10月7日(土)付週末版新聞は、全国・地方紙共に8日(日)に予定されていたバイエルンとヘッセン両州の議会選挙の予想がメイン・テーマとして紙面を飾り、解決策の見えない難民問題と極右派AfDの伸張をめぐる論説で占められていました。
その中で地方紙HNA10月6日(金)付が一面を使って、「ヨム・キプル戦争のトラウマ」(Trauma von Jom-Kippur-Krieg)の見出しで、50年前の1973年10月6日に起こされたエジプト及びシリアを主軸とするアラブ諸国のイスラエル戦争を報じていました。
歴史的な事件として読んでいたのですが、土曜日の夕方、TVニュースで初めてハマスのイスラエル軍事攻撃を知ることになり、時期的に双方の関連性を気づかされることになりました。
この攻撃が日付的に偶然だったのか、計画されていたのかは事実経過が明らかにするはずです。
現在、ハマスの10月7日イスラエル軍事攻撃を受け新聞記事を再読しながら、50年前当時と現在を比較しています。どこに違いと共通性があるのか?
ヨム・キプル(独表記Jom Kippur)は、ユダヤ人にとって最も聖なる「贖罪の日」で、ユダヤ教の信仰、非信仰にかかわらず、この日は社会が一斉に静謐下に置かれ労働、交通機関、日常生活が停止されます。この状況をイスラエル‐エルサレムに行ったとき、ユダヤの休日で実際に体験することになりました。
宿泊所では料理用に電気が使えないためトースト等の簡単な通常の食事さえできず、また交通機関も止まってしまっているため移動のできない苦労を味わされました。しかし、他方で街区を接するアラブ住居地に行けば、レストラン、カフェー、飲食店が、オープンされています。
テル・アビブで開かれた「10月6日50周年」式典に際してイスラエル大統領(Izchak Herzog)は、現在と比較してイスラエルの問題を次のように述べています。今年のヨム・キプルは9月25日(日)、26日(月)の両日でした。
「(50年前に‐筆者注)支払った代償が、再び、耐え忍び難くなるかもしれない。われわれは、再び、試練に立たされている。あたかも、そこから何も学ばなかったように。」とイスラエルの現状に言及しながら、現在と当時の違いを見比べながらさらに続けます。
「唯一の違いは、脅威が(イスラエルの‐筆者注)外部からではなく、内部からもたらせれていることにある。」
1973年10月6日に始まり19日間続いたヨム・キプル戦争では、2600人以上のイスラエル兵士が死亡し、7000人以上の市民が負傷しています。
ここでイスラエル‐アラブ6日間戦争後のイスラエル国家の安全・防衛体制の責任を問われ、当時の首相(Golda Meir)と国防大臣(Mosche Dajan)が責任を問われ辞任しました。
この時の教訓は、はたして政治、社会の中で真摯に受け止められてきたのかというのが、50周年に当たっての式典で大統領の訴えたかった本旨だろうと理解できます。
10月7日ハマス軍事攻撃直前のことです。
次に来たるものを知ることなく10月6日、金曜日、わたしたちはいつものようにユダヤの友人に「Shabbat Shalom」(平和なユダヤの休日を!くらいの意)のメッセージを送りました。友人からは「Jom Kippur」の返答が返されてきました。
ハマスのイスラエル軍事攻撃を見る前に、「(イスラエル)内部の」と表現される意味を考えてみます。
昨年の夏のことです。イスラエル滞在中の友人から「是非、テル・アビブに来るように」と招待され、私は仕事で行けなかったのですが、連れ合いが彼を訪ねて、一週間家族、その周りの友人・知人たちと貴重な、そして楽しい時間を過ごしてきました。
その時の連れ合いの話です。友人の娘さんと彼女のボーイ・フレンドを交えての討論で私の興味をひいたのは、この20歳代後半、30年歳代前半の若い世代の考え方です。この年代の人たちと接する機会が少ないですから、何を考えているのか、何を希望しているのか知りたく思ってきましたから、実に新鮮な、しかしシビアな印象が伝えれれてきました。以下箇条書きしておきます。
・ドイツに来ることはないのかと聞かれて娘さんは、「電車に乗ることが怖いから、行きたくない」と。市内、交通機関での反ユダヤ主義による暴行、襲撃への不安を間接的に語っているのです。ここには、ドイツ(国内)とイスラエル(国外)での、ユダヤ問題の歴史的な取り組みに関しての受け取り方の差異が顕著に現われています。
・中東‐パレスチナ問題というのは、イスラエルの「国内問題」であり、社会が分裂・対立 している限り中東の平和は考えられないと、単なる問題の指摘だけではなく、現実的で実践的な視点が聞かされたことに、わたしたちは目を見開かされました。
司法制度改正から、極右派的ユダヤ・オーソドックス派の台頭が単に政治勢力としてのみならず、政権をも掌握してくる勢いの中で、それに対抗する司法の独立、男女同権、性の多様性、そして表現の自由をめぐる民主主義闘争が取り組まれ、国内は完全に二分してきました。そこに、むしろ将来への不安を持っていることが二人の話から伝わってきます。
・イスラエルの市民は、特にパレスチナ市民に関して、「何を、どの程度まで知っているのか」と自問し、自分たちの周辺環境を振り返ります。余りにも知らなさすぎるというのです。そのためには、アラビア語を勉強する必要がると。
その時の友人に囲まれた二人の晴れやかな写真を見ながら、これを書いています。
しかし、現在、二人は予備兵緊急動員(30万人といわれます)で戦争に駆り出されることになりました。「(二人に)戦争などできない」と友人は書いてきました。
