ドイツ通信第157号  新型コロナ流行のなかでドイツはどう変わるのか(5)

テーマは「ドイツはどう変わるのか」ですから、そのへんの事情を私たちの身の回りの変化から少し書いていきます。

日常生活で「外出制限」期のスロー・テンポから抜け出せず、現在、周辺で進む再スタートの高速テンポに引き廻されていくのではないかという一抹の不安があります。他方で、それまで感じられてきた生活することへの充実感は失いたくないという意識もあり、この両極で揺れ動いているのが今の心境でしょうか。それは、社会と経済がスムースに機能していく必要性を認めながらも、きっと自分の立ち位置が定めきれないもどかしさがあるからでしょう。

そんなことで内心揺れながら、気分転換に庭に出てあたりを見回せば、確かに今年は綺麗な花が咲いています。訪れてくる友人から「よく手入れされているね」と言われては、「コロナ効果だよ」とブラック・ジョークで答えるのが常になっています。

 

目新しいところでは、庭の片隅に菜園をつくったことです。〈混雑するスーパーでの買い物は避けて〉と考えているうちに、自ずから浮かんできたアイデアでした。もともと肉食と外食するのはまれで、目に留まる手持ちのものを料理して済ましてきたタイプですから、おまけに十分時間があり、自前の材料であれこれと国籍不明な食べ物を試作しては楽しんでいました。時間に追われて片手間に食事を作っていたのとは大違いです。

同じことを考えている人たちがいるようで、庭を掘り返し菜園に改造している姿をあたりで見かけます。

 

コロナは、人間を自然に近づけたのかなと考えさせられるのです。それは人間生活の在り方を問いかけているのでしょう。人間が自然を物理力によって制覇するのではなく、自然の成長に合わせた社会の発展を必要としているという意味だと思います。自然の成長するところにはどこにでも、人間の生存資料と条件は見つけられるということを教えてくれたのがコロナでした。

そう考えると再スタートに見られる姿は、再びいかに速く、遠く自然を超越するかの競争が始まったというしかありません。

コロナ対策を社会の対人関係からとらえ返したとき、そこで決定的な意味をもっていたのは共有、共存・共生で、競争ではなかったはずです。

自然資源を食いつぶしてしまえば、人間の自然をめぐる争奪戦が始まるのは理の当然で、逆に自然を保護し育成すれば、豊富な生活資料は十二分に世界の人たちに食料(栄養)と生命を提供するはずです。それが自然の生命力という意味でしょう。豪雨、寒波、日照りにたたられても、またすぐに自然は回復してきます。人間存在が自然の一部というなら、そこに人間の生命力と回復力は見つけられるはずです。

しかし、これはなにも事を荒立てて私がここで力説する必要はなく、ここまでは誰もが言えることです。問題は、それを可能にする社会・経済システム、つまり人間関係がどうあるべきかが、今こそ、この機会に議論されなければならないということだと思うのです。

 

以上の問題点を、ドイツの2つの議論のなかから具体的に検討することにします。

 

1.

一つは、コロナ感染で被害を被った経済の再生をめぐる国会議論です。「輸出の世界チャンピオン」といわれるドイツ経済を支えているのは自動車産業です。シャット・ダウンから操業再開にあたり自動車界から望まれたのは、新車販売促進に向けた政府からの助成金です。以前、2000年の初めだったでしょうか、不況に陥ったドイツ経済を支えるために、車を新車に乗り換えれば3,000ユーロの助成金が出され、それによって自動車産業、それはドイツ経済ですが持ち直したという経緯があり、その夢をもう一度というのが今回の議論の一つでした。

自動車産業界の力というのは、どこでもそうですが政治を動かします。コロナ規制制限から緩和に向けて圧力をかけたのはバイエルン州(CSU首相)、バーデン・ヴュルテンベルク州(緑の党首相)、それにニーダーザクセン州(SPD 首相)の3州です。この3州は何れもドイツ自動車産業の拠点です。3州に自動車産業界のロビイストとしての共通した性格は認められながらも、そこに何らかの違いを見つけるとするなら、緩和スピードとコロナ対策の如何でしょう。

特にCDU/CSU、そしてSPD内部には、とにかく「売らんかな」の消費優先の考えが支配しているのが浮き彫りにされたものです。根本的な経済対策案ではさらさらないのです。

