの出身地ですから2か所での展示があり、歴史学者の案内に2回参加してきました。確か5月には、ワイマールでの展示が予定されています。 長々となりましたが、〈理想化していたのでしょうか〉という問いに、確かにそうだとすれば、どこに理想化していく要因があったのかということになります。 理論の正当性を主張することは、路線の対立を煽ることになります。一言でいえば、革命の勝利を誰が保障するのかという党指導の絶対性を争うことになり、ソヴィエト共産主義とスターリン主義を批判しながら結局は、論理的に同じ構造にはまっているように思われてなりません。 それは理論論争ではないでしょう。市民、人民の政治意識と闘争を積極的に支援・強化するどころか、反対に分裂をもたらすものでしかないでしょう。こうして20年30年代の左翼は分裂を深め、この痛手は現在でも癒されることはありません。その一方で、現状では数万、数十万の生徒、学生、労働者、青年、市民、女性、移民の結集するデモ、集会、闘争が取り組まれ、今後の大衆・政治運動の将来を提示しているようです。理論と路線議論は不可欠だとして、その視線をどこに向けているのか・向けていくのかということでしょうか。 ワイマール共和国がこのことを教えているように思われ、それに関して今回書く予定でいましたが、それ以前に、どうしても問いかけの意味を整理しておく必要性から、時間がかかってしまいました。 ワイマール共和国がなぜ敗北し、どういう過程でナチが政権を奪取したのか、革命側でいえば、だからどうすれば革命に勝利できるのかという総括は、確かに重要だとはいえ政治過程の分析にすぎず、それによって市民の社会、労働、政治生活でのダイナミズムからかけ離れ、一面的な議論に終始し、ここに私がワイマールの左翼の分裂を見るといえば、あまりにも軽率でしょうか。 日本の新左翼運動も、ドイツのこの点を見落としていたように思えてなりません。 社会に渦巻くこの市民のダイナミズムをどう把握し、理解するのかというのは決定的であり、そこからの理論と路線だと思います。 〈ドイツの理想化〉の意味を私はこのように考えています。詳しいことは、次回からまた追って少しずつ書いていきます。 その前に、ドイツのロマン主義について〈理想化〉の意味を考えるうえで何かを示唆しているようです。 〈ドイツのロマン主義〉という用語を私が目にするようになったのは、2015年以降の難民問題がヨーロッパで議論され始めたときでした。 国境を開放し、市民が積極的に難民を受け入れようとするドイツに対して、国境を管理あるいは閉鎖して、難民が国内に流入してこないように批判した諸国、グループから発せられた用語であったように記憶しています。その裏にあるのは、現実から目をそらし、理念のみにとりつかれて法秩序を堅持できない無責任なドイツ首相メルケルとEU-政治共同体を弾劾することによって、ナショナリズムを強調することでした。 ドイツが国境をオープンにするのは、戦争とユダヤ人大量虐殺に対する責任意識からのものであり、それはドイツの課題ではあるが、EU各国にはそれぞれ国民的な課題が課されていて、大量の難民が国境に押し寄せてくれば、市民と社会秩序を守り、体制を維持するのが国家の本来の役割ではないかと主張したいのです。 一つの大きな時代的な転換期での、EUという政治共同体をめぐる戦略的な論争であったように思います。 確かに難民問題に関するドイツの政治は、市民のなかにあったヒューマンな理念を現実化できないできています。国境を越えるグローバルな資本だけではなく、その結果としての人民の移動に際して、新しい政治経済制度と社会構造が求められるはずですが、政治(官僚)から語られるのは、使い古され、すり切れたレコード音声の繰り返しでしかありません。それを聞けば、鳥肌が立ちます。状況が変われば、政治内容とともに政治用語も変わり、新しい政治議論の方向性が模索されねばなりません。それができずに汲々としている姿だけが伝えられ、こうしてEUの現状は極右・ナショナリストの攻勢を前にして防衛一手にまわり、結局は、彼らに対抗しながら、実は自分がナショナリズムにどっぷりつかり、EU議論を聞いているとそれを自覚できないで、いってみれば「民主主義の本家」を唱えているところに一番の危険性が潜んでいるといえるでしょう。 