ドイツ通信第187号 ロシア・プーチンのウクライナ軍事侵攻で考えること(2)

プーチンは何におびえているのか

ドイツ市民の買いだめが始まっています。今回は小麦粉、料理用油、それに麺、スパゲティーの類です。どこのスーパー、店に行ってもこの売り場が物の見事に空になっているのを見て、人間心理の寂しさを感じてしまいます。何を考えて、そこまでしなければならないのか?

これが〈戦争〉という言葉が人に与える心理作用か?

一方では社会のインフラが徹底的に破壊され、住む家、電気・ガス、飲料水、食料を失い寒さに襲われながら祖国を離れ、しかし祖国に残れば日に日に無数の死を強制されているウクライナ市民の状況を目にし、他方で〈平和と自由、民主主義〉を主張する国の市民が生き延びるために買いだめをして、自分の殻にコソコソと引きこもうろうとする姿を見せつけられれば、コロナ禍から何を学んできたのかと自問しないわけにはいきません。

何も学ばずに、同じことを繰り返している現状に絶望を感じてしまいます。

今こそ自分の殻を破り社会に目を向け、社会へ出ていくときではないのか。ウクライナ戦争は「ヨーロッパの戦争」だともいわれています。戦争を経験した年齢層の危機感は痛いほどわります。まさかこの時代に、敗戦から80年も経った後に、もう一度戦争を経験するとは想像もしなかったでしょう。悪夢が甦ってくるのでしょう。戦争は人間の生存と生活への悲惨な徹底的な破壊行為であるのは明らかです。が、身を護るために、戦争をどう阻止していくかが各自に問われているはずです。

それが戦後のヨーロッパ―ドイツに課された課題だったと、少なくとも私は理解しています。

自分が生き延び、周辺の自然、社会が爆撃によって破壊されて、焼失してしまった風景の中に殺害された累々たる市民の屍を見ることに、はたして生きることのどれだけの価値があるのか。それを阻止しなければならないのです。それが戦争との闘争だと思います。

TVニュースで、一人のウクライナ女性へのインタヴューを聞いていました。彼女は、2014年、ロシア・プーチンの東ウクライナへの軍事侵攻と爆撃を逃れて、それ以降キエフに住んでいるといいます。そのキエフもロシア軍から包囲され、市民の大半が国外に逃避しました。しかし、彼女はキエフに残るといいます。

「2014年、東ウクライナから逃れ、今また、キエフへのプーチンの軍事侵攻が始まりました。ここで逃げても同じことが繰り返されます。また逃げなければならないでしょう。今回はキエフにとどまり、ロシア軍と戦います」

3月18日付のメディアでは、4つのKZ(強制収容所)(注)を生き延びたハルキウ(Charkiw)市の96歳のユダヤ人市民がロシアの爆撃で虐殺されたという報道が伝えられていました。

彼の名前はボーリス・ロマンチェンコ(Boris-Romantschenko)。ドイツでも知られており、自分の戦争体験を社会、学校で語り、「人間性犯罪を忘れないため」に残りの全生涯をかけて活動していた人です。同じような境遇の市民が何人もいるはずです。

KZとヒットラー・ナチのホロコーストを生き延び、「ネオ・ナチ支配から解放する」というプーチンに虐殺されたことになります。惨いという言葉しか出てきません。

(注)4つのKZとは、Buchenwald, Peenemuende, Mittelbau-Dora, Bergen-Belsen

私にはウクライナというよりヨーゼフ・ロート(Jozeph. Roth)の報道記事からガリチア(Galizien)の名前の方が親しいのですが、現在のウクライナも間違いなくユダヤ市民多数の故郷であることに違いはないはずです。

ユダヤ人ヨーゼフ・ロートは赤軍の従軍記者としてガリチアに同行しますが、そこで目撃したユダヤ人の生活と抑圧からロシア共産主義に疑問を持ち、それを記録(注)にとどめています。後に共産党から離れることになりました。

