ドイツ通信第186号 ロシア・プーチンのウクライナ軍事侵攻で考えること

プーチン・ロシアのウクライナ軍事爆撃を終結させる手段がどこにあるのか、果たしてまたそれが可能なのかと考えると言葉に詰まります。しかし、黙しているだけでは、日に日にウクライナ市民の犠牲者の数が増えていくだけです。連日伝えられる現地からの報道は、一人ひとりに何ができるのか、何をしなければならないのかを問い詰めてきます。

しかも、冷戦後30年間、さらにさかのぼれば第二次世界大戦後80年間「戦争のないヨーロッパ」を目指した地域内での戦争です。そこでの合意とはなんだったのだろうかと考えざるを得なくなります。戦後の〈自由と平和〉を目指した基本骨格が、木っ端みじんに解体されていくように感じられてなりません。それは、人間生活と生命の破壊を意味します。プーチンのはじめた戦争によってウクライナの無垢の市民が、こうして殺戮されることになります。

戦争は思考を停止させ、暴力と殺戮の機能的な過程だけを強制する

年配者、女性(妻)そして子どもを爆撃から身を護るために避難させ、別れを告げて戦線防衛のために戦場に戻る男性(夫)の姿が脳裏に焼き付き、時間と思考が止まってしまいます。再び家族、友人と再会できるのかは、誰にもわかりません。わからないけれども、現実として受け入れなければならないのでしょうか。身につまされる思いです。

戦争は思考を停止させ、暴力と殺戮の機能的な過程だけを強制します。そこにプーチンの軍事目的があると思われます。思考停止したところに、それを補うための〈プロパガンダ・メディア〉が不可欠になる所以でしょう。しかし現実は、それにプーチン自身も自縄自縛されていることが、ロシア兵士のウクライナ市民への対応に認められます。

勇敢な市民は非武装、素手でロシア軍戦車、そして軍事車両の前に立ちはだかり、兵士に「兄弟を殺してはならない」と訴え、ロシアに引き返すことを説得します。ロシア兵士は何のためにウクライナに進攻してきているのかがわからず狼狽するだけです。しかし、大量殺害はこれまでのところまぬがれています。こうした場面がいたる所で起きているのは各報道で見られるところで、勇気を与えてくれます。

プーチンがロシア兵士に与えた政治目的は、ウクライナを「ネオ・ナチ」と「ドラッグ依存者」から解放するということだといわれています。それを「スペシャル・オペレーション」と名付けていますが、実際に出会ったのは同じ文化と国民性をもつウクライナの「兄弟と同胞」でした。その現実に気づいて射撃できなかった若いロシア兵士の姿は、人と接して言葉を交わし、議論することがいかに重要かということを教えてくれます。これが気落ちし、言葉を失くしがちな自分を勇気づけてくれます。思考停止状態から抜け出せる唯一の道ではないかと思われ、私たちも人に会えば情報交換と議論している毎日です。

〈プロパガンダ・メディア〉の裏面は、〈情報操作と統制管理〉です。ロシアの自立的な世論調査機関(Lewada)の報告によれば、アンケートで38%がウクライナの現状に「特別に関心を向けていない」、14%が「全然関心なし」、4%が「聞いたことがない」と答え、60%が「アメリカとEUがウクライナのエスカレーションに責任がる」、16%が「ウクライナに」、4%が「ロシアに」と回答しているといいます。

ロシア国民3分の2の情報入手チャンネルが国営放送だといわれれば、すべてはプーチンの手に握られていることになり、その独占管理を破ろうとすれば報道禁止、放送局閉鎖、デモ・集会参加者への暴力的な抑圧と逮捕が続きます。

プーチンのロシア監獄といっていいかと思いますが、そこでのモスクワ、サンクト・ペテルブルクでの反プーチン・ウクライナ戦争反対のデモと集会です。それに先日決定された従来にない全面的で強烈なロシア制裁が影響を及ぼしロシア富豪、資本、金融の経済危機と市民の生活困窮が実感されるようになれば、社会の空気が一転されることになり、長引く戦争を避けるためにプーチンの軍事攻勢は今後、無差別に強化されていくことが予想されます。彼は、何を考えているのか。

