ドイツ通信第163号  新型コロナ感染の中でドイツはどう変わるのか(11)

ドイツのコロナ感染が止まりません

 

11月2日から2回目のロックダウンに入っていたドイツは、すでに4週間が過ぎ、今日11月29日の日曜日からクリスマス降臨節を迎えます。街と各家庭のところどころには、例年通りクリスマス用のデコレーションが見られます。宗教行事にあまり関係のない私たちもこの時期なると、また1年が過ぎたかと思いながら、普段は無頓着な自分をそれとはなしに振り返ってみたりします。日本のお正月のようなものです。

 

しかし、今年は〈コロナ禍のクリスマス〉―当初予定された11月30日までのロックダウンが12月20日まで延長されたのが、先週の水曜日でした。誰も規制緩和への期待はしていなかったのですが、どういう決定が出されるかに関心がありました。

4週間のロックダウンにもかかわらず、感染者数は下降現象を示しません。現在2万人前後で日毎に上下しています。11月に急上昇したピーク時は約2万5千人でしたから、その後、横這いになったとはいえ、高率の状態が続いていることになります。

この現状をどう理解すればいいのかですが、簡単に言ってしまえば週に15万件近くのPCR検査にもかかわらず、感染源と経路がつかめていないということです。

 

「コントロールを失った」コロナ禍でのクリスマス

この「コロナのコントロールを失った」なかでのクリスマスですから、社会の対人関係が制限されていくことになります。20日までは、これまでのプライベートな会合が、他の一家族を含む全体で10名であったところから5名に制限され、そしてクリスマスから31日の大晦日・1月1日までは家族数にかかわらず、友人・知人を含み10名まで緩和されることになりました。14歳以下の子供たちは、その数に含まれませんから、これによって「ファミリー・クリスマス」が滞りなく行われることになります。

 

今年はクリスマス市が立ちませんから、外に向けてではなく、内に向けたエモーショナルな感情が蓄積していくことになります。それが積み重なり、何時、誰と、何を、どうするかで神経をすり減らしていけば、それでさえ窮屈なクリスマスに何が起きるのかは想像のつくところです。それが、過去に私たちがこの時期に家を離れた一番の理由でした。「だったら、今年はどうするのか」と質問されそうですが、自分のことよりも、むしろその後の結果がどうなるのかに不安と関心が向きます。

 

キリスト教社会の「伝統文化」が、こうして確保されました。賛否をめぐるこの間の議論は、その文化がコロナと共に消滅、死滅してしまうのではないかと言わんばかりの口調でした。あらためてヨーロッパの「伝統文化」のもつ意味を知らされ、それはそれで意義のあるところで、私は真剣に議論の経過を追っていたものです。

 

首相メルケルは「各自の自覚ある行動」というが…

コロナ対策部、そして首相メルケルからは「各自の自覚ある行動」が訴えられています。

いくつかの課題が、しかし残されたままであるように思われます。思いつくままに書いてみます。

 

1.「聖なる」クリスマスから大晦日・1月1日までの緩和規制は、いうまでもなくスーパー スプレッダーの予想されるところです。祖父母と子どもの相互安全は保障され、さらにそこ

 

1.「聖なる」クリスマスから大晦日・1月1日までの緩和規制は、いうまでもなくスーパースプレッダーの予想されるところです。祖父母と子どもの相互安全は保障され、さらにそこから両親、そして仕事場への感染の危険性は? そう考えれば、1月からの再度のロックダウンが、当然視野に入ってきます。それを承知のうえでの中央政府――州の合意ということになり、それ故に「各自の自覚ある行動」が訴えられるのでしょうが、この言ってみればコマ切れ戦術(ドイツ語表現でサラミ戦術)は、政治への失望から一方で〈反コロナ規制〉運動を勢いづけ、他方で社会と個人の核分裂が進むのではないかとの危惧がしてなりません。その場しのぎの、単なる問題の先延ばしでしかないからです。

 