SPD党代表は当初からそれに反対していましたが、州と党内の動向がありますから、巷では〈また、訳のわからない妥協か〉と猜疑の目で成り行きを見つめていました。結果はガソリン車新規購入への助成金はSPDの強烈な反発から拒否され、それに代わる妥協の一つでしょうが、電気自動車への4,000ユーロの助成金が合意されました。

しかし問題は、誰が高価な電気自動車を購入できるのかということです。市民の購買力を高めて経済の活性化を促進しないばかりか、中間層、低所得者、貧困層にはまったく高嶺の花で、経済が足場を持たず宙に浮いてしまっています。

もう一つ興味あるのは、ガソリン車新規購入への助成金を拒否された自動車産業界は言うまでもなく、労働組合の反応です。

労働組合側から「長年培われてきたSPDとの信頼・同盟関係を破壊するものだ」「もうSPDを支持できない」との猛反発が噴出していることです。

 

こんな話を聞かされると、日本で議論されてきた〈産業別労働組合か企業別労働組合か〉の議論が、一体何だったのだろうかと考えさせられます。この背景には戦闘的なヨーロッパの労働者の闘いと、それに対して右傾化する日本の労働者の現実をどう理解するのかという苦闘があったと思います。そこで、ヨーロッパから学ぼう!

日本とヨーロッパの労働組合の歴史的な形成過程に関して、私は無知です。今後の課題としてここでは残しておきますが、このテーマが労働運動の発展に重要な意味をもっていることは十二分に承知したうえで、労働者の存在とは何か?労働者の利害とはないか?と考えざるを得ないのです。主要基幹産業の労働者であるがゆえに、社会の発展とはかかわりなく独自の位置をもっているとでもいうのでしょうか。

 

自然破壊、気象変化、ウイルス感染に直面して、人間の生存が脅かされ社会が変わろう、変わらなければならないそのときに、過去の古い世界にとどまり、自分たちの職場の安定と安全を資本(家)と歩調を合わせて防衛しようとしている姿が見えてきます。企業防衛から戦争翼賛へは紙一重といえるでしょう。

その一例が、以前に少し書きましたが、労働者(運動)のなかに極右派勢力が伸長しつつあることです。

ドイツの労働組合が社会のなかで政治的な意味を失いつつある理由が、このへんにあるだろうと考えています。運動の組織形態は、現実の政治的必要性に規定されるもので、その逆ではないと思います。

 

これを一面とすれば、他方で労働者自身のなかに新しい政治の必要性を感じているグループも生まれてきていることから、コロナ後を見越した議論が活発になることを期待しています。それを促すのは、間違いなく幅広い社会大衆運動だと思います。()

(注)この同じ課題は、エネルギー転換が求められている炭鉱産業と炭鉱労働者(組合)についても該当します

 

この項の最後に、マスク着用と消費の関係について書き加えておきます。相互にどんな関係性があるのか、2つの言葉を並べただけではわからないのですが、営業の再スタート直後に行われた商工会議所等が行った市場調査、アンケートの結果から、このテーマが突如浮上してきました。

経緯はこうです。小売り、デパート等の供給側は、もちろん再スタートによる市民消費の伸び――要はコロナ禍による経営損失を補う売上――を期待していましたが、しかし現状は、期待した通りの業績が上がっていないことから、その原因が調査、分析され、その結果が小さな記事といえど、上記のテーマで新聞、雑誌に掲載されたということです。

 

マスコミには〈消費が滞っているのは、マスク着用が原因〉の見出しが見られます。心理的に理解できないこともないのです。が、私にはマスク着用に責任をかぶせた言い訳、言い逃れとしか聞こえないのです。市民の差し詰まった心理を理解できない経営者の慰めでしかないのです。ここに見られるのも、利益への自己執着です。しかし、それではコロナ後の経済再生と再建は無理です。

市民の価値観、生活様式が変わってきていることをこそ調査、アンケートすべきでした。正直なところ、健康破壊と失業による生活への不安に襲われている市民の誰が、消費税が19%から16%に減税されたといって、それも国会決議では2020年12月31日までの限定付きの代物で、ショッピング・フィーバーに浮かれるでしょうか。減税3%が、市民生活にどれほどの価値を与えるのかを、まず自問すべきです。その程度にしか市民、消費者を捉えられない資本の理解力というしかありません。市民の感覚、判断力というのは、もっともっと社会的に深く、広いものでありうることを知るべきでしょう。

