ドイツ通信第172号  新型コロン感染の中でドイツはどう変わるのか(20)

 

接種の歴史とは、「いつも高度な政治議論」であり、単に注射を打つか打たないかの問題ではなく、「世界観」の問題である。(医学歴史学者Malte Thiessen)

 

前回の続きになります。

ドイツ〈接種の歴史〉に関して、フランス軍兵士に天然痘が発生しドイツ軍兵士はそこからの感染を免れ、しかしその後、市民の中に感染が広がっていった事実は前述したとおりですが、今回は、なぜ捕虜収容所から市内に感染が流失したのかという背景と、さらに接種をめぐる反対派の台頭と反ユダヤ主義、差別主義が扇動、流布されてくる経過を、いくつかの資料から跡付けてみることにします。

現在の〈コロナ規制反対派〉を考えるときの一つの教訓になるのではないか、換言すれば反ユダヤ主義、差別主義に対抗するコロナとの闘争とは何か?という問題を提起しているように思われるのです。

 

以下、まず、「ケルン市立博物館」の館長(Mario Kramp)が書いた本の批評に沿って経過をみていくことにします。

(注)dpa 19.4.21 “Hisoriker:Impggegner gab es schon im 19. Jahrhundert“

″歴史家証言:接種反対者は、すでに19世紀にもいた″

 

ドイツで捕虜にされたフランス軍兵士は全体で約40万人、そのうち1万9千人がケルンに駐留していたといいます。

常識的に考えて、収容所ですから隔離、孤立されていれば感染が外部に広がる可能性は制限されてくるはずです。しかし、人の移動とそこから引き起こされる密接な人間関係がウイルスの最大の伝播条件になることは、コロナ感染で知らされてきたところです。

では、当時ケルンで何が起きたのか?

ケルン市民は、好奇心から収容所見学に出向きます。敵であった、しかも敗戦によって囚われの身のフランス軍兵士を見たさの興味が、そうした行動の引き金になっただろうことは容易に想像できるところです。しかも、「入場料金」が徴収されたといいますから、いい見世物がつくられたことになります。そうして起こる「交流」が、実は、収容所から市内への天然痘ウイルスの広がる経路になりました。

 

特に、フランス・アフリカ植民地の兵士が「見世物」の標的にされました。他国人への一方で「魅惑」と、他方での「人種主義」の入り混じった感情が、そこには認められるといいます。これは、150年経った現在の世界のツーリズムでもほとんど変わりがないのではと思われるのですが。同じような光景は、2016年にマルセーユで見たフランスのアルジェリア植民地の歴史展示「Made in Algeria Genealogy of a Territory」 にもありました。

「このような『獣』(この用語を使っています―筆者注)は、むしろ動物園に閉じ込めておく方がいい」と一部の市民たちが言うかと思えば、他の市民たち、特に女性たちがアフリカ系フランス軍兵士に飲み物、コーヒー、アイスクリームを届け、ナショナリスト的な報道機関を敵に回すことになります。

人気のあったのは、プロイセンのよりはカラフルなフランス軍兵士のユニフォームで、市民がそれを買い求めて、後にカーニヴァルの衣装に使用したといわれます。

 

市の対応はといえば、関係官庁が市民にワクチン接種をアピールし、またすでに接種を受けている人たちには「更新」を呼びかけます。市民のなかには、エピデミックに対して無関心、無頓着な対応が現れています。

市議会議員の「接種義務の導入はできないのか」との問い合わせに、市長は「そのための法的根拠がない」と回答し、そうした経過のなかで接種への支持者には「接種友達」「接種狂信者」のレッテルが貼られることになりました。

予防接種に効果のあることはすでに認められているにもかかわらず、当時も副作用、死亡ケースの発生していることは事実で、この領域をめぐる議論で医者の役割と責任は、過去にそうであったように現在でも実に重大だといわねばなりません。こう言っていいかと思いますが、この議論は今日までも引き継がれてきているといえるでしょう。

