連邦議会選挙目前のドイツ その行くへ
9月26日の連邦議会選挙まで、あと2週間(注)となりました。大きな政治議論は聞かれませんが、政権の組み合わせがテーマになっています。これはCDU/CSUそしてSPD、いわゆる二大国民政党の政治指導力と組織求心力の低下を引き続き示しながら、他方でメルケル政権16年後の社会変革への必要性が求められ、各政党がそれぞれ独自の政治路線を模索する過程に入ってきていると要約できるのではないかと思います。
(注)これを書き始めたのは9月10日前後です
政治色を示さなければならないのです。しかしメルケル政治が、「メルケルのSPD 化」、または「メルケルの緑の党化」とメディアで揶揄されてきたように、この16年間テーマをめぐる政党間の政治議論は避けられ、それによって市民の意見表明への欲求と意思形成はウヤムヤのままに握りつぶされてきました。そうしたメルケル政治をメディアは「これまで通り!」(Weiter so!) と表現しました。表面的な安泰に慣れてしまったというか、政治に怠惰になっていまったドイツ社会の底辺からの不満、怒り、憎悪が、いくつかの危機を経験して、さらにコロナ感染によって相乗作用してきていることは、今回の選挙戦と政党支持率のアンケート調査結果に見てとれるところです。
それを数字で示すと以下のようになります。
ほぼ毎週、いくつかの世論調査機関が行ったアンケート結果が公表されています。調査機関といえども保守、中間、左派の政治的色合いがはっきりしているため、「公正」、「中立」という綺麗ごとで判断ができないのは当然のことで、それが統計数字の差異となって現れてきます。
以上の点を踏まえた上で、全体の傾向を概観すれば、
CDU/CSU 19~25%
SPD 25~27%
緑の党 15.5~17%
FDP 9.5~13%
AfD 11~12%
左翼党 6%
となります。ここから選挙戦でのいくつかの重要な動向を伺い知ることができます。
1.メルケル政権下で数年来14-15%政党といわれたSPDの支持率の上昇
2.メルケルの支持率をあてにしたCDU の支持率の急低下
3.選挙戦の当初にCDU と並んで30%前後の支持率で、「緑の党首相誕生の可能性」とメディアでキャンペーンされた緑の党の失墜
以上からAfDを除いた政党間で、5種類の連立組み合わせが可能になってきます。従来の二党間連立は不可能で三党間の連立となり、ここでの政策議論が浮き彫りになってきます。
テーマは、
1.社会的公正
2.財政問題
3.環境
4.外交・難民
に要約できます。これを現実的な問題に関係づけて論じれば、
1.アフガンの政治安定と予想される難民への対応、国内の安全と2015年をどう評価するのか。
2.コロナ禍と経済再興への財政確保、そのための税収入をだれが担うべきか。資本投資と税収――つまり投資と「黒字ゼロ」といわれる財政安定化と税金制度のバランスをどうとるのか。
3.毎年の洪水被害、森林火災に直面して早急な環境対策、あるいは経済・資本利益が優先されるのか、新しいエネルギー開発への戦略的な投資か。
4.大都市を中心に一大政治テーマになっている家賃問題は、ちょうど1920年代のワイマール共和国を連想させます。人が住める住居問題は、年金制度も含め市民の生存・生活保障問題になります。
ここで古くて新しい議論になりますが、投資をするために資本(家)及び裕福層の税負担を軽減し、経済再興(供給増大)から労働市場(需要)を安定させるのか(CDUとFDP)、あるいは環境保全を目指した産業・エネルギー転換から新しい労働市場の創出と社会的公正を実現するために資本(家)及び裕福層への増税と低所得層への減税で生活安定を目指すのか(SPD、緑の党そして左翼党)、の二つの路線に分岐してきます。
以上を要約すると、メルケル政権16年間に危機の中で経済が記録的な利益を上げながら、一方で資本が少数の手に集中し、他方で多数が貧困に見舞われ貧富の差が拡大し、社会が分裂・対立しているドイツの現状はコロナ禍で暴露されてきたところですが、それに対して健康な自然環境の中で労働と教育を平等に受け、安心して生活できる社会をどう作り上げるのかという、二つの世界の違いとなって現われてきているといっていいでしょう。
今、この機会に何かを成し遂げられるのか、あるいは「これまで通り!」の腑抜けた安泰に一時の自己満足で事足れりとするのか、そうだとすれば誰がその責任を担うのかという個人の判断が問われていると思うのです。
