秋休みの2週間に香港でトランジットの機会があり、往き帰り合わせて4 日間滞在することになりました。
ドイツからアジア向け航路では香港経緯が500ユーロ*そこそこと一番安上がりになり、本来の目的地に向かうには、最短距離で時間の節約ができます。それに加えて、香港民主化運動の周辺事情を現地で少しは見てみたいという希望がありました。
*1ユーロ=120円として、約6万円(編集部)
今年の6月ころから連日、学生を中心とした香港民主化運動が続けれ、当初は主に、週末に取り組まれていたデモと集会が、秋の初めには、ほぼ連日行われるようになっていました。しかし、ドイツでの報道は時間の経過とともにTVの定時ニュース、新聞の記事からも消えていきました。その後には、新聞に小さな記事が見つけられるだけになっていました。
「メディアのいつも通りの報道姿勢か」と呆れ返りながら、他方、民主化運動には数十万、百万近くの学生、青少年、市民が結集してきます。それと共に警察側の警備、デモ鎮圧は強化され、街頭市街戦が展開されてきました。この状況は、メディアで知ることができます。しかし、その市街戦の模様を映像で見ながら、〈これからどこに向かうのか〉と考えさせられ、現地を見てみる必要性がでてました。
運動が始まった頃には、ヨーロッパのメディアは連日、「香港民主化!」と大々的に報じ、市民ともども中国共産主義‐独裁政府に対する「民主主義の勝利を」と歓声を上げていました。しかし、「民主主義」に関してはそれ以上の内容が伝わることがなかったように思います。単に独裁制に対する政治体制が「民主主義」であるならば、それはあまりにも空虚というものでしょう。この空虚さが、この間の軍事対立、対IS、「「アラブの春」、中東紛争、シリア問題等々で、民主主義諸国を傍観させるだけになった一番の要因だと思います。
所謂「ヨーロッパ民主主義」が、はたして戦争、軍事・政治対立に対する解決能力を有しているのか、いないのか?
「アラブの春」では、「ヨーロッパのではない自分たち(アラブ―筆者注)の民主主義」を前面に主張していました。このとき、西側諸国はなしのつぶてで傍観するしかなかったのは、まだ記憶に新しいところです。その構造は今日まで続いていると判断して間違いないでしょう。
香港へ行ったことのあるベトナムのボート・ピープルの知人から、香港市民が彼らに語った言葉を聞かされました。
「あなたたちヨーロッパ市民も、自国でいろんな問題を抱えているわけで、その解決に向けて努力してください。わたしたち(香港市民―筆者注)は、自分で解決の道を見つけますから」
紛争のなかにある他国の市民が、ヨーロッパ―ドイツをどう見ているのかという、厳しい判断がここには示されています。外部から「民主主義を!」と叫ばれても、単にハエが顔の周りを飛び回るように煩わしいのでしょう。
この間、ドイツ政府から首相メルケルに引率された訪中団と中国側との会談も持たれていました。「人権」および「香港問題」に関して明解な政治議論とアピールをするようにと、ドイツ側野党及び香港民主派から期待されていましたが、メルケルおよび同行した経済界メンバーからは、当たり障りのない一般的なコメントが出されただけで、経済権益を前にしては、「民主主義」は単なる枕詞でしかすぎないことが、今回もはっきりしました。
ここまでは、理解できる範囲での批判です。問題は、そこから何を引き出すのかということでしょう。視点を変えれば、現在の香港民主化運動をどう理解し、〈自分〉がいかにヨーロッパ・ドイツの民主化を進めるのか、それに貢献できるのかという実践的課題になってきます。そのために私は、どうしても短時間とはいえ、現地を踏む必要性にかられました。何かを考えるためには、その地で空気を吸ってみようというのが長年のモットーになっています。
出発直前に香港空港が占拠され、また、ゲリラ的行動をとるデモ隊の結集を阻止するために地下鉄の運行規制も布かれました。香港で身動きできなくなり、期日通りにフライトができなくなったときの状況を想定したわたしたちの日程になりました。それが、前後通算4日間の香港滞在となった次第です。
民主化運動で、銀行、金融、通商のアジアのセンターといわれる香港経済はかなりの打撃を受けていたようです。