(注)Juden auf Wanderschaft: Die Lage der Juden in Sowjetrussland

プーチンが今回の軍事侵攻を「ネオ・ナチからの解放」、「ウクライナの非ナチ化」というのであれば、少なくとも、少なくともKZを生き延びヒットラー・ナチのホロコーストを逃れ、歴史を繰り返さないための戦いを続けてきた人たちを、子ども、女性たち共々国外に避難させ、身の安全を保障すべきでした。

プロパガンダの本来の意味を現実から見抜くことのできる一例でしょう。もっともらしく語られる言葉より、行為が語る言葉に真実が暴露されているということです。

そこでロシア・プーチンへの評価に関して、この20年間に身近なところでどのような変化があったのかを時間を追って振り返り、現在の問題を考えることにします。

2002年10月、プーチンの当時の連れ合い(Ludmila Putina)がカッセル(ドイツ中部)を訪れました。彼女はドイツ-ロシア語交流の民間大使に選ばれ、北ヘッセン州ドイツ語文化賞を受賞するためです。ベルリンとドレスデン時代にプーチンとの間に生まれた2人の娘を、彼女はドイツ-ロシア語のバイリンガルで育て、ドイツおよびロシアの学校でのドイツ語コンテストの牽引者になっていました。

警備が大変です。訪問先の周辺建物の屋上に狙撃兵を配置するようロシア側からカッセル市に要請がありましたがそれは見送られ、しかし類例のない警備態勢が取られました。

当時のドイツ連邦政府はシュレーダーSPD(社会民主党)首相と緑の党の連立で、一種の〈ドイツ-ロシア相互関係の新しい出発に向けた楽観的な気分〉が醸し出されていたのは間違いのない事実だと思われます。

冷戦関係の雪解けの一端が、こんなところにも感じられたものです。ドイツ側から見れば、ヒットラー・ナチ軍のレニングラード侵攻とその後に続く包囲戦での「戦争責任」、そして戦後の「過去の克服」作業の精神的な重荷の一端が軽減されたように感じられたのではないかと思います。あくまで心情として。

この背景には、2001年9月25日に行ったプーチンのドイツ連邦議会でのスピーチが大きな役割をはたしていたことは確かでしょう。

この時彼は、ロシアが考える「民主主義と自由の理念」について言及し、「ロシアは親交を信条とする国である。われわれは『ヨーロッパの家』の建設に向けて共同での貢献を成し遂げる」と述べ、「平和がヨーロッパ大陸の目的」であると締めくくり、それを受けた保守、左派を問わず国会議員全員が席を立ち、数分間の拍手が続いたと記録されています。

プーチンは、ヨーロッパの平和の実現に向けた「希望の星」として受けとめられたことになります。(注)

この基調は、「鉄のカーテン」崩壊と「ドイツ統一」に関するゴルバチョフの政治姿勢を引き継いだものだと思われます。

(注)Der Spiegel Nr.11/12.3.2022  Putins Masterplan von Chrisitan Neef

他方で、現在少しずつ明らかにされつつありますが、この時点を前後してロシアの地下資源―ガス、石油、石炭海外輸出のネットワークの確立に、DDR(旧東ドイツ)時代のシュタージ(秘密警察)との結びつきを利用した西ドイツの銀行、経済界への食い込みが始まっていたといわれ、それがロシア‐ドイツ間に敷かれたガス・ラインNord Stream 2の背景だと指摘されています。(注)

(注)Frankfurter Rundschau Dienstag, 29. 3.2022

Putins deutscher Oligarch von Bjoern Hartmann

今後この問題はさらに追及されていくだろうだと思われますが、また後知恵の感も免れませんが、ここにはプーチンの「表と裏の顔」の二面性がはっきりと浮き彫りにされています。

問題はこの二面性が、政治に何をもたらしてきたかということになります。それに対するEU およびNATOの対応はどうだったのか? これが個人的な問題意識です。

その前にサンクト・ペテルクスブルクに行った時のメモと記録から、時間的な経過を追い、ロシア・プーチン政権のなんたるかを素描してみます。12月未から1月初旬にかけてのロシア旅行がいつだったかの確かな記憶はないのですが、メモ内容から2006年頃だったように思われます。

1.ソヴィエト共産主義から誇り高く語られる「対ヒットラー・ナチ解放闘争」という内容を、ユダヤ人の現状から再検討してみることが第一のテーマでした。東欧諸国のユダヤ人歴史を見てまわりながら、では、共産主義本国の実情は?