 

単純に計算すればわかることです。3%が減税されても、短縮労働で賃金が30-40%カットされ、さらにその後に倒産-失業が重なれば、この比率にどれほどの魅力と価値が認められるのでしょうか。

そんなことよりも、市民は将来に向けた健康管理と食生活、そして何よりも家計の計画を立てるはずです。それが、小さいといえど菜園作りに見られるのではないかと、私は考えています。

コロナ感染で中断した営業を再開して、そこに何がしかの新しい価値観と展望が見られなければ、人は見向きもしないでしょう。

 

以上のことは教育現場にも言えることですから他人事ではなく、夏休み後の学校再開に当たって、生徒にどう対応し、どういうコンセプトで授業を進めるかを考えれば、今から自分自身にもプレッシャーがかかります。

 

2.

2つ目は、産業の構造的な問題についてです。〈奴隷労働〉、〈資本の植民地主義的な労働支配〉が屠場・精肉産業に見られ、そこが現在のコロナ集団感染のホットスポットになっています。

ここでは、どのようにしてこの制度が形成され、機能しているのかをもう少し具体的に検討してみます。それによって、新自由主義とグローバリゼーションの今日的な意味が、明らかになるはずです。

2つの資料(注)を参考にして以下に整理してみます。

(注)Der Spiegel Nr.27/27.6.2020 Das Schweinesystem Frankfurter Rundcshau 27./28. Juni 2020 Das T?nnies-System von Christoph Hoeland

 

ノルトライン・ベストファーレン州にある精肉工場で「集団感染」が発生したことは、前回触れた通りです。

ドイツの肉市場の60%が、3つの精肉会社によって占められているといいます。今回「集団感染」が起きたのは、そのうちの一つです。

 

大きな転換期は70年代に入ってからです。戦後ドイツの経済再建が進み、食料品が豊富になり、また生活も豊かになったことによって食生活と文化に大きな変化が起きてきます。日本もそうだったでしょうが、その一つの表われが肉食文化への転換だったでしょう。貧しい人たちにも、肉が食べられるようになったのです。このへんの感動は、自分でもよくわかります。それまでのコメと野菜だけの食卓に肉が加わってきます。なんだか筋肉がつき力強くなったような錯覚を覚えたものです。

需要が膨れ上がり、供給が限界に達します。

統計的に肉消費の発展経過を見れば、1950年から70年にかけて牛肉、豚肉需要は2倍になり、鶏肉需要は8倍になっています。

これが70年代初頭の肉市場の現状でした。では、はたしてどのようにこの市民の胃袋が満たされていくのか。

 

1).自治体所有から私有化へ

戦後の屠場・精肉産業は、各地方自治体の投資の下で助成・振興されてきました。一方で個人資本が不足していたことと、他方で国民の栄養を確保する必要から、言ってみれば国有化によってその後の精肉産業の軌道がつけられたことになります。

一般市民にも手軽に格安な肉製品が届けられなければなりません。また年々、市民の肉需要は爆発的に増大して行きます。

しかし、旧屠場・精肉産業の制度は老朽化し、需要に供給が追いつきません。産業の近代化が求められますが、地方自治体には投資力が欠けています。

この問題が、国有化から私有化へとなり、資本力の勝る企業家の手中に屠場・精肉産業が分割され、大手集中を促進することになります。

 

2).私有化の問題

従来の屠場・精肉産業は、特徴的には地域の市町村が立地条件になっていました。そこでは技術と経験を有した職人の労働が品質を保証し、次の世代にノウ・ハウが継承されてきました。労働過程はいくつものステップを踏むことになり、時間がかかります。価格は高くなりますが、地域住民の需要を賄うことは可能で、それによって労働への尊厳と公正な労働条件が保障されていました。

ここに地域の経済循環機能を見ることができます。それは、住民の安定した生活を確立することになります。同時にそこでは檻に囲まれた豚、牛、ニワトリの大量飼育は必要ありません。動物は、町はずれの草原で放し飼いにされていたでしょう。

私有化は、これらのすべての構造と制度を、さらに価値までも破壊し、そのうえに新しい独占をつくり上げました。

地域の屠場・精肉工場を一手に集中することです。マルクス的にいえば、マニュファクチャーから「資本主義工場制度」(『資本論』)といえるでしょうか。地域の特徴は取り払われます。その結果、

 

・動物の大量飼育

・工場の機械化

・職人労働の廃止

・単純労働の導入

・工場内流れ作業

 

が進められ、屠場と精肉過程を統合した一大工場が現出することになりました。それによって、

 

・より安価な肉

・多量生産

・全国販売

 

が可能になると同時に、激烈な市場争奪戦が火花を切ることになります。市場戦争です。

 

3).安いドイツの肉!

