ドイツ通信第175号 ドイツの集中豪雨災害とコロナ対策に見られる共通点

東京オリンピック開催直後に、ドイツは2つの州(ノルトライン・ベストファーレンとラインランド・プファルツ)で集中豪雨被害にあいました。この状況は日本でも報道されているでしょうが、それをTVニュース の動画を見ながらフクシマ原発事故の原因となった東日本大震災での大津波をすぐに思い浮かべました。

激流となった洪水よって家屋が投げ倒され、樹木、家具、車等が土砂と共に押し流されていきます。死亡者は200名近くにのぼり、行方不明者の救助が続けられています。家屋を失った人たちの緊急避難と今後の生活は、そして地域の再建と再興は? それに加えてコロナの感染拡大が懸念されています。

「デジタル化」によって忘れられてきたものと災害

自然災害に直面して、はたして人間に打つ手がないのか。十分な準備と対策がなされてきたのか。議論はここから始まります。

「ドイツ連邦住民保護及び災害援助局」(略BBK)局長(Armin Schuster)は、集中豪雨警報は数日前から出され、この点で中央と地域のコミユニケーションは取れていたといいます。150の警報情報がアプリ・メディアを通して発信されていますが、しかしそれを受けた現地での具体的な初動対応に問題のあることが明らかになってきます。一言でいえば、末端まで情報伝達が徹底化していないのです。

弱点は、すでに数年前から明らかになっていたことで、90年代に従来の〈サイレン警報〉がコスト高を理由に放送機関(ラジオ、TV)による警報システムに転換されたことが、初動での後れをとった一番の原因だと彼は指摘しています。

30年前までは8万のサイレン警報が設置されていたところが、2015年には1万5千まで減少しているのが現状です。

このいわゆる「デジタル警報化」の欠点は、一つには、高齢者、年配者がオンラインに通じていないということと同時に、若年層のように常時オンライン状態で日常生活を送っているわけではないことです。センターからの情報は発信されています。しかし、一番必要としているところまでは行き渡っていないという、機能しないネット情報の現状を物語っています。

型というか構造は出来上がっていても実体と内実の備わっていないデジタル化の現実が浮き彫りにされてきます。これはコロナ禍でのHoomschooling、あるいは接種予約でも明らかになっていた共通する問題点です。

ここまでは議論のテーマが出されています。しかし、そこにある決定的な社会問題に関しては、その後、今まで聞かれることがありません。これが、私の問題意識です。

「デジタル化」という現代用語は、確かに情報の効率性、スピード化、全体化へむけて大きな貢献をしていることは確かでしょう。個人的には、まったくついていけないほどの量とスピードに追いまくられ右往左往していますが、そうした人たちが多数いることは間違いのない事実だと思われるのです。自分自身で情報を処理し、分析し、そして思慮するという時間が、そこでは失われていきます。

要は、中央から〈操作〉されていくという危険性を感じるのは、私の思い込みというものでしょうか。

WLan(Wi‐Fi)が行き届いている都市部を別にすれば、ドイツの地方の小都市、ましてや農村部に行けば、ほとんど完備されていないというのが常態です。私の古いスマホでは、カッセルの町のなかでさえ所によりインターネット接続が不可能で、緊急連絡時に大変な不便をこうむっています。アプリなどはインストールさえできていません。

そうした住居地での情報収集は、人と人が接して意見を交換することによって成立しているはずです。それはまた、特に高齢者、年配者にとってみれば、社会コンタクトの重要な要因になり、日常生活の糧として長年維持され、確立されてきたネット・ワークでしょう。

事前に非常警報が出されれば、そのネット・ワークが機能し、全員で対策を検討しながら、「サイレン」とともに一斉の緊急避難が可能になります。そして「サイレン」は、どこでも、誰でもが聞きつけることができます。情報伝達の時間的な差異が生じません。

「デジタル化」によって忘れられてきたのは、市民の日常の人間的な社会ネット・ワークが個別に解体されてきた現実です。人間関係の解体された状態では、「デジタル化」を進(奨)めても機能することはないという教訓です。

それを私は「操作された」と表現しましたが、個人の自主的な活動が置いてきぼりにされ、市民が孤立させられたところに、デジタル・ネットが取ってかわろうとしているように思われてなりません。

あるいは逆に、「デジタル化」が人間相互の社会ネット・ワークを解体し、市民を孤立させてきたともいえるでしょうか。

人間相互の直接な情報処理とデジタル情報の間に空間ができてしまっているのです。今回の集中豪雨被害は、この間隙をあからさまにしたことになります。

確かに、問題は自然環境保護、気象変動ですが、テーマの正当性を越えて住民をそれに向けてどう組織、動員していくのかという具体的な議論が、9月の連邦議会選挙に向けて重要なポイントになるように思われます。そこで各政党の信憑性と信頼性が問われてくることになります。