「鉄のカーテン」が崩壊した旧東欧諸国ではナショナリズムが台頭し、プラハと同じく特 に サンクト・ペテルブルクがネオ・ナチの拠点になっていました。また、「路上少年」の犯罪が頻繁に報じられていました。

観光客として目立たないようにとの配慮から、普段着でペテルブルクに行くことにしましたが、「ヨーロッパの窓」と19-20世紀に謳われたネウスキー通りは、高級なと思われる毛皮で着飾ったロシア市民で賑わいを見せていました。それを横目に、「あれは、間違いなく数千ドルはするよ!」と私たちは囁いていたものです。行き交う人々に混じって西側市民の〈みすぼらしさ〉を感じずにはいられませんでした。

2006年の資料では、全ロシアのスキン・ヘッドは公式で5000人といわれ、外国人学生が攻撃の対象にされ、公然と通りで暴力の犠牲になっていても誰も介入しようとせず、目を背けるだけだといわれていました。

ナショナリズムと人種主義、それに加えて反ユダヤ感情の高まってきているのが認められます。

1990年の初めに300万人いたユダヤ人は、2006年の段階で10分の1の30万人に減少し、その半分はモスクワに住んでいるといいます。

その背景をロシア市民の声から、以下にうかがうことができます。

アンケート調査では、ロシア市民の40%以上が「ユダヤ人の公共生活、文化、経済分野への影響を制限すべし」と答え、また3分の1弱が、「ユダヤ人住居を一定の地区に限定すべし」と回答しているといわれていました。

〈ファシズムに勝利した国〉を自認する共産主義ソヴィエト=「反ファシズム国家」??それにはDDRも含まれるのですが??の問題点は、戦後も残されてきたということでしょう。

2.とにかく寒く、また私たちの生活水準と比較して何もかも高かったです。「革命の揺籃地」 ペテルブルクは運河が四方八方に入り組み、ネバ川が近くなれば、日中でさえ気温は零下30 度以下に下がっていたと思われますが、寒風が吹き抜けてきて肌の剥き出しの部分が凍りつくように痛くなり、一歩も前に進めず、建物の窪みを見つけて身を寄せしばらく暖を取るしか術がないのです。そしてやっと1-2分歩いたかと思えば、また同じことの繰り返しになります。

ネバ川の向こう岸にはペーター・パウル要塞監獄が見られます。ここに体制反対派??デカブリスト、処刑されたレーニンの兄、そしてドストエフスキー等々??が囚われ、「一体この冬の寒さに」と、私はなんとも様にならないことを考えていました。

晴れやかな表通りではなく、運河に沿って歩いていると歴史的な建物の扉を出入りする人影が目に入り、中を覗いてみたら小さなカフェになっていて、プラスチックのイスと机があり、コーヒーが10-20円ぐらいで、またいくつか種類のあったパンも同じような値段でした。アルコールに半分酔いつぶれている男性が何人かいます。腹を肥し、暖を取ることができました。私たちは安心し、落ち着けました。

3.次の問題は、この極端な貧富の差とエネルギー確保、市民の生存保障に関してです。

崩壊してしまっているロシア経済をどう立て直すのか? 1991年10月にエリツィンは、「自由主義化」と「私有化」を2つの骨子とする「改革プログラム」を発表し、92年に公式にスタートしますが、実情は市場経済と計画経済の混合で、しかし、ソヴィエト時代の後遺症として民主主義の基盤、国法意識、複数政党制の原理、権力分散の政治制度が育っていないことにより、こうして「Trial and Error」といわれた試みは失敗する羽目になります。その結果が、92-95年の壊滅的なインフレを招き、政治のコントロールから離れて市場経済だけが先行していくことになります。

ここでの一番のポイントは、旧共産主義時代の経済構造を残存させながら、他方で特に新 世代??アカデミックなインテリへの対応で適切な方策をとれていないことです。

 