ドイツに来た時、「肉が安い!」と感動して、肉を食べる機会が多かったです。特に夏はバーベキューの季節ですから、居ても立ってもいられません。休みになれば家に友人を招待して、また逆に招待されたりして、庭中で炭火の上でこんがりと肉を焼いて食べるのが習慣になっていました。

特に豚肉は脂がのって日差しの下で食べれば最高でした。ドイツ人はそれにビールが加わりますから、一層陽気になり楽しいです。

しかし、ここ15年ほど前からバーベキューをしなくなりました。理由をあげればいろいろあるでしょうが、肉食から自ずと遠ざかってきたように思います。自然の成り行きで、理屈を考えるよりはそれはそれでいいかのではないかと考えています。安ければ安いほどいいという問題ではないのです。

 

4).資本主義工場制度の実態

莫大な資本投資に見合う利潤を獲得するためには、

 

・コスト削減

・市場拡大

 

が必要です。要するにこの「売らんかな」の2つの条件を満たすためには、

 

・安価な労働力

 

を不可欠とします。戦後教育を受けてきたドイツ市民には、しかし危険で、汚い仕事は忌避されます。

そこで導入されてきたのが外国人労働者です。機械化により、研修を必要としない単純労働力が、東ヨーロッパから募集されました。その第一陣がルーマニアとブルガリアからです。オートメ化された流れ作業で、しかも高スピードの仕事をこなさなければなりません。言葉を必要としません。体力だけが“資本”となります。

1970年代には、解体して1kgの牛肉をつくるのに平均72分必要としたといわれますが、2005年には、24分に短縮されています。

地域の職人労働と個人経営のマニュファクチャーは、こうして完全に駆逐されてしまいました。

 

この労働条件が、工場外のドイツ市民の日常社会から切り離され、文化生活とは無縁な「労働者ゲットー」を生み出す背景になっています。

 

5).不公平な労働契約

90年代からでしたでしょうか、EUの農産品助成をめぐる議論が、当時はイギリスも含め、フランスとの間で激しくなってきました。ドイツが最低賃金制を、EUとドイツ労働組合の圧力を受けてやっとのこと取り入れたのが数年前からです。それも、すでに他のEU諸国で導入されていた額よりは少ない時給8.50ユーロ()でした。

ドイツが一方で、「EUの牽引車」を自称し、他方で労働賃金ダンピングのチャンピオンである2つの顔が明らかにされた議論です。この点をフランスは執拗に批判してきました。

こうしたダブル・スタンダード路線は、この間の難民、EU、ユーロ危機、ギリシャ問題等々でも、基本的には変わりはないと思います。

一例をあげます。「EUの東ヨーロッパへの拡大」といわれます。私は、ドイツで東ヨーロッパの労働者を奴隷的に搾取して、「どの顔を下げてか」と言いたくなります。それ以上の専門的な議論は必要ありません!

(注)現在は9.35ユーロ

 

精肉会社との間で結ばれているのが、下請け会社との請負契約です。労働基本法に基づく会社との直接契約では、最低賃金を保障し、社会保険、労働の安全と衛生、そして文化生活の保護が法的に義務づけられているはずです。と 専門外の私が書くようなことではないですが、要するに労働者の生存権が確保されなければならないのです。それは資本側から見れば、コストの問題になってきます。

そこで利用されてきたのが〈下請け会社〉制度で、しかも不公平な給料からの宿泊費、作業服等のピンハネを労働者は無抵抗に受け入れなければななりません。抵抗すれば、解雇〈クビ!〉が現実です。

EU評議会によれば、ドイツの月々の平均最低賃金は1,500ユーロ、ルーマニアでは500ユーロといわれています。このユーロッパの東西格差が、〈請負契約〉を生む土壌といっていいでしょう。これはしかし公式の統計で、非公式な数字では、もっと格差は広がっているはずです。それを拾い上げる情報・学問活動が、「EU の東ヨーロッパへの拡大」というとき、今こそ求められているように思います。さもないと宙に浮いた議論に終始して、東西の対立は激化こそすれ、東西が統一することは不可能だろうと思われます。