2.春先と比較して今回の部分ロックダウンの一番の違いは、学校の通常授業を維持するという点にあります。1回目のロックダウンでは、Homeoffice、Homeschoolingと響きのいいモダンな労働・教育システムへの転換の掛け声とは裏腹に、現実には技術面の整備をはじめ、それができる部分とできない部分との社会層格差の問題を浮き彫りにしました。閉校された時の各家庭、子ども教育への物質的(経済、生活)のみならず、精神的な負担の大きいことが明らかになりました。両親の反発が、中央政府と州を直撃します。それを何としても避けなければなりません。そのための議論になります。

 

いま、ドイツの学校は

学校の現状を統計から簡単にみてみます。

11月中旬に各州文化大臣の会議が行われ、この段階ですでに106校(比率的には全対の0.37%に相当)が閉校、4,000以上の学校(14%)が部分閉鎖、1万9千人弱の生徒たち(0.17%)が感染、20万人弱の生徒たち(1.8%)が自宅待機にあると報告されています。()

(注) Frankfurter Rundschau Mittwoch, 25.November 2020

 

この数字がこれ以降も増えることはあっても、減少することは考えられません。この新聞記事には書かれていませんが、同時期の統計()では、先生方の感染者数が3千人強、自宅待機が1万2千人弱と発表されています。

(注) Die Nationalakademie Leopoldina

 

RKI(ローベルト・コッホ・ウイルス研究所)の調査も示すように、他のヨーロッパ諸国と同様にドイツも、生徒たちが感染発生の重要部分になっているということです。私の記憶では春先には、青少年たちの感染率は低いといわれていたことを振り返れば、学者、研究者からは新しい見解が出されていることになります。

ここに読み取れる一つは、それほどコロナ・ウイルスの解明が困難なことを物語り、他の一つは、生徒の感染場所が校内でか、郊外でかを、今のところ誰も証明できないでいることです。また、それを議論しようとしないことです。パーセンテージが低いからといって、教職員、生徒、家族の気休めにはならないことは明らかです。

だから責任者の声が、教育現場に届いていないといわれる所以ですが、見方を変えれば、教育現場の声が担当責任者に汲み上げられていないところでの決定が、現場に混乱を持ち込んでいるということでしょう。

 

具体的にこの経過を整理すると以下のようになります。

 

➀20分毎に授業中の教室の空気の入れ替え。生徒が毛布を必要とするといわれました。

②中・高学年の授業中のマスク着用

それでも感染者数が増え続け、

③クラスを2つに分け、一方が通常授業、他方はオンライン授業の交代制にするという案。

現在、すでに採用しているところと議論中のところに分かれています。

④12月18日から始まるクリスマス休みを数日早めて、「家族・友人との団欒」に向けた一種の自宅待機を事前に設ける。

 

しかし、③と④に関しては休暇を取れない両親から、「誰が子供の面倒を見るのか」と強い反発があり、ここに板挟みになった議論と対策の現状を見ることができます。

以上、一つの課題を解決しようとすれば、他方の問題が浮かび上がるというジレンマのなかでのロックダウンと表現できるでしょうか。それ故に、「各自の自覚」が求められるのは、誰もが異議をはさまないところだと思われます。

 

以下に、この点に関して街の風景の中から、「各自の自覚」が、どのように現れてきているのかを概観してみます。

 

1.私の街を例にとります。商店街のある通りでは、街の中心部、郊外を問わずマスク着用が義務づけられました。FFP2のマスクをつけている年配者、高齢者の姿が目につくようになってきました。「ああ、ここまで来ているのだなあー」と認識を改めています。カッセルの10万人当たりの感染率は、12月3日現在約300人で、ロックダウンにもかかわらずここ数日の間に2倍に跳ね上がったことを証明しています。原因のつかめない感染拡大は、通りを行き交う市民を不安にし、静けさが漂っています。