ソヴィエト時代に安定した生活を保障されていた各級指導者、公務員、教師、科学者、技術者そして医者等、いわゆる中間層の多くが海外に脱出しますが、最もダメージを受けたのは年金者と女性でした。

国内の職をどこに見出すのかとなれば、2つ、3つの不正労働を掛け持ちするようになり、その割合は、当時、ロシア経済の30-50%を占めるといわれていました。

それによってロシア市民の考え方に大きな変化が現われてきます。特に、医者の海外流失は、それまで無料であった医療制度に破壊的な影響を与え、市民の健康状態を悪化させるばかりか、学校医学への信頼性が失われていき、「超自然主義」「超感覚主義」への憧憬が強まり、新興セクト(宗教)やシャーマニズムの興隆となって現れてきます。

以上を要約すれば、経済市場化の過程で中央集権的計画によるソヴィエト経済構造の問題点と欠陥が明らかにされたということでしょう、以下、要点だけを指摘しておきます。

・国家セクターへの偏り

・軍需、重工業への過剰投資

・政治的に決定される産業・工業立地

・自然資源とテクノロジー独占による生産の集中

・老朽化した生産設備と新規投資への不可能性

・サーヴィス、財政、消費分野の未確立

・そして最も重要だと思われるのは、ソヴィエト的な経済文化、感覚、価値観がまだ大きな 影響をもち、そこから抜け出ていないことです。

4.言ってみればこのロシア経済の過渡期と、時期を同じくして「寡頭制度」および新興財閥(オリガルヒ)の生まれてくる経過に関しては、ゴルバチョフ時代まで遡れるのではないかと思われます。

私有化の現状は、93年に小企業の70%、94年に中・大企業の80%が進められたというスピードで、しかし国有地はほとんど手がつけられていず、2001年秋に、1917年革命後初めて工業・産業用地の2%に限定されて開始されています。実は、この過程で「寡頭体制」が生み出されてくることになりますが、それは単に私有化の産物ではなく、すでにゴルバチョフ時代にその基礎がつくられ、共産主義青年同盟「コムソモール(komsomol)」のなかに原型を見出すことが可能だといわれます。

1980年代中期には商業が自由化され、公式的にコムソモールは中央委員会の指示によって私有化の実験に向けた特別許可を受け取ることになります。若い起業家がこれによって商業投機、商品売買の自由を手に入れ、まずはコンピューター、ウオッカ等を手掛け、続いて車、プラスチック玩具に向かいます。

この取引先が、現在の資産家アブラモビッチ(Roman Abramowitsch)となります。

90年代半ばになると、さらなる私有化キャンペーンが張られ、エネルギーとテレ・コミュニケーション(通信部門)が対象になり、それは地下資源の私有化も含め、銀行のクレジット借款では最早救済できないまでの破産状態にあった国家財政を立て直そうとしたエリツィンの無策の策であったでしょう。

私有化に向けては、しかし公正な競争は一度としておこなわれたことはなく、事前に打ち合わせができていた身内のグループに入札されただけでした。

5.私有化と自由化が、事前の出来レース、すなわち縁故・閨閥関係であることから、この過程で政府反対派が残らず全部粛清されることになりました。

その上に、現在の石油等エネルギー、武器産業等の寡頭体制、新興財閥が成立することになります。

2006年段階でガス、石油等エネルギー企業7社が、私企業の総売り上げの85%を独占し、彼らがプーチン政権の財政的人脈と基盤を形成していきます。

「新ロシア人」が生み出されてきます。

一つは、ノーメンクラトゥーラで、私有化に際して会社の経営陣になり下がるか、狡猾な詐術で経営者の多数派を獲得します。

また、企業ライセンスの許可・認可手続きは複雑になり混乱し、薄給の公務員(検査官)への賄賂が必要になってきます。

当時、西側企業のマネージャーの言葉が、現状のすべてを言い表しています

「仕事時間の3分の1を当局とのやり取りに費やした」

世界銀行の調査(94-96年)では、企業の50%以上が「不正支払いしていた」と認めています。

もう一つのグループは、マフィアです。プーチンが大統領になってからは、中央の国家権力機構は大統領とその取り巻き??とりわけ〈プーチンの権力者〉といわれる軍人と秘密警察部(元KGB)のメンバーによって囲まれ、スターリン時代と何ら変わらない構造が引き継がれ、中間層が解体され貧富の格差が広がったことから、「法的ニヒリズム」が蔓延し、そこにマフィアが地盤を固めることになります。国境コントロールがなくなって以降、ロシア・マフィアの密売・密輸ルートは中央アジアのアフガニスタン?イラン?パキスタン?トルコを経由してヨーロッパとバルカン諸国にまで及び、麻薬ルートに関してはロシアにとどまらず、ポーランドとウクライナまで拡大されていきます。