自分の世界に閉じこもって「ロシア帝国」を妄想するプーチン

話はそれ、予断になりますが、ドイツの元外交官のTVでの話で、プーチンはこの2年間、ダチャ(ロシアの家庭菜園)のある御殿で自己隔離を続け、対人コンタクトは極力控えていたといいます。訪問者があればコロナ検査をさせ、約1週間の隔離後に会っていたとも言います。自分の世界に閉じこもって「ロシア帝国」を頭に描いていたのでしょうか。要人との会見に使う6mの長さのテーブルといい、対人関係を切り裂かれたコロナの影響を見る思いがします。

ロシアがウクライナ国境に軍を配備した当初、人と会えばアレコレ議論し、しかし誰もが「プーチンが何を考えているかわからい」といい、報道関係者なども「プーチンの頭の中は見られない」と途方に暮れていました。

現在はっきりしているのは、プーチンが〈EU―NATOの東方拡大〉に対抗して長期の時間をかけて作戦を計画していたといえることです。逆にEUは、虚を突かれたことになります。

そこに見られる私の問題意識を以下に書いてみます。

背景にある反ユダヤ主義とナショナリズム

1.ウクライナを「ネオ・ナチ」「ドラッグ依存者」から解放するという政治プロパガンダに孕まれる問題です。つまりゼレンスキー政権を打倒し、新ロシア派政権に据え変えることで、そのためにはゼレンスキー大統領をロシア軍の手に捕獲し、場合によっては殺害し、降伏をうながすことですが、ここでプーチンが使用する政敵に対する人間性のかけらも見られない罵倒用語は、しかし再び自身を返り討ちすることになるでしょう。

政治の違いではなく、政敵を犯罪者、ならず者扱いする手口は歴史的に使用されてきた重要な手段の一つです。結果は暴力的な殺戮に終わります。その時、用語の持つ意味と同時にそれが言われる歴史・社会条的件が忘れられてはならないはずです。

ゼレンスキー大統領はユダヤ系家族の出身です。私の誤解、誤認を承知の上でここに書きますが、プーチンはそれを意識して「ネオ・ナチ」「ドラッグ依存者」のレッテルを貼っているのは間違いないと確信します。この背景にある思想は反ユダヤ主義とナショナリズムです。

プーチンのプロパガンダを私なりに解釈すれば、ユダヤの「犯罪者」からウクライナの「ロシア国民を解放する」と言い切れるのです。それ故にプーチンは、大統領ゼレンスキー捕獲を第一級の政治目的に掲げることになります。これが「スペシャル・オペレーション」の意味するところだと考えています。

ロシア国民向けのTVアピールでプーチンは歴史をさかのぼりロシア大帝国の再興を意図し、レーニン・ロシア共産主義とナチ・ドイツのロシア進攻を批判しながら、そこで使用された反ユダヤ主義を、今度は彼自身が持ち出し使用していることになります。反ユダヤ主義とナショナリズムが、ソヴィエト共産主義とナチ・ドイツで如何に使用されてきたのかは、ここに書く必要はないと思われますが、「予想しなかったウクライナ市民の抵抗の強さ」に直面するプーチンの読みの失敗は、敗北したソヴィエト共産主義とナチ・ドイツの同じ論理に絡め取られているところにあるといえるでしょう。

現在、この問題について語られることがないことを危惧していますが、意識にとどめておく必要はあるだろうと思い、ここに記しておきます。

2つの認識上の違い

ここで歴史に関する2つの興味ある認識上の違いを取り上げてみます。

一つは、マルクスでしたか、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」

もう一つは、ロシアの諺にあるそうですが(TVロシア特派員)、「歴史は変化(変遷)する」

ヨーロッパとロシアの歴史認識に基づいた政治合意がどこで可能かは、このギャップをどこで埋めていくかという問題にもなるように思われます。

EU―NATOの〈自由、民主主義〉は、東欧諸国に何をもたらしてきたのか

2.プーチンに残された道は、空爆とロケット弾によるキエフのインフラ(病院、住居、放送局、電気・エネルギー施設、警察、政府機関等)の破壊に続いて、戦車を先頭にした市街の占拠に向けられるだろうと予想されます。市民には最悪のシナリオです。ロシア軍によるウクライナ市民の流血と殺害が時間の問題になっていると判断して間違いないでしょう。しかし、弱点はいわれるようにロシア軍の戦線が伸びきっていることです。誰にもわかることですが、軍事補給が困難になります。プーチンが長期戦を回避したいとすれば、殺戮行為はより無慚にならざるをえません。