その通りのところどころに、マスクが投げ捨てられている光景を見る機会が増えてきました。私たちの庭の垣根にも、マスクが投げ捨てられていきます。それを片づけながら、「何を考えているのだろうか」と暗い気持ちになります。まだコロナ治療のはっきりした方法のない現段階で、各自にできる〈命を守る〉唯一、最大の手段が、いとも簡単にゴミ同様に投げ捨てられていく状況を見るのは、心が痛みます。それを連れ合いは、「(マスクへの―筆者注)防衛行為だ!」と断定しました。これを解釈すれば、自分の意思はどうであれ、義務に従いはするけれども、現状への共同認識には同意できず、拒否する意思表示だということになります。内部にたまった鬱屈をそれによって発散させているのだろうと想像されますが、この同じ行動様式は〈反コロナ規制〉運動にも認められるのではないかと思われます。

 

私のもう一つ別な視点は、人間労働の生産物に対する価値評価、と難解な表現を使いますが、市民の社会生活――そこには医療・健康も含まれるのは言うまでもないことですが、に不可欠な必需品の価値をどのように「各自が自覚」するかという問題です。それは、〈労働〉の意味と価値にかかわってきます。以下に、それを別の角度から見てみます。

 

2.手元に一つの新聞記事があります。

大見出しは、「スーパー・マーケットの賃金が低下している」、小見出しが、「〈コロナの英雄〉は、以前より収入が減少している」と書かれてあります。()

(注) Frankfurter Rundschau  Mittwoch, 25. November 2020

 

ドイツのエッセンシャルワーカーたちの現状

厳しいロックダウンの中で市民の生命を守ってきた小売業、スーパーで働く人たちは、運送、医療分野で働く人たちとともに「英雄」と讃えられてきました。この模様は、世界的にデジタルで見ることができます。

イギリスの医療分野の外国人労働者の現状は、以前少し伝えたとおりで、今回は、ドイツのスーパーの労働条件です。

新聞記事の〈コロナの英雄〉という表現が皮肉に聞こえるのは、2020年第二4半期の収入が、コロナ前の前年同期と比べて、税込み平均1,471ユーロから1,411ユーロに、60ユーロ、比率で約4%も減少しているからです。

また同期のフルタイムの従業員・労働者の賃金も、2019年の2,421ユーロから2,254ユーロに、167ユーロ、7%弱も減少していることです。しかも、同期の週労働時間は35.3から37.9時間まで逆に増えています。経営側の収益は、それに対して大幅な増加を記録することになりました。

これがはたして、3月18日の首相メルケルのTVアピールで語られた感染の危険性に晒された最前線の職場で働く「コロナ英雄」に対する感謝の表明であるとすれば、労働そして生産物への尊厳は地に堕ちるというしかないでしょう。

 

コロナ禍で強固さを増す新自由主義的生産関係

一方で「英雄」を讃えながら、他方で新自由主義の生産関係が、コロナ禍のなかでむしろ強固に維持されてきていることの矛盾がここに見られます。こう書けば、戦争への動員の時も、同じ論理が使われていたのではないでしょうか。

「安いことは、素晴らしいことだ!」のキャンペーンによって消費を倍増させ、利益を上げる現在の資本システムは、大量生産を不可避にします。資本の言い分は、安く売ることによって消費者の家計支出を押さえるということですが、それは安い賃金で生活を強いられる労働者の経済苦境を図らずも語ることになります。こんなことは誰もが承知で、知ったかぶりをしてここで書く必要はさらさらないのですが、「早く、安く、大量に」の生産過程が、労働者に、そして社会に何をもたらすのかという点に関しては、あまり議論がされてこなかったように思うのです。私の問題意識はここです。

 

自分がつくる生産物への興味も関心も失われていくでしょう。人間の労働と、それによって生み出される生産物の関係が自己意識化されなくなれば、単なる〈モノ〉をつくるだけで、主体的には労働の社会的意味と価値が認識されなくなり、そこから使い捨てが始まります。価値あるものへの尊厳、尊敬という言葉が失われていきます。労働者は単なる〈モノ〉をつくる機械の一部分でしかないのです。と、ここまで書けばチャップリンの映画を連想しますが、確か世界恐慌の時期につくられていることを考えれば、現在まで何も変化していない現実を見せつけられる思いです。

〈労働の価値〉に結び付けられた労働者ではなく、そこに見られるのはバラバラにされた〈個〉でしかない集団です。

他方で文化、教育、環境、権利について語られます。そうした世界とは無関係です。別の世界です。労働者にとってみれば、〈エリートの世界〉にすぎません。そんな話しを聞けば、むしろ煩わしく感じられる かも、と想像してしまうのです。