 

接種反対派に連なる少なからぬ医者の論拠に反論した当時ケルンの一人の医者「Dr.waegener」の反証をここに挙げておきます。

 

「ワクチンの効用は、副作用と比べてはるかに大きい」として、

「二つの悪弊の間では、いつも、より小さい方を選ぶべきだ」と。

 

この論理は、今のアストラ・ゼネカ製ワクチンをめぐる議論を連想させることになります。

 

1871年ケルンでは、500人弱の犠牲者を出すことになりました。

そして、1874年のドイツ「帝国接種法」です。それによって「接種義務」が法律で定められました。

 

ここまで書いてきて気付くのは、150年前と現在のエピデミックの違いを見つけることの難しさでしょうか。ほとんど同じような経過をたどってきていることに、むしろ歴史の近似性を感じないわけにはいきません。

一つの大きな違いは、接種の強制あるいは自由意志によるのかにあります。

 

以上を受けて、続いて接種反対派と反ユダヤ主義及び人種主義の関連性に関して書いてみます。

資料の「Die Zeit」紙に問題点が整理されていますから、それを参考にしました。

(注)Die Zeit 4. Februar “ Verunreinigtes Blut“ von Mathias Berek

著者は、ベルリン工科大学反ユダヤ主義研究センターのメンバーです。

タイトルは、「不浄の血」と訳しておきます。

 

サブタイトルに記されているように、接種への批判は、接種の歴史と同様に古く、19世紀にはすでに、反ユダヤ主義的な偏見と結びついていたといいます。

1874年に定められた「帝国接種法」は、すでにみたように疫病に対する多大な成果を残しましたが、その人間心理に及ぼす影響は、むしろ接種への猜疑を高めることになりました。自分自身の痛みと苦痛が取り除かれるとともに、他方では感染による死に至る病状と比べて比較にならない接種の副作用を、それ以上に容易ならないものだと考えるようになりました。

 

批判の焦点は、接種の〈強制性〉です。「帝国接種法」に認められるのは〈権威〉、すなわち国家の権威です。

この現状を新聞紙が報道します。両親が接種に反対し、しかしその子供が憲兵に強引に連れ出され、抵抗は受けつけられません。瞬く間に情報は伝播され、〈接種反対!〉の声が上がりはじめます。いたるところで抵抗運動が取り組まれ、雑誌も出版され、さらに訴訟や請願が行なわれ、こうして大衆運動が組織されました。

1896年には、反ユダヤ主義の集会が開かれ、

 

「われわれは、ユダヤ人、ユンカー(青年貴族)、イエズス会(カトリック系)、接種擁護者、法律家と闘う!」

 

という集会参加者の発言がなされています。

 

1897年までに、しかし子どもの90%が予防接種を受けることになりました。

この反対派の批判点は二つあります。

1.接種の強制

2.接種による健康・人体被害

 

次に、1896年の反ユダヤ主義の集会に至る前史を振り返れば、そこに現在につながる共通の根を見ることができるように思います。

こうした運動に大きな影響を与えたのは、モダンな人種的反ユダヤ主義理論をつくり上げた一人=Eugen Duehringで、彼が1881年に書いた本だといわれています。タイトルが『ユダヤ人問題―人種、風習、文化問題として』というもので、ここから彼の差別的意図が透けて見えてくるのですが、接種は単に「迷信」によるものだけではなく、ユダヤ人ジャーナリストと政治家が国家による強制接種を貫徹することによって、ユダヤ人医師がそこから私腹を肥やすことができるためだと、政治的標的をユダヤ人に定めているのが理解されます。

 

1911年には、『ハンマー』(Der Hammer)と名のつけられた反ユダヤ主義の雑誌が出版され、ここで私の個人的な印象ですが、民族・人種主義が明確に加わってきているのではないかと思われるのです。