この時点で、決定的な意味を持ってくるのが、ウクライナの〈ロシア系住民〉の動向です。

そしてこの問題が、ロシアとEUの東欧政策をめぐる緊張感を強め、政治・軍事対立の重要な一因になっていると思われることです。

具体的にいえば、2014年東ウクライナの戦争時と比べて、キエフ支配に向けて今のところ〈ロシア系住民〉の動きが見られないことが、ロシア兵士の狼狽とキエフ市民の強靭な抵抗を生み出している最大の要因だと思われます。

言うまでもなくプーチンが始めたウクライナ戦争です。その根本は、第二次世界大戦後の冷戦構造が、90年の「鉄のカーテン」崩壊以降も、何ら解決されることなく今日まで続いてきたという点で「ロシア系住民の解放」がプロパガンダされ、政治利用されていることです。

そこからプーチンの「NATOの拡大がロシアに脅威感を与えている」という発言にたいしてNATOは、「ウクライナの受け入れはない」と2008年の合意を持ち出し反論してきました。

しかしEU―NATOがこの枠から一歩 出て、とりわけ90年代以降のEU東方拡大政策を振り返れば、旧東ヨーロッパ諸国に存在する「ロシア系住民」という少数派市民の社会・政治問題に目が向けられ、ヨーロッパが主張してやまない〈自由、民主主義、ヨーロッパの価値観〉の現状を知ることになるでしょう。

それ故に戦争解決に向けては、〈プーチンの責任であるが、同じくEUにも責任がある〉という中庸論ではなく、脅威と感じるロシア―プーチン、そしてEU―NATOの〈自由、民主主義〉という政治概念が、実際に東欧諸国に何をもたらしてきたのかという点をも含めた議論がなされる必要があるのではないか、これが私の問題意識になります。それを確認するためにプーチンのウクライナ戦争突入と同時に、「鉄のカーテン」崩壊直後、現状を知るために見てまわってきた東欧諸国のメモと資料に目を通していました。

ソヴィエト「共産主義」が実は何だったのか

3.再び時間は、30年間遡ることになりました。当時の問題意識は、ソヴィエト「共産主義」が後に残したものを実際に見ることによって、ソヴィエト「共産主義」が実は何だったのかを見極めること、すなわちロシア革命の意味をもう一度考え直してみることでした。

バルト3国、ロシア、ポーランド、チェコ。そこで知ったユダヤの歴史から、2年前にウクライナのオデッサにいく計画でしたが、コロナ禍で中止になってしまいました。

バルト3国を例に挙げながら

個々詳細に書くことはできません。ここではバルト3国を例に挙げながら、重要と思われる諸点だけを概略しておきます。

「鉄のカーテン」が崩壊して「自由と解放」が謳歌されていました。しかし、社会が光と影の部分に分かれていく過程も見られます。

西側から資本が入り都市部で経済の急ピッチな市場争奪戦が始まる一方で、それから取り残され、そればかりでなくすべてを奪い取られていく市民生活が他方に生み出されていきます。旧政治・軍事・秘密警察官僚はコネと特権を利用して懐を肥やし、そのなかにはいうまでもなくロシアの富豪もこの機会を見逃しません。ここからロシアとの関係が、政治的のみならず経済的にも残存され、むしろ強化されていきました。

例えば自然豊かな保養地、ヴィラが立ち並ぶ高級住居地は、元ロシアと関係のあった官僚とロシア資本に収奪・支配されていきます。

西側からの投資も、利益が現地に落ちるのではなく西側に流失していき、〈自由で豊かな〉社会を望んでいた市民には、すべてが高嶺の花になります。資本の禿鷹が人民の富を食い尽くしていた時期に当たります。その分騒擾を極めていたことになります。

「民主化後の成功者の多くは、既にソヴィエト時代に影響とコネを持っていたものである」といわれる所以です。

このへんの状況は、当時次のように言われました。

ラトビアのリガからユールマラ(Jurmala)というリガ湾に面した硫黄温泉のある高級保養地まで、週末ともなればポルシェの行列が続く。

しかし、その間にある高層簡易アパート群―社会主義労働者団地で過ごす人たちに目が向けられることはありませんでした。忘れられていく、影の存在になります。自己利益を求める競争が、人が人を排除してきたからです。

「ソヴィエトの影響とコネ」の実情は、スターリンの「民族混合」政策に源を求めることが可能でしょう。ロシア市民を移住させソヴィエトの影響を強めることです。ソヴィエト領土の監視役、人質にされたといってもいいでしょうか。その結果、ラトヴィアとエストニアでは住民の4人に一人がロシア系住民といわれ、当時タリンでは60%といわれていました。