 

それを決定的にするのが国内の外国人、難民、少数民族、移民への排外・差別意識で、エリートが、こうした問題を国内に持ち込んでいるという批判です。世界に広がるポピュリズム、極右派の運動の根底には、以上のような思想的な背景を見抜かなければなりません。

道端に何気なく捨てられたマスクは、その一つの象徴ではないかと思えてなりません。

〈英雄〉を賛美するのであれば、彼(女)たちの労働条件をも同時に語らなければならないでしょう。

 

11月末から12月にかけて、ドイツの視線が再びアジア(日本、韓国、台湾、ベトナム)に向けられはじめました。例えば、コロナ・ウイルスに関する日本の研究発表論文は56本、アメリカの3,000本、ヨーロッパの2,000本と比べて極端に少ないと伝え聞いています(私の記憶で、この数字の正確さに疑問があります。念のため)。ドイツでの問題意識は、その日本で、なぜ感染数が低率で移行してきているのかにあります。

ロックダウンにもかかわらず高率を維持し、下降傾向を示さないドイツと比べてアジア、とりわけ日本への興味がこうして高まってきます。

 

5月未頃から、ドイツのウイルス研究者の一部で日本に関した発言がなされていたのは既報した通りですが、それから今日まで数回、メディアで、またまわりの医者たちの間で議論されてきました。

それを簡単に要約します。ドイツからは日本がやはり遠く離れているからでしょうか、深く分析することには困難が伴ったのだろうと思われます。文化、社会面からのアプローチになります。

 

1.日本には、ヨーロッパのように人と人が抱擁するような習慣はない。握手も珍しく、人と人が直接接する機会がない。

2.インフルエンザの時期になると、当局から言われなくても自主的にマスクを着用して、周囲への配慮を怠らない。

3.日本人は規律正しい。規律を守る国民。

4.「クラスター戦略」の効果。ドイツでも導入すべき。

5.アプリの活用。ドイツのように個人情報保護の厳しい規制がない。

6.自宅待機等に関して厳格な規則とコントロールが行き渡っている。

 

先週の日曜日(11月29日)のTV政治トーク番組でも、このテーマに関して政治家、研究者、ジャーナリストが議論していました。その時、司会者から、なぜドイツでできないのかと問われたバイエルン州首相(CSU Markus Soeder)は、「ドイツ人は議論が好きだから」と言って自嘲し、参加者と司会者、そしてそれを見ていた私たちも、ついつられて笑ってしまいました。この軽い発言のなかに、実は何がしかの真実がにじみ出ているからです。悲しいかな、それ以上の議論には進展しませんでした。

私は、この自嘲的に笑ったところからこそ議論を始めればいいと思ったものです。そうすればもっと開放された議論が可能になり、ドイツという国をドイツ人自身が知ることができたのではないかと思えてなりません。この間の議論はドイツ国内に限られたなかでの、それ故に各州の政治イニシアチブをめぐるものになっているために、議論が硬直しているからです。それはEU への対応においても同様で、各国の連帯と交流の可能性を追求すれば、議論はもっと活発になり、幅が広くなって内容も深められると思うのです。

EUに限らず世界各国の事例を見れば、各国がそれぞれ独自のコロナ対策で「自己満足の信仰」にとりつかれているために、それが貴重な時間を浪費し、今日の状況を招いている原因であるという流行病学者で政府諮問メンバー(Michael Baker)の指摘は、まったく正しいように思います。()

(注) Der Spiegel Nr.46/7.11.2020

 

この後、私は連れ合いに、「日本の友人が、政府は計画なし、対策なしで何もしていないといって怒っているよ」というと、「政府はしなくても、市民各自がしているではないか」と言い返されました。

ここで私は、次の言葉が出てこなかったです。どうですか?

 

くれぐれも誤解のないようにお願いします。何が良くて、何が悪いかという問題ではなく、議論すべきポイントは何かというのが要点だろうと思います。 (つづく)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10340:201205〕