90年代のロシアの経済は、マスコミ用語ではなく西側政府の分析でさえ「強盗資本主義」「マフィア制度」という用語が使用されています。

2006年にロシアに行ったときは、プーチンの人気が非常に高かったことを覚えています。なぜか?というのが私の疑問でした。

フィンランド銀行の調査によれば、経済危機の99年に年金が20USドルであったのに対して、05年には90USドルであることが示されており、この数字は当地の英字新聞でも読んだ記憶があり、間違いはないと思います。

また、ドイツのTV報道でロシア年金者へのインタヴューが行われていて、「プーチンによって、定期的にきちんと年金が支払われるようになった」と、農村部の70歳前後と思える女性が話していました。「行動するプーチン」というイメージが伝わってきます。

6.東欧諸国でもそうでしたが、「鉄のカーテン」崩壊後のロシアの若い人たちの会話の中に、当時の社会的雰囲気を読むことが可能です。

「何を話しているのか、われわれは今日という時間に生きているのであって、明日何が起こるか、誰が知っているというのか」

刹那的で、投げやりです。強制されたか、自由意思かを問わず、共産主義の思想と教育を受け、それが崩壊した後に何を信じていいのか途方に暮れる人たちの姿は、アルコールとパーティー、そしてドラッグとセックスをテーマとした文芸界の中にも描かれています。

「ロシアの将来がどこに向かうかは、外国人観察者のみならず、ロシア人自身にもわからない」

と、西側政府関係の雑誌にも書かれます。

権力を維持していくための思想というか精神的支柱が必要です。それが、実は、オーソドックス派教会の役割になります。

1917年の革命後は、教会、修道院、チャペルは博物館、資料庫、物置、スポーツ・ホール、そればかりか信者へのこれ以上にない侮辱になる家畜小屋として利用され、牧師、修道士は政治弾圧を受けるか、あるいは虐殺されました。教会のゼミナール施設と所属の学校も閉鎖され、個人の思想と精神を鍛えていく社会的条件がこうして徹底的に取り除かれた上に共産主義教育が始まります。

しかし、やっと1997年の法律によってオーソドックス派教会は、国家と文化の精神生活の支柱であると規定され、ソヴィエト政権崩壊後に全ロシアで1万6千の教会が再建され、ミサが再開されるようになったといわれています。モスクワでは、この間に46から460に教会の数が増えたといわれ、「新しいファッション」になりました。

若者の信仰が問われているのではありません。10世紀以降のキリスト教化の伝統の中に民族と文化の所属意識を見出そうとする動きで、長く禁止されたことが、若者を「ファッション」に駆り立てるのだと思われます。

問題の本質は次のところにあります。そのオーソドックス派の教義が、「堕胎禁止」「同性愛及び同性婚姻」に反対する男権意識を代表し、保守・民族主義的な価値観は神秘的で、「反ユダヤ」主義を公然と掲げる教会代表者もいるといわれます。

一例を挙げます。1998年厚生省が、エイズ予防を呼びかけてコンドームのプラカードを街頭に掲示したところ、1週間後には「世論の圧力」に圧されて撤去されたという経緯があります。また、ドイツの緑の党のメンバーが毎年モスクワで開かれていた同性愛者の集会とデモに参加したところ、「同性愛は病気」と主張する右翼・民族主義者から暴行を受け、負傷しました。この集会はその後聞かれなくなりました。

プーチンの思想とイディオロギーも同じような根を持っています。面白いのは、2000年代の初めだったと記憶していますが、ドイツを訪問した時、TVのインタヴューで「同性愛」に関した質問を受け、プーチンが答えられず「えー」「あー」と長々と繰り返すだけで、結局は彼の本質をさらけ出すことになりました。