空港占拠は、その頂点に達していたでしょうか。人、資本、物質の国際的な流通がブロックされたことにより、社会からの反発が強まり、デモ隊は「謝罪した」と報じられていました。
宿泊は、政治・治安不安定で私たちには高嶺の花の香港島を避け、空港のあるランタオ島になりました。往きは、幸いにも見つけた空港内の格安セールス中のホテルがとれましたが、食料買いの空港への出入りは、厳重なチェックが行われており、警備員に囲まれてホテルの宿泊証明とIDカードを見せて、やっと通行が可能でした。
このときは、香港の高層ビルと夜景を遠巻きに見るだけでしたが、フェリーは、夕涼みに来ている市民たちでいっぱいになっていました。とりあえず街の顔を見ることができました。安心したものです。事情がわかりませんから、夜の香港島への乗り入れは見送るしかありません。しかも空港からの地下鉄乗り入れは禁止されていました。10月初めのことです。
帰りは、空港の反対側の静かな漁港で、香港島まで直通フェリーの出ている小さな町で宿を見つけました。30分おきに出るフェリーを使って香港島に出かけます。周りの人たちが、午後2時、遅くとも3時には必ず宿に戻るように忠告してくれます。午後遅くから深夜にかけてデモが始まるからです。
私の興味は高層ビルにはありません。オールド・タウンといわれる香港市民の胃袋??バザールを見ることでした。それは、高層ビルに囲まれた谷間に、狭められてくる市民の生活を断固として守り通そうとするかのように自己主張し、セントラルのモダンな街並みとは違って新鮮な果物、野菜、食料のあふれた雑然とした、しかし活気のある街の一角でした。そこには一般市民の生活が見られます。カフェーもレストランもショップもわたしたちには訴えかけるものがありません。むしろ弾き飛ばされるような疎外感を感じます。
周りを取り囲んだ高層ビルによって空気が沈殿し、さらに強烈な冷房装置でその空気が暖められ、湿気も加わり歩くのが困難な状態です。富の集中は市民を窒息させるのかと、くだらないことを考えたものです。
小さな大衆食堂に入り、昼食定食を食べて満足していました。作られた味ではなく、自然な地元市民の味がします。
宿をとっているランタオ島の港にはマーケットがあります。そこにも純粋の香港(中華)料理店が海に面して6件ほど立ち並んでいて、ラーメンをすすりこんでいる住民の隣りで蒸したてのシュウマイ(点心)を「もう一つ! もう一つ!」と、私たちは窯からとって食べていました。わけのわからない怪しげな中国語で「謝謝」(シェシェ)、「再会」(サイチェン)という私に、上半身シャツ一枚の店主は、言葉の不自由があったものの、このときばかりは笑顔を見せていました。
香港島では、ほんの一区画を見て、歩いて、食してみただけです。それでも、自分には十分なように思われました。〈高層ビル群の中で何をするのか〉と反対の角度から自問してみれば、回答は明らかです。
フェリーの港から市内に向かう途中で、今でも気になっている光景が残っています。
高速で車が通り抜ける幹線は広くて横断できませんから、通行人は架橋を越えて市内に向かいます。その架橋の通路のあちこちに数十人規模の東南アジア系と思われる女性たちがたむろし、座り込み、雑談し、そして食事をとっています。連れ合いは、「メイドさんたちだよ」と説明してくれましたが、正確なことはわかりません。
また、正確な表現がわかりませんから「メイドさん」としておきますが、わたしの知る範囲では、アラブの産油国と最近のブラジルで、家事と子どもの世話をするフィリピン系「メイドさん」を見た経験があります。
香港島からランタオ島に向かう帰りのフェリーの客室内での出来事です。冷房が効きすぎて(と思われるのですが)、室温は16-8度まで下がっていたはずです。私たちは震えあがり、フリースを取り出してこの寒さから逃れていました。
英語の訛りからしてイギリス人と思える30歳代後半、あるいは40歳代前半と思える夫婦がフェリーに乗ってきました。2人の子どもがいます。3-4歳くらいでしょうか。それに2人のメイドさんが付き添っています。
子ども2人が大声を上げながら、客室を飛び走り回ります。周りの乗客にはお構いなしの態です。