TVの政治討論番組を見ていたら、日刊新聞紙『Welt』の女性ジャーナリストが、今回の精肉会社のスキャンダルの裏面を指摘して、当地の外国人労働者の給料が1,700ユーロで、しかし1か月の労働時間は270時間を数えるといっていました。ドイツの週労働時間は38.5時間だと思います。それを4週で掛ければ、月にして150時間になりますか。

実にこれが、

 

・安く

・速く

・多く

 

の前提であり結果ということになります。

 

5).「ブタ男爵」の誕生

そこで生まれたのは、一大資本家です。それをメディアと市民は、「ブタ男爵」と呼びます。この会社が、ドイツのブタ市場の3分の一を独占することになりました。ドイツにとどまりません。今では中国にも市場を伸ばしつつあるといいます。()

(注)ドイツ人が食べなくなったブタの足(豚足)が中国で食ブームになっているといわれます。

 

「男爵」とは、なんとも時代掛かりな言葉ですが、そこからは歴史的な文化性、教養、気品というものを連想させると思うのです。それは一代の成り上がりではなく、家系の伝統というものに裏づけされていました。現在はそういう身分制度はなくなっていますから、いいか悪いかは別にして、歴史的にはそうです。

すべての古い身分制度を解体して成長してきた資本(家)には、それが欠けています。そこで政治、文化、芸術分野への取り込みが始まります。〈箔をつける〉ことが、汚職、利権、裏金等々、数えたらきりがないスキャンダルの温床となりました。

工場立地の町には、企業税から市町村収入が増えていきます。凸凹道路も鏡のように平らになりました。それがない私の住居地は羨ましいほどです。文化、芸術、教育、スポーツへの慈善活動や寄付が後を絶ちません。メディアには、「ブタ男爵」と並んだ著名人の姿にスポットライトが当てられます。

この会社の従業員数は全部で6,300名で、そのうち高々10-20 %が会社の直接雇用だといいます。そこで1,300名といわれる「集団感染」が発生して、今回のスキャンダルに発展しました。

 

6).労働組合の役割

問題点はすでに90年代から指摘されてきたはずです。なぜ、膿を洗い出し、制度改革できなかったのかという疑問が、今になって議論の俎上に上ってきました。産業労働組合(NGG )からも従業者への呼びかけがなされてきています。しかし、なぜ?

 

ここで思い出されるのが、90年代の初めに、ちょうどドイツが「ヨーロッパの患者」といわれていた時期で、カッセルのDGB(ドイツ労働組合総同盟)支部の議論に参加していたときのことです。失業者の組織化をめぐる討論で、既成組織が失業者の組織化をできないでいる現状を、失業者側からどう改革していくかというのがテーマになっていました。

その際、記憶に残っているのが、ドイツの労働組合は「伝統的な意識にとらわれている」という発言でした。

産業構造の転換と失業率の増加に対して、既成の労働組合運動が対応できていない現状を言い当てているように思われ、これまでずっと私の問題意識になってきました。

 

当該工場内での活動は不可能です。外部からの呼びかけになります。それを阻んでいるのは、

 

・言葉(ドイツ語)がわからない

・コンタクトを取れば即解雇の危険性

・請負契約ですから工場資本には交渉義務がない

 

ことで、不安定な労働者の存在が浮かび上がってきます。別の角度から見れば、下請け会社との請負契約の目的が、労働者の権利保障を完全に剥奪するためのものであることが暴露されてきます。

にもかかわらず、なぜ、その状態が可能になっているのかということです。

労働者の流動性が、一番の原因だと思われます。こうした外国人労働者には長期的な安定した職場と定住住居がないため、短期間契約で祖国と労働現場を何回も繰り返し往復することになります。自分自身の現状への不安から、労働を通した社会的な連帯と個人の文化的な発展への可能性は、それによって阻まれてしまっています。

作業工場と下請け会社が買い取った従業者専用団地の往き帰りだけの毎日が続きます。後は、4人、5人で一緒に暮らす一室で、自分たちを社会から隔離してしまうという悪循環が続きます。

 