こうした底流にオーソドックス派の宗教的な価値観、イディオロギー、教義が混在していることは間違いないだろうと考えています。

以上、引き裂かれていくロシア社会を、プーチン現政権は中央集権機構としてはスターリン主義を継承しながら、政治とは何のかかわりもない「石油酔いで、われわれすべてがそれに依存している麻薬」(最初のロシア語版Nersweek誌)経済と、「ロシアの精神」としては革命前の時代に回帰することによって繋ぎとめようとしているといえます。

長々となりましたが、ここで再び、元のテーマに戻り、プーチンが言うロシアの「民主主義と自由の理念」が何であるのかが見えてきます。それは西側世界が主張する意味内容とはまったく異なり、彼自身も言うように、決して西側のリベラルなモデルをコピーすることではなく、大産業を国家のコントロール下に置き、ロシア人民に独自の民族であることの誇りを取り戻すことだということです。

この観点から、これまでのウクライナ戦争までの歴史を振り返れば、プーチンが何に脅威を抱いているのかも見えてきます。

以下、経過的に順を追っていけば、チェチェン(2000年)、ウクライナ選挙(2004)、そしてグルジア(2008)、ドンバス、クリミア半島、ベラルーシの民主化運動(2020)、そして「オレンジ革命」が引き金となったウクライナ民主化運動(2013-14)への政治・軍事介入、そして今回のウクライナ戦争と続きます。これら一連の各国の政治闘争は、自治・独立と民主主義制度を求める運動でした。

2つの問題点が再考されなければならないでしょう。

一つは、今回のウクライナ戦争までの20年間以上も、西側諸国はロシア・プーチンの政治的、軍事的意図と目的を過小評価するというか、危機感をもって対象化し検討することがなかったことです。

われわれ市民もそうですが、正直なところ、どこか元ソヴィエト・ロシア領域での紛争であるかのように、遠巻きに眺めていたのが現実です。またメディアでも掘り下げて報じられることは少なかったです。「民主主義と自由」の世界に酔い切っていたのです。しかし、プーチンは長期的な展望でロシアの国家利益を虎視眈々と狙っていたことが、今回のウクライナ軍事侵攻ではっきりしました。遠巻きに眺めていたものが、「身近に」なってしまったのです。ここが、西側世界の混乱の原因だと思います。

2つ目は、EU ―NATOの「脅威」とプーチンが主張する場合、2つの側面からの検討を必要とするように思われます。

1つは国家主権と国民の自主決定権に関するジレンマです。

1.一連の民主化・独立運動でNATOとプーチンの間で議論対立しているのは、旧東欧諸国のEU―NATO加盟に関するもので、しかしそれは、「国家主権」と「国民の自主決定」にかかわる問題で、民主主義を主張する者がいれば、この原理を否定することはできないはずだと思うのです。

2.ウクライナを例にとれば、憲法に明記されたNATO加盟を放棄することはできず、他方でプーチンは、ウクライナのNATO加盟のないことの保障を求め、NATOは、加盟条件があるだけに空約束はできないはずです。

三つ巴のジレンマが読みとれますが、しかし、私の疑問は、だから軍事介入が許されるのかという点です。

そこで次に、一連の民主化・独立運動へのロシア・プーチンの政治・軍事介入と徹底的な壊滅戦を振り返って見えてくる目的は、民主化を求める国民の生存を根こそぎ破壊することで、その後に親ロシア派の傀儡政権を樹立することと言い切っていいだろうと思います。今回のウクライナがそうです。

プーチンが言うNATOへの「脅威」と、しかし、ここに明らかになる戦争目的との間には、何らの関連性が認められません。

これが私の結論になります。プーチンの恐れているのはロシア周辺で起きている民主化運動で、それが彼の権力を狙い撃ちすることへの恐怖・脅威だということです。

「そうではない!」というのであれば、戦争の必要性はさらさらなく、NATOをめぐる政治、外交交渉だけで十分ではないかと言いたいです。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11918:220405〕