「デジタル化」と新たな労働形態

他方で、「デジタル化」による新鮮な新しい形態の労働が成立していることも事実です。クリーンでグリーンな労働現場で、若くてフィットで、スマートな男女が溌溂と仕事をこなす姿がメディアを通して伝えられてくるのを見ながら、これが未来の労働風景かと、IT知識にはまったく疎い私などはここに見られる2つの世界に戸惑い、引き裂かれています。

都市と地方、社会層格差そして世代間の課題であるといえるでしょうが、それをどうするかという点については、これまでの議論で欠けているように思われるのです。

それをコロナ禍の教育、接種現場で実際に体験しているがゆえに、余計に強く感じられます。

さて次の問題は、この「90年代」というキー・ワードです。

身近に体験したところから、時間をさかのぼり何が進行してきたのかというところに焦点を絞って、現在の問題を再検討してみることにします。そうすれば、一つの構造が見えてくるはずです。

まず、「ベルリンの壁」の崩壊で、それは「鉄の壁」の崩壊を同時に意味し、東西ヨーロッパを隔てていた国境が解放され、すなわち東西ヨーロッパ市民の移動が可能になった一瞬です。「自由、解放」という言葉が、このとき、現実的な意味を持ち、国境を越えた人と人、多様性複合文化の遭遇を実践的に堪能することができるようになりました。

反面、各国社会の経済貧富、そして政治制度(民主主義制度)の差異を顕著にすることにもなります。その結果は、難民としての西ヨーロッパ地域への人民の移動で、その難民をどう受け入れるのかが政治議論になり、社会に亀裂が生み出されてきました。

各国市民と文化の多彩な交流の一方で、それへの逆流も組織されることになります。これがナチ・極右主義、民族・人種主義、反ユダヤ主義との闘争となって、今日まで引き継がれてきます。

この議論のもう一つの背景は、それを可能にする社会費用を誰が負担するのかという問題です。

それは、「旧東ドイツ市民そして難民が、西ドイツ市民の住居と職場を奪う!」のスローガン、シュプレヒコールに集約されるでしょう。

〈壁〉の崩壊によって現われた解放空間が、次に資本と権力の争奪戦の戦場となるのは、その後の過程が示す通りで、このへんの事情をたとえて言えば、時代に取り残され腐朽化した建造物が解体された跡地に投機ブローカーが群がり、ありとあらゆる可能な手段を尽くして資本独占と己の権益を確保するために蠢動するようなものです。「統一」による旧東ドイツの再建といわれる状況には、それ以外の解釈が必要としないように思われるのです。それをビショッフローデでの炭鉱ストライキに見ることができました。同時期のエネルギー資源をめぐる湾岸戦争も、同様な構造と背景を持っていると思います。資本の戦略が見えてきます。

この90年代の初め、私は何回かロンドンに長・短期で滞在し、サッチャーの「小さい政府」に反対する鉄道労働者のスト現場を、現地の左派グループから案内してもらいました。

そのサッチャーの「小さい政府」政策のなかで、「自己負担」という概念が持ち出されてきます。国家と資本の財政支出を削減するために市民の社会保障と援助が、公然と露骨にカットされていく新自由主義の突破口になりました。

そうした新自由主義のドイツへの影響は少し時間がずれてきますが、90年代半ばから後半にかけて顕著になってきたと思います。

まず、それまでは「眼鏡に保険がきく」と聞いて、ドイツの健康保険制度に感激していましたが、後に医薬品共々個人負担で有料になりました。このあたりがドイツの転換期になっていたように思われます。

労働契約および産業構造の再編が進みます。国際競争にドイツ経済は後れを取り、「フレキシブルな」という形容詞の下で労働時間、雇用、給与体系が大幅に改悪されていくことになりました。CDU(キリスト教民主同盟)のコール首相のドイツは、あらゆる分野が出口なしに硬直し切っていたのです。

これに対する労働運動側の対応は「雇用確保を!」で、とにかく景気動向に合わせて「フレキシブルな」労働契約を受け入れ首切りを食い止めることでしたが、最終的には人員整理が進み、労働運動自体の弱体化をもたらしただけでした。

興味あるのは、このとき、日本のトヨタ式労務管理がドイツで取り上げられ、導入されたことです。日本から講師が招かれ、講習会が開かれていました。大学の経済学部では、卒業論文の需要なテーマの一つになっていました。「Just in Time」とか「減量生産」とかの用語が学術文献やメディアで使用され始めます。

視察団に同行してカッセルにあるVW(フォルクスワーゲン)、メルセデスの工場を何回も見る機会がありましたが、作業場の壁には日本と同じようなスローガンがあちこちに掲げられてあるのを見て、「大丈夫か」と思った次第です。