詳細については次回以降に書くとして、ここではコロナ対策からの教訓を前回に続いて整理し、選挙戦と今後のドイツ社会の変革がどこに向けて進められて行こうとしているかについてまとめておきます。
ケルンの例で明らかなように「有名人のホットスポット」と「コロナのホットスポット」の対比は、社会的貧富の差を、難民・移民問題を含めて炙り出したことになります。社会で健康に安心し生活できるグループと、社会の安全システムから取り残されたグループとの違いです。視線をどこに向けるのか、なぜ、そういう状況に陥ったのか ここから問題のとらえかえしと議論は始まります。
統一したコロナ対策が立てられてこなかったことが一つの原因で、中央と各州の対立が続き、それが「イースターの静謐」の破産を導くことになりました。中央対策本部からはコロナ感染への警告と社会行動規制は出されてきますが、各州での具体的な方策は、感染状況に応じて当然にも異なってきます。これが感染対策を分かリ難くし混乱を引き起こしてきたことは、既に昨年から経験済みです。各州からの反発は、「首相(府)から具体的な対策が提起されない州との合同会議を開いても意味がない」ということで、予定された会議を拒否します。今年春のことです。
それを受けて首相メルケルは、危機対策の中央の主導権を強化する方向で、夏前に新しい統一したコロナ対策を提出し、それを「非常ブレーキ」と表現されました。この時、憲法論争もありました。
ここには二つの重要なテーマがあります。
一つは連邦制と民主主義――危機の中での中央と州の関係性で、どのような憲法解釈が可能かという問題です。感染対策は基本的に州の権限になっているからです。どこまで中央政府が、州の権限を制限することができるのか。
1948年連合軍が西ドイツ11の州首相、憲法制定会議、そして議会(国会評議会という用語が使用されています―筆者)を招集して、現在の基本法(憲法)と連邦共和制がスタートし、ドイツ民主主義と経済、そして戦後の福祉を実現していく基盤となりました。
ここにあった連合軍の目的は、いうまでもなくナチ及びスターリン主義の独裁制度を解体し、西側世界に新しい戦後民主主義体制を作り上げていくことでしたが、政治制度として意図したところは、各州が相互に連携しながら、中央と共に民主主義を実践的に活性化させることで、これによって<中央権力をコントロール>し、批判、対立、議論しながら最良の結果を引き出し、社会の進歩を目指すことにあったことは、私にも理解できるところです。
昨年の春から夏にかけてのドイツのコロナ対策ではこの連邦制度が機能し、実績を上げてきたことは事実だと思われます。「ロックダウン」という強硬手段ですが、いってみればそれ以外の方途がないという点での合意だっただろうと思います。
しかしその後、コロナ規制の緩和が議論され始められたときに、逆にその弱点が浮き彫りになってきます。経済、労働、教育、文化、芸術そして医療面等での対応の違いが明らかになってくるにつれ、下からの突き上げをもろに受ける州間の軋轢と、その州に規制を布こうとする中央の対立が抜き差しならない状況になります。感染状況は一進一退して、どこに方針を定めていいか分からない中途半端な状態が続きます。それが「ヨーヨー効果」と表現され、感染率が常時上下しながら変動する様子を自嘲的に言い表す政治家用語の一つになりました。その突破口に「ワクチン接種」が位置付けられます。
それに加えて、中央の統一したコロナ規制が提案され、その枠内での各州の自主対応が可能になっていきます。これが「非常ブレーキ」の意味するところだったでしょう。ここではまだ議論がありますが、大枠でこのように理解して間違いがないように思います。
この過程で明らかになっているのは、コミュニケーションの問題です。各社会分野の状況把握とコロナ対策に関した議論が、どこで、どう、誰となされたのかは伝わってきません。中央の規制と、それを受け入れなければならない社会分野の対立と意見の相違が伝わってきくるだけで、必要なコミュニケーション・システムは見つけ出されません。「コロナ援助資金」が、議論されるべきテーマを後景に押しやっているのではないかと思われてならず、これを書いた次第です。
これが二つ目のテーマになります。
コロナ感染で一番患者に接して活動しているのは、医療従事者です。その現場には、患者のデーターがそろっているだけではなく、長年の信頼関係が築きあげられています。不安、疑問があれば「行きつけの先生」のところに行って相談をし、納得して治療してもらってきました。特に年配者、子ども、妊婦、基礎疾患のある人たちには、欠かせない連絡先です。
