ドイツ通信第190号 ロシア・プーチンのウクライナ軍事侵攻で考えること(5)

この間の経過を追いながら、テーマを整理してみます。

4月29日、「Emma」」という女性解放誌の編集長であったジャーナリスト(Alice Schwarzer)が中心となりウクライナ戦争の軍事対抗に疑問を呈し、政治交渉による解決を目指すよう要請した首相ショルツ宛ての文章が公表されました。

「アリス・シュヴァルツァー」という名前は、60年代に堕胎禁止法反対闘争を牽引した代表者ということで、日本でもご存知だと思います。

この文章への賛同者には学者、ジャーナリスト、芸術家、小説家、音楽家、役者そして市民等が名を連ねています。

言ってみれば、インテリが声を上げたことになります。それまで、ウクライナ戦争をめぐる議論の中で「一体、ドイツのインテリはどうしているのか?」と、ハーバーマス等一部を除いて彼(女)たちからの発言の届かない苛立ちがありましたから、従来の軍事一辺倒の議論がこれによって多極性を持ってくることになりました。これが私の第一印象でした。

一つの特徴は、武器供与・援助による戦争勝利論者の見解には、ウクライナの「軍事勝利」の意味内容に関する規定と目的が明確でなく、意見もまばらで、「勝利」の後に何がもたらされるのかという一点で、未知数の不安定性と不明瞭性を感じさせられざるをえず、実は、今回の要請文章はこの点に向けた一つの統一見解を述べたものだと判断していいでしょう。

賛成するか反対するか、あるいは無視するかは、ここでは問題ではありません。軍事一辺倒の議論に圧されていた別な意見が表面化させられたということで、そこに大きな貢献があるように思われます。

事実、TV-メディアではこれを機にトップ記事がウクライナから別のテーマに移りはじめました。90年代以降いわれてきた「センセーショナル・メディア」の気移りな手法をここに見る思いですが、それだけではないはずです。

要請文章に関して、即、「ウクライナに無条件降伏を強いるのか!!」、「ウクライナ市民の状況を無視している!!」等々の批判が投げかけられましたが、私自身は賛否の二元論ではなく、戦争に直面して何が議論されなければならないかという観点の方が重要だと考え、以下に要点をまとめておきます。

決定的なポイントは3点です。

・第三次世界大戦への発展を回避する。

・そのために重武器を供給しない。

・停戦条約を結ぶことを追及すべき。

攻撃的な軍事暴力に同じ暴力で対抗しないことが政治的で道徳的な義務であり、そうした政治倫理がドイツの歴史的な回答でなければならず、武器のエスカレーションは、軍拡と軍需産業に貢献するとはいえ、それによって人間の生存に必要な健康を破壊し、気象変動を加速させ、平和な世界を実現することにはならない。

以上ですが、ドイツの歴史的責任と政治交渉が、はたして「ウクライナの屈伏」にならないのかどうかという批判点へは、ウクライナの防衛が、「戦争を再び繰り返さない」(Nie Wieder!)ための試練にかけられており、ドイツの歴史からの教訓は、再び新たな追放、絶滅戦を阻止することにすべての努力を尽くすことであると断言しています。

重武器供給、核兵器の使用に反対するのは、決してウクライナの独立と自由の防衛にわれわれ(賛同者)が関わらないという意味ではないないと。

ここにも戦争勝利論と同様のジレンマが読み取れるのですが、プーチンを相手に政治交渉と停戦に向けた交渉条件とはなにかを見つけるのが困難だからだと思われます。

ドイツの歴史的責任とウクライナ独立と自由の防衛――このように個人的なキーワードを取り上げておきます。

時間は再び30年前に遡ります。

90年代の初めに「鉄のカーテン」が崩壊した後、東欧諸国から政治難民がドイツに入ってきたことにより、ネオ・ナチの活動が活発になる一方で、他方でドイツの「過去の克服」が議論されはじめました。さらに湾岸戦争が勃発し、ドイツは戦争参加を拒否し軍費資金援助を決定しました。

時を同じくして日本でも戦後補償が議論され、ドイツの経験から学ぼうとする学術的で、実践的な取り組みがあり、調査・研究者を中心に何人かの人たちがドイツを訪問されました。

私は丁度このとき、ドイツと日本の中間点に位置することになりました。そのときのメモと記録を今、読み返しています。

ドイツの戦後補償から学ぶことはたくさんあります。誰もそれを批判できないはずです。しかし、まわりに目を向けてみれば、そこに忘れられた人たちの存在が浮かび上がってきます。これが、私がその後、東欧諸国に行って実際にドイツの「過去の克服」を追体験する動機となりました。