わが物顔です。若い父親が鎮めにかかろうとしますが、手に負えません。メイドさんが子どもを癒そうとしますが、限界があります。追いかける父親とメイドさんの手を振り払い2人の子どもは、金切り声を上げ逃げ回ります。若い母親は何もできず、スマホを手に知らんぷり。
何人かの乗客は、あきれ果てて客室から出ていきましたが、夫婦には悪びれる素振りがありません。フェリーの料金が、高々数10円で、一般市民の足です。
私たちは、ジッと、ことの成り行きを見つめていました。「なんだ これは!」と思いながら、そこで明らかになってきたのは、子ども教育、外国人家庭の香港社会に対する植民地意識です。周りの市民には目が向きません。親のエゴを守るためにメイドさんが雇われます。子ども教育に割く時間はありません。子供はメイドさんに預けられますが、尊敬ではなく自分の使い人としか思わないでしょう。こうした家庭環境で、自分が生活する外国社会(香港社会)への関心と興味は育つはずがありません。その結末が、見ての通りの現状でしょう。
単なる私の思い過ごしでしょうが、外資で働く外国人駐在員には、未だに、この植民地意識が強いように思われてなりません。地元の人たちは、彼らの視界に入っていないのです。あるのは外資――グローバル資本の世界だけなのです。
「メイドさん」、あるいは「へルパーさん」の労働を否定するものではありません。それが一つの労働である以上、労働条件と契約が存在しなければならないはずです。それによって彼女たちの仕事は社会的に認知され、生存権が保障されていくはずですが、そんなものは伝わらずに、何の尊厳もなくただただ遣い走り、小間使いさせられている様子だけが目につき腹立たしく思った次第です。
香港島の政情不安を逃れてランタウ島には、多数外国の訪問客が宿泊していました。イギリスからの1人の年配女性と知り合い、興味ある彼女の過去を知ることができました。彼女の両親は、イギリス植民地時代の行政管理局で働いていたといいます。彼女も香港で生まれ、その子どもも香港生まれです。その過去と現在を訪ねて、何回も香港に行き来しているといいます。彼女の生い立ちからして何か興味ある話が聞かれるものと、次に何を言い出すのかと注目していましたが、また話の緒をそちらに向けてみましたが、結局は何も聞き出せませんでした。現在の香港社会と市民を、「そんなものだよ」と、刹那的に語るだけでした。
彼女も、イギリス植民地主義の歴史から抜けられないで世界をさまよい、良き時代を回顧しては現実をリアルに捉えられなくなっているのでしょうか。私たちはそんな印象を受けました。そして、そうした人たちの実に多いことに気づかされました。
実は、その先にイギリスBrexitがあるのかと思えば、十分納得がいきます。10月中旬のことです。
夜部屋でTVをつけたら、デモの実況中継が深夜まで延々と報道されていました。九龍(Kowloon)市区でのデモと警備の様子を両サイドから収めたものです。私たちが滞在した香港島での様子とは打って変わった街の様子が目に入ります。通りに並ぶ商店で、シャッターを下ろし閉店になっている店がデモ隊に狙い撃ちされていきます。鍵を壊し、シャッターをこじ開け店内に入り、内部を破壊して、壁にスプレーの落書きが噴き付けられていきます。
他方の映像は、そのデモ隊を追跡している警備隊。
数時間経ってもこの状況に変化はありません。
深夜近くもう一度TVを見たら、デモ参加者が何らかの建物内部を占拠し(注)、そこにある大きなホールに、デモ参加者の一人ひとりが折った千羽鶴で
『 反抗 FREE HK 』
の文字が描かれていました。(下の写真)
TVの画像から
(注)TV報道は全部中国語で、画像の下に同じく中国語でテロップが流されるのですが、私は残念なことに理 解できませんでした。
この素晴らしい感動を与える抗議行動と外部の商店破壊行動が、なかなか私のなかで結び付きませんでした。
最終日はセンターを離れて、離島長洲(チュンチャウ)に向かいました。この発音が上手くできず、フェリーの切符売り場では何回も言い直しをさせられ、係員と大笑いしていました。