しかしコロナ感染では、集団接種への医療従事者の動員がなされても、そうした現場の状況は顧みられることが少なかったように思われてなりません。
特徴的には集中治療室です。感染率の増減によって医療施設の治療・収容力が逼迫・緩和してくるのは、確かに事実です。しかし現実的には、感染率が減少したからといって、比率的に収容率が低下するわけではないのも事実で、逆の関係も然りです。
従って、直近一週間の10万人に占める感染者数が減少したから、規制緩和を自動的には決定できないというのが、医療関係者の批判ポイントになってきます。減少しながらも、医療施設が逼迫していく傾向を示すケースも認められているからです。また逆のケースもあります。
ロックダウン、規制緩和が中央から決定され、その実行はといえば現場に任されたままとなり、こうして上からの一方通行の関係ができ上っています。
ここから特に医師グループ(医師会)の批判が出され、システムの改革を提案・要求することになります。
一点目は、規制強化・緩和の判断基準に、従来の直近一週間の感染者数だけではなく、病院の患者収容数と集中治療室の逼迫数を総合的に加えるべきという内容で、9月以降、これに基づいた実際の運用がなされてきています。
二点目は、対策と決定の意思形成をめぐる組織構造です。誰が、どこで、どういう提案と意見がだされ、決定されるのかが、外部には伝わってきません。現場の意見が、ほぼ排除されてきたのが現状です。これはまた、社会分野でもいえることですが、多様な角度からの意見のくみ上げと検討が求められる必要性が強調されます。
対策部のメンバー構成が、一般に知られることがなかったことはすでに書いた通りです。医師会によればウイルス学者、物理学者、数学者、モデル・シミュレーション学者等、「予測分析が主な専門家」で成り立っているといいます。そう言われれば、ここにある問題点が理解されます。警告、危険性を分析するだけで、その上で次に何をすればいいのかを議論する余地はないといえるでしょう。ここが医師会からの批判点になり、医師、教師、倫理学者、心理学者そして法律家を含む「パンデミック評議会」(注)を設立すべきだと主張します。
医師会の批判は、ジャーナリストや政治学者から指摘されるメルケル政治の決定的な弱点が、コミュニケーションにあることを図らずも言い当てたものだと思われます。
(注) Pandemierat
9月の選挙を控えて、単にコロナ感染の対策ではなく、そこで求められた社会のコミュニケーションの課題が、組織且つ運動としてどう取り組まれていくべきか、これこそが選挙テーマの中心になるだろうと思い、以上の問題を整理してみました。
政治課題、テーマの正当性ではなくて、そこへの一人ひとりの関りだと思うのです。そう思いながら私たちは難民問題、対コロナ闘争に、微力ながら取り組んできました。
「これまで通り!」か、でなければ「どんな社会か?」――ここで各自の幅広い議論になると思います。
最後にワクチン‐接種の歴史に関して、前回(通信22)の補足として簡単に触れておきます。
まず、医学歴史学者の一文を引用します。
「(ワクチン開発に向けた―筆者)アイデアの歴史は、また移民、戦争、議論の歴史でもある。たくさんの異なる方法論が、医学の中には並存している。そしてそれらは、断じて白人の男性医によってのみ発展させられたわけではない。」 (注)
(注) Philipp Osten フィリップ・オステン 医学歴史学者
「移民」の部分に難民を付け加えることも可能だと思います。さらに、「議論」と訳した部分は、正確には、<誰が、正当論を主張するのか>という用語がつかわれていますが、これでも十分意味は通じると思い、このように意訳しておきます。
ドイツの医学部の歴史教科書では、ワクチンの歴史に関して1796年イギリスの医者エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)が子どもに天然痘ワクチンを接種したことから書き始められているといわれています。1871年パリ・コミューンに沸き返る独仏戦争後の、ドイツで発生した天然痘の感染爆発に際して、イギリスの医者の体験が人命を救っていくうえで、議論がありながらも、大きな役割を果たした歴史についてはすでに書いた通りです。
しかし、ハンブルグの医学歴史学者フィリップ・オステンは、その前史に注目します。