VW(フォルクスワーゲン)社、ダイムラーベンツ社そしてドイツ・バンクの社史づくりは1980年代から始まっています。そこで自社の過去が掘り起こされ、戦後補償に向かう経緯は、むしろ日本の皆さんの方が詳しいのではないかと思います。

他方で、戦後補償に積極的に取り組んでいる団体としてはシンチ-ロマ、同性愛者、安楽死と強制避妊手術を受けた障害者、それに旧東欧ブロックの団体をあげることができます。

この時点で確かにユダヤ人への戦後補償はされてきていますが、ナチの人種主義と差別主義の犠牲になった人たちが忘れられた存在となっていました。

「ドイツには一般的な外国人排斥というのはなく、問題は自分とは異なったものを排除、排斥しようとする思想である」

当時これが、ネオ・ナチの外国人排斥、反ユダヤ主義の跳梁に際して語られていた共通する確認事項でした。この観点から「過去の克服」活動も考察されなければならないと考えるようになっていました。

いくつかの事実を以下に列記するにとどめておきます。時は90年代です。

1.ジーメンス社は、1997年10月に開催された設立150周年祭で、強制労働への補償を拒否しています。40年以上も前に生存者への基金建設に参加しているので、いま改めて議論する必要はない。また、労働の強制義務は国家機関によって実現されたものであり、労働賃金はその国家機関に支払わなければならなかった、というのがその理由です。

1944年段階で5万人の強制労働者がジーメンスの軍需兵器を生産しており、そのうち約2,000人のユダヤ人への補償はなされていますが、その他の東ヨーロッパ人と被拘留者に関しては、まだ補償はされていません。

2.ドレスデン銀行が設立125年周年を祝っているとき、TV局ARD(公共第一放送局)はその隠された歴史を明るみに出していました。資本設立はアーリア化、即ちユダヤ人資産の強制没収によって調達されたといいます。それをもとに今度は、IG-ファルベン社(ユダヤ人大量虐殺のためのツィクロンBを製造)への投資によって今日の富を築き上げることになりました。

3.IG-ファルベン社で強制労働させられて人たちは全部で35万人といわれ、そのうち1万人がポーランド、ハンガリー、チェコ、その他の東ヨーロッパに今なお生存していますが、IG-ファルベン社の後継企業であるへクスト、バイエル、そしてBASFからはまだびた一文の補償もないといわれます。5人に1人が亡くなっていくという緊迫した状況の中で、95年から補償を実現していく集中的な取り組みが始まっています。

4.リトアニアとラトヴィアのユダヤ人収容所被拘留者が、ドイツ政府の補償を「偽善」として突き返します。96年11月のことでした。「政府はお手許金から生存中の89名のラトヴィアのユダヤ人に支払いをし、それによってすべてのことを済ませようとしているが、それは布施、施し物以外の何物でもない。ドイツ市民は自分の政府を恥じるべきである」と。

ドイツ軍がバルト3国に侵攻したとき、ラトヴィアに7万人、リトアニアに26万人、エストニアに5千人のユダヤ人が生存していたといいます。ドイツ政府は、それぞれ一括払いの300万マルクを提案していました。

5.70年代にはじめて、フランスの作家が「忘れられたホロコースト」という題名の本を出版し、ナチによるシンティ-?ロマ虐殺の歴史の全貌が暴露されますが、注目されることがなかったといいます。94年8月全ヨーロッパからシンティ-ロマがビルケナウのアウシュビッツに集い当地で虐殺された20万人、全体で50万人といわれている(資料が紛失されていて正確な数字は不明)同胞を追悼しますが、ドイツ政府からは1人も公式の参加はありませんでした。

生存中のシンティ-ロマに60年代まで補償がなされなかったことを認める口実としてドイツ政府は、

「ユダヤ人のようにその人種的根拠によって迫害されたとは言えない」ことを理由に挙げています。

6.97年10月31日、ギリシャの裁判所は、ドイツに5,500百万マルクの支払い義務を命じる判決を下しました。この裁判は、1944年ドイツ軍侵攻によって虐殺された家族の100人が告訴人になっておこなわれていた損害賠償を求める訴訟でした。500人いた住民のほとんど半分が射殺されています。ドイツ軍に対するパルチザンへの報復として214名が虐殺されています。しかし、ドイツ政府はこの判決を無効としています。

7.精神病院、養護および社会福祉施設で行われた安楽死と強制避妊手術への被害者への補償を求める取り組みが、95年8月から始まります。1940年から41年にかけて、精神病院でのガス虐殺の被害者数は7万人といわれ、ソヴィエト連邦で虐殺された患者、障害者を含め、安楽死の犠牲者の数は20万人から25万人と見積もられています。そして、強制避妊を受けた被害者数は40万人という資料が、1990年にシュタージ―の資料庫で発見されました。