しかし最大の問題は、ソヴィエト国家崩壊後のロシア系住民の国籍問題です。例えばタリンの話ですが、エストニアとロシアからも国籍取得を断られ、彼(女)らは宙に浮いた存在に置かれているということでした。その後、どのような変化があったのか、私は知りません。

同じようなことは、他のバルト諸国でもあっただろうことが想像できるのです。

内部矛盾を政治利用したプーチン

そしてプーチンの2014年クリミア半島および東ウクライナ地域での戦争は、この内部問題を政治利用したものだったといえるのです。

ウクライナの自由選挙による民主化に反対したロシア系住民を解放するための解放闘争と聞こえはいいですが、実のところ暴力的な分離主義です。同じ論理が、今回のウクライナ戦争にも使われているように思います。

西側からの批判は、自由な選挙、一国の統治権、国境の侵害―国際法違反というもので、正当な主張にもかかわらず、なぜ戦争を食い止められなかったのかという自問と反省です。外交交渉で議論される可能性が出てくれば、またそれを望みますが、その時、とりわけヨーロッパは忘れられ、影の部分に置かれた市民の自由と解放を念頭に入れた論理立てを必要とするように思われてなりません。

何故なら、自由と平和とは社会の解放された人間関係であると思うからです。以下に、東欧民主化の経過に沿って、西側の課題を簡単にみることにします。

4.香港民主化運動のなかで、若いデモ参加者から聞かれた言葉が、今までずっと頭と記憶にこびりついています。

 

「民主主義運動が起きれば西側の人たちは、多くの連帯を呼びかけてくれるが、決定的な場面になると何もできない」

正確な記述ではないですが、内容に間違いはないはずです。この同じ問題が、実は、東欧の民主化でも問われていたように思うのです。以下、私のメモと記録から。

・エストニア――1988年11月16日、自由選挙で選ばれた評議会は独立を宣言しますが、国際的な承認を受け取ることができず、続いて1989年3月30日、88年に結成された共和国を5月8日に正式に決定する国民投票に参加するように呼びかけ、国民の78%が投票への意志表明をするが、西側は興味を示さなかった。

これが後の「100万人の人間の鎖」を呼びかけるきっかけになったといいます。

・ラトヴィア――1990年5月、ラトヴィアの国会が独立を宣言したことに対して、モスクワは「無効」の判断を下します。91年ソヴィエト軍が軍事的に対抗し決定を覆そうとしたことに対して、ラトヴィア市民は重要な政府施設と建物を防衛するために通りを通行止めにします。内務省への突入に際して衝突が起こり、死者が出ます。ドームが野戦病院になり、洗礼台のまわりには手術用具、器具の類が置かれてあったといいます。

・リトアニア――1989年12月7日、「共産党独裁」が憲法から削除され、複数政党制に移行し、そして1990年3月11日17時に独立を宣言。1991年1月8日、独立反対派の親ロシア派グループがデモを組織し、参加者は主にロシア人工場労働者と兵隊から成り立ち、モスクワはリトアニア大統領(Landsbergis)の退陣を要求するが拒否され、1月12-13日夜間、軍隊、軍の特別部隊、KGBAlphaがビリニュスのTV塔(放送塔)を襲撃し、占拠します。「救国委員会」を呼びかけ軍隊への援助を訴えるが、市民は非武装で対抗します。

この戦闘で市民の14名が死亡し、モスクワとレニングラードでリトアニア支持の「民主主義ロシア」のデモが起きています。

①ここからの教訓は、一つには、事態の進展に西側が対応できていないことです。それによって「西欧民主主義」が決定的な時点で無視するか、決定を避けなければならなくなっていることです。「西欧民主主義」が冷戦時代に共産主義を仮想敵とした時代性を越えて、新しい意味内容と対応力を獲得する必要性に迫られていたということでしょう。同じ構造は、対イスラム原理主義―IS戦にも問われていたことを見れば、プーチンの戦争を受け、今こそその可能性を追求すべきだと思うのです。

②その可能性は、東欧民主化革命の中に発見できるはずです。

これが二つ目の教訓です。

リガ(ラトビア)の旧市街を歩いていると画廊に掲げられていた白黒40×50㎝大の写真が目に入りました。「1989年8月23日バルト三国市民による『100万人の人間の鎖』」と記されてあります。