雑誌では、ユダヤ人の母親が子どもに接種を受けさせないことも、容易に推測できるというのです。そのためにユダヤ人医師が虚偽の証明書を発行し、天然痘ワクチンの成分(牛の免疫血清)によるユダヤ民族(の伝統)への感染から守り、非ユダヤ人への接種はそれに対して、「われわれの血を汚し、われわれの民族を根絶する」ことを意味すると、憎悪が扇動されていきます。

雑誌の出版元の一人がモダンな反ユダヤ主義者で、勢力を伸ばし始めていた国民運動の理論家で組織者Theodor Fritschであることからわかるように、次の問題は、そうして煽られた憎悪がどこに集約されていくのかという問題です。

 

確かに接種反対の歴史と反ユダヤ主義が密着しているのが認められます。しかし、ユダヤ人憎悪は、接種反対者内部の「偶然な辺境現象でない」ことは、1889年に設立された「接種反対ドイツ同盟」の代表・Paul Foersterの経歴に見てとることができるといいます。彼は人種・反ユダヤ主義者として知られ、反ユダヤ請願行動に加わり、1880年に帝国議会で、そのほぼ10年前に保護されたユダヤ市民の同等の権利の廃絶を要求し、反ユダヤ主義政党の潮流を一つにまとめ、最終的にはユダヤ人敵視で結集する政党―「ドイツ社会党」(注)を設立して帝国議会に議席を確保することになりました。

(注)Deutschsoziale Partei をこのように訳しておきます。

 

記事はさらに、1933年のナチの権力奪取とその後の展開に関して述べられていますが、私の個人的な問題意識――第一次大戦のドイツの敗戦と「謀略論」、その後の「黄金の20年代」、そこでの反ユダヤ主義の背景と社会状況を再構成してみたいという問題意識から、ここで歴史の事実経過から一旦離れます。

 

以上から、今日の課題を少しまとめておきます。

接種反対運動と反ユダヤ主義の結びつきが、現在まで途切れることなく続いているのを確認しながら、〈反コロナ規制〉反対運動には、新しい領域を獲得している痕跡が認められることに気付かされます。

ロックダウンで生存の危機に見舞われている社会各層がこの運動に合流することによって、反ユダヤ主義のレトリック、表現様式あるいはまた行動態様に、19世紀とは違った新しい傾向が現れてきていることです。

それは、直接的な反ユダヤ主義扇動がなくなったことを意味するのではなく、一方で、むしろ戦後ドイツの基本的な歴史認識を投げ捨て、ためらいなく公然と口外する部分が極右派、ファシスト、人種差別主義者の強固な流れを形成し、他方で、集会で発言した若い世代の女性に見られるように、ロックダウンの中から自分をユダヤ人と同様に「犠牲者」になぞらえ、仕立て上げていく部分が生まれてきていることに特徴的だと思われるのです。

つまり、加害者―被害者の関係を逆転させることによって、新しい領域の合流が起きているのだと思われます。

 

最後に以上の問題点を要約すれば、

1.反ユダヤ人憎悪の扇動、排除、隔離

2.歴史的なユダヤ人大量虐殺(ショーア)の否定

3.そして、自己の犠牲者意識の形成

 

ここに〈反コロナ規制〉グループに見られる反ユダヤ人排斥論者の矛盾する思考論理が暴露されてきますが、その危険性と欺瞞性はユダヤ人の歴史事実を直視し、そこで各自の責任を顧みることなく、個人の利害に合わせて歴史を解釈し、ユダヤ人を政争手段に利用していることです。

そして、これこそが反ユダヤ人差別主義の本質というべきです。

 

週末になれば、どこかでこのグループの集会とデモが取り組まれています。医学歴史学者のProf. Malte Thiessenは、接種の歴史とは、「いつも高度な政治議論」であって、単に注射を打つか打たないかの問題ではなく、「世界観」の問題であるといいます。(注)

(注)Pandemie dw.com

 

ドイツの接種は、軌道に乗ってきたようです。この2ヵ月が決定的であるように思われます。                                (つづく)

*タイトルは編集部

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10800:210428〕