8.ナチの軍事法廷で不当判決を受けた人たち――反抗者、軍事服務拒否者への損害補償が、95年に始まります。議会討論では、このなかに共産主義者も含まれることから、政府の抵抗は強いです。

9.「対独物的請求ユダヤ人会議」と政府との間で、中央-東ヨーロッパに生存中のユダヤ人への補償を求める交渉が、97年8月から始まります。

10.最後に当時の一つのテーマは、東ヨーロッパに生存するユダヤ人、非ユダヤ人に対する強制労働および被害への補償問題です。

以上の経過からわることは、戦後補償の過程で、即ちドイツ連邦補償法(注)では強制労働、シンティ-ロマ、ホモセクシュアル、いわゆる反社会分子、強制避妊者、安楽死犠牲者、軍法会議の犠牲者が忘れられた存在に置かれてきたということです。特に目立つのは、ナチの犠牲者のなかでも、旧東欧ブロックに住んでいる人々およびドイツ以外の国で被害を被った人々には補償請求権がないことです。

こうして考えてみるとドイツの戦後補償、「過去の克服」が、戦後の冷戦構造のなかで速やかに西側世界に編入し、反共の砦としてNATOの一員になるという政治的意図に裏づけられていたことが見えてきます。

そのためにイスラエル、アメリカとの関係も含め戦争責任を認め、ユダヤ人への補償が必要だったと言えます。

(注)Bundesentschaedigungsgesetz-69年まで有効

しかし、冷戦構造が90年に解体して、当初内包していた問題が噴出してきたというのがこの時代だったように思われます。したがって、90年代のネオ・ナチの台頭をめぐる議論は、この戦後の戦争責任と「過去の克服」に不可欠な社会思想的な問題を投げかけることになりました。

ウクライナ戦争を契機にEU東方拡大―NATO再編で問われているのは、東西ヨーロッパの単なる軍事的な力関係ではなく、実に人間の相互関係の社会的で歴史的なインテグレーション――地政学的な社会編入の在り方だといえるでしょう。

それを数字で示すと、NATO加盟国は90年代に16カ国であったところ、現在は30カ国に倍増しています。では、それによってこの30年間に人間生活と社会の何が、どう変化したのか。

平和ではなく対立と紛争、自然破壊、そして貧困を倍増してきただけではなかったか。

その時、EUとNATOは何を、どんな言葉で語ることができるのか。今問われているのは、こういうことでしょう。

上に挙げたドイツの軍需産業で強制労働させられた人たちへの補償が、ドイツ国会で議題に上ったのは1998年のことです。基金への参加を経済界は、しかし、「(強制労働の――筆者注)責任を認めることなしに」と条件を付けてきます。

強制労働補償支払いに向け集団訴訟が始まっているアメリカをはじめ国際的な圧力、ドイツ企業ボイコットの呼びかけ、裁判判決のリスクが高まってきていた折から、ドイツ企業としての「法的保証」の担保を要請します。

強制労働者の95%が東ヨーロッパに生存しており、平均年齢は80歳と当時いわれていました。それは、ナチの東方戦線の占領地域としてポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ロシア一帯にわたります。

時間との競争ゆえに、国内外からのプレッシャーがかかります。

そして、2000年8月12日に「記憶、責任、未来」と称する基金が設立され、2001年5月30日、国会が「(企業の?筆者注)法的保証」を確保したことによって支払いが始まりました。

参考に補償額は、2001から2007年まで1回きりの500から7700ユーロとなっています。

生存者が「奴隷労働」と表現するのは当然のことです。補償は人間性と人間の尊厳の回復でなければならなかったはずです。

しかしこの中には、戦争捕虜と西ヨーロッパの一般市民強制労働者は含まれていません(注)。

(注)Bundeszentrale fuer politische Bildung (bpb) online

(1) Der lange Weg zur Entschaedigung

(2)ange Schatten: Der Umgang mit dem Zweiten Weltkrieg und seinen Folgen in Polen und   Deutschland

Deutschlandfunk online: Entschaedigung fuer NS-Zwangsarbeit Spaete Einsicht, wenig Geld

Zeitgeschichte online: Spaete Entschaedigung fuer die Opfer einer kalkulierten Vernichtungsstrategie von Tanja Penter