教会の鐘が午後三時を告げると同時に、バルト三国市民は一斉にタリン―リガ―ビリニュスまでの630kmに及ぶ「100万人の人間の鎖」を実現し、歌を歌いながらソヴィエト支配に対抗し、これが「鉄のカーテン」を引き裂き以降の民主化革命の引き金になりました。ちょうどこの日は、スターリン―ヒットラー相互不可侵条約が結ばれてから50周年に当たっていました。

その出発点になったビリニュス(リトアニア)の古典様式とバロックがミックスされたというカテドラルのある広場に立って、なぜこの地点からと考えざるをえませんでした。

ここが彼(女)らの依って立つ地点に違いない。彼らはここからきて、ここに戻り、そして現在というものを問いかけたのだ。

それ以上の言葉は、思い浮かびませんでした。

バルト3国は歴史的にデンマーク、スウェーデン、ドイツ、ポーランド、ロシア、そしてソヴィエトに支配され、独立国家の機会を奪われてきました。それ故に「言葉、習慣、宗教がそれぞれ異なり共通性はないが、運命だけは共通する」といわれてきました。

そのバルト三国人民の権力支配への抵抗が、「歌うこと」でした。

歴史は書きません。「歌うこと」の意味するところは、外国支配によって失われてきた文化的で国民的なアイデンティティー、誤解のないように表現すれば「民族の文化意識」を守り通し、また取り戻し、確立していく長い作業であったしょう。〈民族歌謡を通して、自分たちが誰であるのかを知る〉ために彼(女)たちは歌を歌ったのだと理解しています。

「100万人の人間の鎖」がバルト3国市民を一つにしたのでした。

プーチンは、EU およびアメリカ内部、そして国際相互関係の亀裂、対立を見越して戦争に踏み込んでいるはずです。

西側世界では共通の確認事項となっている「自由、民主主義、EUの価値観」という政治理念が、果たして東欧諸国の歴史と現状にどのような意味を持ち、かつ実践力を持つのか、今、試されていると思います。

3.次の課題は、緊急性と将来性の両面を合わせ持つエネルギー戦略です。東西ヨーロッパの経済に必要なエネルギーは、ロシアからのガス、石油輸入に依存してきました。また、 しているのが現状です。特に、東欧、バルト三国はソヴィエト時代に格安価格で輸入し、それによってソヴィエトへ全面依存することになりました。

1988年、モスクワがリトアニアにチェルノブリーと同型の第3基原発の建設計画を発表しましたが、抵抗運動にあいストップします。

1987年、ラトヴィアでは水力発電所建設が計画されますが、経済的かつエコロジー的な観点からの批判にあいモスクワは計画中止に追い込まれます。

1986年、エストニアにモスクワの燐酸肥料工場計画が持ち出されます。抗議行動は雪崩的に広がり、1988年5月「エストニア緑の運動」が結成され、急進左派、自然環境グループ、改革派共産主義者が結集してきたといわれます。

独立運動の総結集――「100万人の人間の鎖」

ウクライナもドイツも同じ状況でしょう。ロシアのガス、石油は輸入国のロシアへの依存を強めるものでしかないのは一目瞭然ですが、そこからの抜け道が果たして可能かどうかは、きわめて地域・地理学的な世界戦略を必要とするということです。世界的な規模での産業、経済構造のそれに応じた再編が求められます。

つい先日、それに呼応するようにハンブルクでは12万人!!が結集するFFF(地球温暖化問題に取り組む「未来のための金曜日」運動のこと)の大デモと集会が取り組まれました。FFFは、緊急を要しながらも60時間でこのデモを組織したといいます。

バルト3国のこうした反原発、自然環境運動が、1988年9月にはバルト海沿岸39㎞にわたってバルト海汚染に警告する「生命の輪」と表現された1万人の「人間の鎖」を実現し、2週間後には、白ロシアからの参加者も含め原発建設に反対した「生命の輪」がつくられました。

この運動がリトアニアの独立に導いたといわれています。ソヴィエトは手が出せなかったといいます。

「100万人の人間の鎖」とは、そうした独立運動の総結集といえるでしょう。

EUは東方拡大で何を語りかけてきたのか。

東欧の民主化で学ぶべきは人の結集が武器であり、社会変革の牽引力であるという一語に尽きます。が、それへのEUの「貢献」とは何だったのか。それを思い返しながら、これを書きました。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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