7).政府と市民の反応

ノルトライン・ベストファーレンの州首相(CDU)は、メディアから「集団感染」の原因を問い詰められ、ルーマニア人が祖国の家族を訪ねて工場に帰ってくれば、「ウイルスも一緒に連れてくる」と発言していました。翻訳すれば、外国人労働者がコレラ感染を当該地域に持ち込んだという論理です。これが、メルケル後の首相の座を狙う候補者の発言です。

 

当初は渋っていた地域のロックダウンが、従業者のPCR検査で感染者数が日毎に増えてくる現状に圧されて、再度導入されました。

再スタートからまた再びロックダウンへの逆戻りは、経済界、そして市民の怒りを煽ります。それがどこに向けられているのかは、メディアからは伝わってきません。配慮した報道が布かれているのでしょう。あくまで想像ですが、危険な方向に向かわないための報道配慮と判断できます。

これから夏休みです。この地域の一般住民の夏の旅行が始まります。しかし、住民の感染可能性を理由に、旅行に際しては医師のPCR 検査証明書を事前に義務づけられました。

 

おわりに

以上から、外国人労働者(季節・出稼ぎ労働)への不公正な労働条件と契約という奴隷労働と植民地主義的な労働支配の本質が見えてきます。もちろん、過去の、いわゆるレーニン時代と比較はできないでしょうが、時間を越えてシステムとしてみれば、過去と現在に共通する要素が見られるのではないかと思われるのです。〈現代の奴隷制度〉がここにあります。

このドイツ・モデルに対するのがデンマーク・モデルといわれ、まさにドイツとは正反対の下で精肉産業が行われているといいます。

 

最後に、ではEUの統一とは何か?

6月29日にブランデンブルクでドイツ首相メルケルとフランス大統領マクロンが、EUのコロナ対策に向けて会合しています。EUの経済対策は、日本でも報道され議論されているでしょうから、ここでは省略します。

別の観点からメルケル・ドイツの動向を伺ってみます。

メルケルはEUの「連帯と共同の解決」をアピールしていました。言葉としては、まったく正しいでしょう。誰も批判も反対もしません。しかし、この言葉が信じられないのは、なぜ彼女が〈マスクを着用しないのか〉というところからきています。

「くだらない批判だ」と言われても、私はここにこだわります。なぜなら、マクロンをはじめ各国の政治家が記者会見、公式の場に出るときは、必ずマスクを着用しています。しかし、メルケルがマスクを着用している姿を一度としてメディアで見たことがありません。この時は、2人ともマスクは外していました。

この会合の記者会見で、やっと、やっと、ドイツの1人の女性記者がその件について質問しています。メルケルの回答は、「2mの対人間隔をとればマスクは必要ない」というものでした。() 「しかし買い物に行くときは、マスクを着用している」と補足していました。

(注)Koelner Stadt-Anzeiger Dienstag,30.Juni 2020 電子版

Welt, Montag 29.Juni 2020 電子版

 

そこで、もう一度3月18日の、メルケルのTV アピールを思い出してみます。人道的観点から、〈コロナ感染を容易ならぬ事態として受け止め、各自が厳重に事に当たってほしい〉という内容でした。コロナ感染状況については現在も変わりありません。だから政府からマスクの着用と社会的な対人距離を取ることが勧められています。これはまた、ドイツ・コロナ対策本部のスタッフであるRKI()の警告です。

(注)Robert-Koch- Institut ウイルス研究所

 

メルケルの政治発言に顕著なのは、誰もが批判できない一般的な表現と、他方での実践的にはまったく正反対の行動です。繰り返すようですが、近いところでは難民、ユーロ危機、ギリシャ経済援助等で明らかになっています。

最終的には、その姿勢で「コロナ規制反対勢力」にどう対抗できるのかです。ここで言葉の真意が問われてきます。このグループこそが、「マスクは不要!」を叫んでいたのではなかったか。そして「メルケル独裁反対!」と。

マスクを拒否するトランプ、エルドアン、プーチン、ボルソナーロの顔が浮かんできます。

 

最大のコロナ被害を被ったイタリアをはじめ、東ヨーロッパ諸国からのEU案批判に、マクロンとメルケルはどう答えるのか。「連帯と共同の解決」という言葉の意味を現実化できる政治的な統一が獲得されるのか、どうか。単なる意見の仲裁者としてではなく、メルケルは自分の政治色、つまり本音を示さなくてはならないのです。

東西ヨーロッパ市民が、社会大衆運動によってそれをメルケルに強制していくことは間違いないでしょう。                        (つづく)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9921:200709〕