焦点が当てられるのは、アフリカからアメリカへの奴隷の歴史です。ガーナの若い青年が奴隷として買われてアメリカに渡ります。1706年(別の資料では1709年)のことです。これがワクチン開発への学問的な知識をアメリカにもたらした契機になるというのが、この医学歴史学者の命題になります。
この青年の名前は、オネシモ(Onesimus)といい、確かな歴史資料が不足して、正確な名は伝えられていませんが、ボストンの「奴隷所有者」でピューリタン派伝道師(Cotton Mather)が、ガーナからの青年をそう名付けたといわれています。
当時、港町のボストンは、何回もの天然痘感染に襲われ、何人もの命が奪われていました。そこで伝道師がガーナの青年に、「すでに、天然痘を患ったのか、どうか」と質問します。答えは、「はい」そして「いいえ」のあいまいなものだったといいます。感染したが軽症だった、しかし、「完全に意図的だった」と。
アフリカ青年の説明は、こうです。感染した人の水泡の中味を健康な人の皮膚に棘で裂け目を入れて注入したといいます。この同じような方法は、アフリカのみならずアジア、例えば数百年前のインド、中国にも歴史的に認められるところだと、医学歴史学者はいいます。
1721年ボストンで、再度の天然痘感染爆発が起きます。この時、伝道師はアフリカ青年の経験をボストン市民に実施しようとしますが、市民は「アフリカの奴隷に由来する方法であること」を理由に挙げて拒否します。
そこで一人の医者ザブディール・ボイルストン(Zabdiel Boylston)と共同で、先ず、この医者が自分の奴隷と子供に、それから200人(別の資料では300人)のボストン市民に同じ方法で接種したところ、感染爆発の期間に、この内のただ2%が死亡しただけで、接種を受けなかった住民は14%だったといいます。
それから75年後、イギリスの医者が自分の方法を発見し、牛の感染菌からワクチンを開発することになります。
vaccaとはラテン語で牛という意味です。そこから接種というVaktinationという言葉と単語が作られました。
ワクチン接種が、こうして人間の最も重要な医学発見の一つになりました。(注)
(注)1. Deutschlandfunk Nova 29.Dezember 2020
Versklavte Menschen brachten ersten Impfmethoden nach Nordamerika
2. Gemerinsam fuer Afrika
Impfgeschichte: Erste Impfmethoden von Sklaven nach Amerika gebracht
門外の私が述べるにはあまりにも重要で複雑な専門分野の歴史ですが、何を、どう歴史から学ぶのか、また学問・科学の発展とは何かという点では、現在を考えるときに、大きな助けになるのではないかと思われ、ここに少し整理しておきました。
「ドイツ(人)は、何も学ばない!」と連れ合いは声を張り上げました。昨年のコロナ感染爆発以降、マスクの供給経路をどう確保するのかをめぐって、ドイツではこの一年半近く議論が続けられてきました。ドイツ―EU独自の製造・配給網を作り上げることを主張し、間もなく「Made in Germany」のマスクが市民の手に渡るようになるはずだと、保健大臣(CDU)は誇らしげに、ほぼ連日のようにTV等で公然と語っていたものでした。
しかし、これがただの空言、虚言、アドバルンでしかなかったことがわかりました。ドイツは引き続き、中国からの供給に依存する方針です。ここでは、中国が問題ではありません。問題解決に向けていろんな可能性が考えられるのは当然でしょう。では、何の議論だったのかという政治(家)への信頼感が問われているのです。政治に踊らされてはならないし、政治が市民を踊らせるようなことをさせてはならないのです。
CDU、CSUの政治家が、中国製マスクを確保するために暗躍し、そこで多額の仲介料を取っていた事実が暴露され大きなスキャンダルになったのが、この春のことでした。
綺麗ごとの背後では、いつも裏金が動いているのがCDU/CSU政治で、元首相コールの時代から、何一つ変わっていないのです。
それを知った連れ合いの怒りの反応です。「ドイツ(人)は、何も学ばない!」、しかし他面では、「学ぼうとしない」のもドイツ(人)だと思われてなりません。それが、この間の政治(意識)でした。 (つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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