他方で、ドイツの理念主義というか、ロマン主義を批判しながらナショナルな自覚と責任を主張するEU内諸国、グループには、ユダヤ人問題とナチ支配、そしてソヴィエト共産主義への国家とともに個々人の根本的な歴史的批判が置き去りにされているように思われてなりません。 一方が他方を断罪・批判することではなく、植民地、戦争の無残な被害と人民虐殺、戦前戦後の政治支配と人民抑圧・粛正に真摯に向かいあえば、〈加害と被害〉の国内外の人間及び社会関係への違った視点が可能になるのではないでしょうか。それによって、他者への目が間違いなく開かれるはずです。 現在のヨーロッパの若い人たちの政治運動は、そのことを訴えているように思います。 社会をどう変革するかということではなくて、社会そして人民とともに、人は歴史的にどう変わっていくのかという問題のとらえかえしではないかと思います。それが変革への道ではないかと考えていますが、どうでしょうか。 最後に余計なことかもしれませんが、面白い話を、といえば失礼ですが、付け加えておきます。 上記のきわめて個人的なもどかしい文章をわかりやすく説明してくれると思うのです。実のところ、これを書いたのは、彼の話を聞いたのがきっかけになっています。 私の学校の教務主任が歴史学者で、授業のある毎週火曜日には、30分ほど早めに到着して、彼と教会の入り口横の日当たりのよいところで、タバコを吸いながら雑談しています。 そんな気安さがあるので、難しい理論ではなくて、ストレートな対応と表現での話しになります。彼自身も難民のドイツ語授業の運営、組織、事務等で精神的にも身体的にもくたくたになっている状態で、気休めにもなるのでしょう。 難民問題で明らかになっているように、ヒューマンな理念と現実の乖離が現在の政治問題を生み出している様子を、〈これがどこまで続くのか〉といわんばかりの口調で話してくれます。 わたしには同じことが、日常生活の環境問題、食生活等々で、〈なぜ、ドイツはイデオロギー化していく傾向があるのか〉という疑問がありましたから、そんな話をもちかけると、彼は、〈ドイツのロマン主義〉の歴史を話してくれました。 ドイツ人にとっては、現実にある世界というのは、こうあるべきだと自分が思う世界の表象でなければならず、それが始まったのはカントの時代からだと自嘲気味にいいます。続いて、ここで2人して大笑いしてしまうのですが、たとえば、ドイツ人は散歩が好きで森ヘよく出かけます。散歩のルートは、ドイツ人の気質からしていつも決まっています。森ですから直前に大木が立ちすくんでいて、通り抜けができません。このときのドイツ人の思考にロマン主義の典型を見るというのです。 では、そこでドイツ人はどうするのか? そもそも木が立っていることが間違いなのです。自分の散歩ルートを遮る木が存在してはいけないのです。そこで罵倒と苦情が始まります。だから次回には、ルートを変更するかといえば、そうはしないで、また同じルートを通り、同じところで罵倒と苦情を繰り返すことになります。 この話を聞いて、私には〈ドイツ・イディオロギー〉〈ドイツ観念論〉という概念が頭をもたげ、その意味するところが理屈ではなく、生活実態として理解できたように思います。 後にマリアンネが、「E・バイクで街に出かけてくるよ」というので、この話を伝え、インドで経験したこともあるので「通りを走っていて、目の前に大きな象が立ち現れてきても、ロマン主義のように突き当たってはだめだよ」と皮肉まじりに言う私に、「象はかわいいからね!」と。 追突する、避けるかではなく、興味をもって身近に立ち寄り触れてみることが、啓蒙主義 ロマン主義をはじめヨーロッパ近代合理精神に、現在求められているものではないかとひとまず思いますが、これで、「通信」編集部への回答になっているかどうかは疑問です。 |
初出:原発通信1548号 2019.4.10より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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