「EU-ヨーロッパの価値」という表現が、政治家のトレンドになった感がありますが、その現状は、この間のEUの統一ではなく対立にこそ真実味があるように思われます。

もう一点付け加えておくことがあります。マルセーユに行ったときのことです。もうかれこれ10年前のことでしょうか。ポロヴァンスにそれまでのフランスの「タブー」を破り、ナチ協力の記念館(注)が、元のレンガ工場跡を改造して2012年9月10日にオープンされました。この建物は、 ヴィシー政権によってユダヤ人が拘留されアウシュビッツに連行される通過点になりました。

展示の初めに虐殺されたたくさんの子どもたちの写真が展示されています。それを一つひとつ見落とさないようにと見てまわりながら、「なぜ?これだけの数の」という疑問を抱きながら、長らく真実を知ることがありませんでした。

(注)Site-M?morial du Camp des Milles

昨年のクリスマス休みに、フランクフルトにある「ドイツ・ユダヤ博物館」が改修後に再オープンしたのを機会に、展示ガイドに参加することになり、そこで案内者から「子どもたちは仕事(強制労働?筆者注)ができず、虐殺された」という説明がありました。

強制労働に連行された子どもたちの年齢は、上に挙げた資料になかでは14歳が記録されています。つまり、それ以下の子どもたちの虐殺が大量におこなわれたことが、この事実によって裏づけられます。

以上、では、その人たちの戦後補償は?この事実はほとんど知られていないし、議論されることがなかったように思います。

ウクライナ戦争のなかで、〈ウクライナの防衛が、「戦争を再び繰り返さない」(Nie Wieder!)ための試練にかけられており、ドイツの歴史からの教訓は、再び新たな追放、絶滅戦を阻止することにすべての努力を尽くすことである〉という今日な意味を、私は以上のような歴史的な関連で理解しています。

最後に、ドイツの戦後の東方外交に関して、ロシアとの交渉窓口を残しながら、しかし、ナチの東方戦線――絶滅戦の戦略拠点となったウクライナ、ベラルーシ、そして何よりもポーランでとの関係は、そこではまったく無視されています。戦後の補償問題でも、東欧諸国の国家主権と権利はソヴィエト国家に棚上げ、こう言っていいかと思いますが全権委任された構造になっているといっていいでしょう。

これを言い換えれば、ヒットラー―スターリン秘密条項が戦後のなかでも生き続けてきたということでしょう。意味するところは、ドイツとソヴィエトによる中央・東ヨーロッパの地政学的な割譲という一言に尽きます。

別の問題は、それをフランス、イギリス等の連合諸国は知りながら、黙認したという点です。

政治用語では、ナチ協力、第五列、通適者等様々に使用されています。では、以上の絡み合った政治関係をどう理解し、表現したらいいのか。それらを解きほぐす導きの糸とは何か?

次の問題は、ブラント(当時首相、)社会民主党=SPD)の外交交渉の影に、地下資源(石油、ガス、石炭)のロシアからの確保があることです。敗戦後の経済再建のために必要なエネルギー供給をロシアに依存することになります。西側世界―NATOへの編入が戦後ドイツの政治戦略である一方、経済再建のエネルギーをロシアから輸入するために、ヨーロッパの政治安定が必要になり、これがロシアとの外交の枠組みを決めることになりました。

ブラントおよび戦後ドイツの東方外交が、「だから意味がなかった」と切り捨てるのではなく、そこに含まれていた両国の政治利害関係に読み取れる問題点を洗い出せば、現在のウクライナ戦争に対するEU―NATOの対応も決められるのではないかと考えます。

そうれは将来がどうあるべきかという問題と同時に、過去の課題をそでどう解決していくのかという実践的な課題であるはずです。

そのために、歴史から残されている、忘れられている存在者に視点を当てました。

最後に、なぜロシアのエネルギーか? 答えは簡単です。〈安上がり〉になるからです。アメリカあるいはアラブのエネルギーは高くつきます。政治と経済を秤にかけているのが東方外交の二面性ということができます。この二面性が、プーチンのウクライナへの軍事侵攻によって打ち破られたことになり、従来のEU-NATO、安全保障の根本的な転換と再編が求められているのが、現在だと思います。

〈安上がり〉経済、これはまた、コロナ禍でも体験しました。西側世界のインド、中国等への低賃金、奴隷的な労働分割が、世界の健康と自然の破壊をもたらしました。その意味で、資本主義世界は自分が作り上げた毒を今飲まされているということです。

そのとき、強制労働させられた人たちは、再び忘れられていきます。

「過去(の責任)」を語ることはたしかに必要なことであり、しかし単に始まりに過ぎないでしょう。そこから、自分の責任ある人たちに視線が向けられ、過去を共有していくことが、「過去の克服」という意味であるように思われ、これを書きました。またこれが、私がドイツの「過去の克服」で感じていた問題でもあります。      (つづく)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12152:220628〕