90年代の初めにカッセルVW工場には2万5千人以上の従業者がいたはずですが、現在は1万5千人前後まで縮小されています。

次に、「小さい政府」、コスト削減、社会費用カットの実態を医療現場から見れば、イギリスの医者が労働条件と賃金のより良い外国に職を求めて国を去った後にできた空洞を埋めたのが、ドイツの医者でした。当時、確か3万人くらい(注)のドイツの医者が、イギリスをはじめ他国に流失したといわれていました。身近にそんな人の話を聞いたことがあります。そのドイツには他の諸国、東欧、アジア、アラブからの医療関係者が入ってきます。

「グローバルな世界」の現実とは、より良い労働条件と利益を求めて流動する資本と労働の玉突き現象です。

(注) 記憶による数字で正確さに欠けますが、かなりの数で医療分野での大きな議論になっていま した。

介護保険

長くなった以上の要約として最後に介護保険を検討することにします。90年代に何が、どう変わったのかという一つの象徴になるだろうと思われるからです。

1995年1月から、5つ目の社会保険として介護保険がスタートしました。失業者数の増大、出生率が1.3%前後で世代間の対立、それに加えて社会の高年齢化が進みます。介護費用をどこから調達するのかという問題が、この制度を不可避にした背景だと私は理解しています。

ここでは介護サーヴィスの厳格なカテゴリーが作成され、時間単位で介護労働の料金が決められていきました。民営化した会社は、介護師に時間内でのサーヴィス遂行を義務付け、労働強化を強います。低賃金と労働強化を目指した介護制度の民営化の一つの見本ではないかと思われるのです。なぜなら、介護を必要とする高齢者の現状を反映していないからです。この板挟みになっているのが、実は介護士さんたちで、人手不足がそれに輪をかけます。なり手がいないのです。他方、高齢者は介護サーヴィスを受けるよりは、プライベートで、特にポーランド等東ヨーロッパからのヘルパーに依頼することになります。この点に関しては、政府は目をつぶるしかない現状です。

介護というのは時間単位のサーヴィスではなくて、人と人の生活関係であるからです。ヘルパーさんが、子どもが独立した後の一人暮らし、あるいは二人暮らしの高齢者を訪れて、「お元気ですか」と挨拶をすませ、「昨日は、何をしましたか」「それでどうでしたか」と会話をしながら、その日の健康状態を判断して、ベット、炊事、入浴、身の回りの整理・整頓を2人で、ああだこうだといいながら、時として嫌味も言われながら時間を共有していきます。

何時から何時まで、これとこれを済ませましたよ、サインをお願いしますというのとはまったく別な介護環境です。

以上のように考えると、1998年に成立した「SPD(社会民主党)・緑の党」連立政権、いってみれば68年世代の政権が、この90年代の転換過程にどう対応したのかと、今ここでもう一度振り返れば、むしろその問題点の解決に向けたというよりは、より以上の制度化を進めたたのではないかと思われてなりません。

2つの例を挙げておきます。

1.保健大臣を務めた緑の党とSPDの2人の女性議員は、同様な治療の点数制度と採算性を 導入しました。それによって患者の治療よりは、何が病院の企業収益になるかがポイントとなりました。要は、公共医療機関による市民の健康を保障することより、保険制度の財源を確保することに重点が移されました。

2.以上の頂点に「ハルツⅣ」改革が位置しているといえるでしょう。増え続ける失業者数、それに

合わせて増大する失業保険金、同じく嵩張る生活保護費――首相シュレーダー(SPD)が目指したのは、失業者の労働市場への再編入でした。サーヴィス業、あるいは事務労働の給料より生活保護費が多額であれば、誰も働く気は起きないだろうとは、当時政治家、メディアで語られた改革への圧力でした。ポピュリズム的なところがあるのは事実ですが、他方で、労働の社会的不公正が明らかになっていたのもまた現実でした。

失業保険給付期間が短縮され、生活保護費が減額されたことによって、失業者の強制的な労働市場への再編入が図られようとしました。労働提供を受け入れないときの懲罰条項も設けられ、しかしこれは「人間の尊厳」を損なうものとして憲法裁判所で一部違憲の判決が最近出されています。

市立病院で仕事をする20歳代の研修青年が、以上の全過程を実にわかりやすく、簡潔に要約してくれました。

「この病院で仕事をする人たちの3分2は経営者で、3分の1が(医学の‐筆者注)先生だ」

今年の夏前に、カッセルの赤十字社病院の倒産-破産申請が伝えられ、市立病院の財政破産は、公然とは語られませんが関係者の間では周知の事実になっています。

自然、ウイルス、環境、気象の危機に遭遇した時、何を、どのような観点から、どこで議論の糸口を見つけ出せばいいかを問題意識としてこれを書きました。

9月の連邦議会選挙に向け、メルケルなき後のはっきりした路線論争を期待しながら、私なりの一つの判断基準にするつもりです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11206:210817〕