長洲は車を乗ることができないので、徒歩と自転車だけが頼りの昔ながらの長閑な漁港です。自然の生態が、歩行者天国をつくり上げているのです。
香港住民に最も人気のある観光地の一つといわれているだけに、人波で混雑していました。漁港、海岸、そして緑豊かな周辺の自然風景は、そこに住んでいる人たちとともに、伝統的な水墨画に描かれた世界のようでした。
子ども連れで楽しそうに水浴している家族の間で、子どもと来ていた南アメリカ系の女性が、スペイン語でメイドさんに大声で喚き散らしている姿を見て、こういう人たちはこの地に似合わない、来る資格がないと腹立たしく思いながら見つめていました。
たかだか4日間の滞在で、あれこれ言うのがはばかられ、また、香港市民には余計なお節介でしょうが、〈民主化運動〉という観点から最後に、私の今の問題意識を、予断と偏見になることを恐れず書きとどめておきます。
香港のGNPは、間違いなく世界のトップ・グループに属しているものと思われます。しかし、それは外資依存によるもので、しかも統計数字でしかなく、市民生活の向上にどれほどの貢献をしているのかというのは、また別の問題であるように思われます。
現に、消費物価の高さに驚かされました。周辺事情を見てきた私たちは、この状態ではたして香港市民が生活できるのかと疑問をもったものです。そういう私たちの財布は、見る見るうちに空になっていき、先行きを心配しなければならないほどでした。貧しいヨーロッパ市民の思い過ごしというものか。
強欲なグルーバル資本に対抗して市民の社会生活を支えているのは、バザール(マーケット)、小売り、自営、通商、漁港、小作農の人たち、それに加えて外資企業、あるいはその関連会社で働く人たちでしょう。そこには、しかし貧富の格差と、社会階層・階級の明らかな分岐が認められます。同じことは経済面だけではなく、社会インフラと住居状態にも見てとれるはずです。
外資支配の経済・金融体制には、間違いなく植民地意識が社会全体に深く根をおろしていることは、これまたわずかだとは言え個人的な体験から確信できるところです。
他方で、中国中央政府からの独立と自主決定権、そして民主主義?―表現の自由、司法の独立自由な選挙を要求する運動は、権力の弾圧を受けながら、現在では香港・中国政府に対する政治闘争に発展してきていると判断できます。実は、そこでの今後の政治方針に向けた議論が、先に挙げた2つの闘争場面となって表れていると判断してよいのではないでしょうか。そう考えれば、私には納得がいくのですが。
逆に、デモに晒される香港政府の動向を見れば、いち早くこの点に気づき、手軽な社会公共住居、支払い可能な住居地区、公共交通機関利用者への財政援助、健康・医療面の充実を訴えて、民主化運動との「対話」、すなわち運動つぶしを模索してきているといえるでしょう。
民主化運動には数十万、否、百万の市民が結集し、支援していると伝えられています。彼らたちが民主化と同時に、あるいはこう言っていいかと思いますが、民主化運動のなかに先に挙げた社会・経済問題と外資の植民地意識問題を取り組んでいくならば、あらゆる各層の市民を結集、結束させ、社会変革を実現する民主化運動を貫き通すことができるのではないでしょうか。それはまた、政府の懐柔策に対する対抗軸になるはずです。
そして忘れられてならないのは、夏に室内気温を16-18度まで下げるエネルギー問題があります。それらが一体になれば、間違いなくヨーロッパへの新しい政治アピールになるはずです。
「アラブの春」から8-9年が経ちました。しかし、現在、アルジェリア、エジプト、それにイラク、レバノン――中近東で「第二のアラブの春」が始まろうとしています。独裁を倒した後に、再び別の独裁を成立させてしまった経験から、独裁反対、権力者による富の自己肥大化、利権・汚職、社会的不平等、生活困窮に反対して根本的な改革を要求し、〈人間の尊厳〉を前面に掲げた決起が続けられています。
これらが、どこで、どうつながるのか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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