10月7日土曜日、夕方、一日の予定を終えて家に帰ってきたらハマスのイスラエル攻撃で報道は騒然としていました。確かな判断ができないほどの情報の量です。次から次へと新たな情報が飛び込んできます。一度は考えてみて、そしてまた考え直すということの繰り返しです。思考が揺れ動き、自分への不信が募ります。言葉が重くなります。
ここで何をどう考え、どうこれからの先を見据えたらいいのかの〈コンパス〉が必要になってきます。結論を早急に導くことよりは、現実に目を向け〈批判的な疑問を投げかける〉ことが問われているように思われます。
TVニュース、報道特集の動画には、ハマス部隊がミューシック・フェスティバル会場に突如侵入し、参加者に襲い掛かり暴行を加え、虐殺し、更に人質に取り連行する姿が映し出されています。また、キブツの家屋一軒一軒を襲撃し、根こそぎ人を見つけ出し一人ひとりに暴行を加え、同じく虐殺し、住民を人質に取りました。現時点で人質の数150名と伝えられています。加えて人質にされた人たちへの屈辱的な蛮行が行われました。
これを書いている10月16日の段階で、ハマス攻撃によるイスラエルの死亡者数は少なくとも1200名、その大部分は市民で、負傷者数は2700名以上に上ると報道されています。他方パレスチナ側の資料はありません。
この状況は子ども、青年少女、女性、年配者への無差別な殺戮で、まぎれもなく〈無防備な住人、市民に対する集団虐殺でありテロ行為〉そのものでした。
一つの疑問は、なぜ、ガザ地区との国境が無防備になっていたのかという点です。この問題を考えるときに、過去数年来のイスラエル―パレスチナ紛争の経過に目が向かいます。
個人的に制限された範囲になりますが、際立っていたのはヨルダン川西岸地区へのユダヤ人の移住・入植問題でした。数十年来住んで生活を営んできたパレスチナ住民の家屋をブルトーザで解体・撤去し、飼育してきた食料用家畜の草地を整地して、その跡にオーソドックス派住民の住居地が建設されてきました。その傾向は年々強まるばかりで、ここのでの紛争に警備および抗議行動鎮圧に治安の重点が置かれていたように思われることです。
この時、イスラエル軍兵士としてヘブロンの警備に当たっていたメンバーが、入植の現状をつぶさに見て状況を報告した分厚い本が出版されました。手元にある本の出版日を見ると、2012年となっています。
本のタイトルは、『Breaking the Silence』――沈黙を破って現状を知らせなければならない!という切羽詰まった自己の責任を咎められた個人の思いが、このタイトルには込められているだろうと思います。
その一方で、東エルサレムではイスラム教の聖地となる「岩のドーム」がある「神殿の丘」への極右オーソドックス派の聖地奪回を目指した攻撃が日増しに強まってきていました。それを扇動したメンバー(過激なシオニズムと人種主義)が、現在のネタニヤフ右派ナショナリスト政権の一端を担うことになりました。
次の疑問は、なぜ、初動の緊急動員が遅れたのかという点です。
エルサレムからレバノン国境まで行った時の体験を顧みて、この問題を考えてみます。電車による移動でしたから、各停車駅では乗客が入れ替わります。ほぼ満員の車両に、迷彩服を着て自動小銃(と思うのですが?)を肩にかけた兵士が乗り降りします。その兵士の顔つき、体形から分かるように、まだ20歳前後のあどけない顔の青少年・少女たちです。イスラエルの徴兵期間は、女性が24か月、男性が30ヶ月ですから、勤務中あるいは勤務明けでの移動であったのでしょう。座席に腰かけていた私たちの周りに彼(女)たちが立ち並び、あるいはまた向かいの座席に座れば、武器が私たちの身体に接触することがあります。私の顔がこわばりました。各駅々でも、乗り降りする乗客をチェックする兵士の姿を見かけました。
国防、治安体制、テロ対策は、このように市民の日常に取り込まれ、緊急体制が敷かれているのだなと考えていました。
通常生活では状況の変化に対応した(部隊)編成が可能です。しかし、ユダヤ休日〈Shabbat〉に入った時に、交通機関、社会インフラが完全に停止した状況で、どんな可能性があるのかという疑問が出てきます。それが、10月7日早朝からの集団虐殺、テロ行動への初動の緊急移動と動員に遅れをとった一つの重要な原因ではないかと思えてならないのです。
イスラエルのみならず宗教(儀式・規律)と世俗生活という関係性の中で、現実をどう直視していくのかという問題が今後問われ、現政権への重要な批判ポイントになっていくはずです。
そして現在、その問題を棚上げするかのように対ハマス報復〈挙国一致体制〉がつくり上げられました。その危険性は、あとで検討することにします。
50年前にもそうだったように、報復攻撃の後で――それがどんな結末を引き起こすかは別にして、
首相と防衛大臣への辞任議論は避けられないだろうと思われます。
三つ目の疑問は、国内の政治分裂と手空きになった国境警備につながる要因とは何かという点です。
ハマス部隊は、あたかもどこかの民家の庭柵を破って他人の敷地に何の抵抗もなく突入するかのように、イスラエル地に侵入しました。そのTVニュースの動画を見ながら、〈世界で最も強力な国防・軍事力と秘密情報能力を備える〉といわれてきたイスラエル国家のイメージと現実のギャップに狼狽するばかりでした。
では、そこまでイスラエルの国防力、情報力が低下していたのかといえば、決してそうではないと思います。市民と政治が乖離してしまっていたことが、国防、警備の戦略配備を誤ってのではないかというのが、私の個人的な批判的疑問です。
そこで、イスラエルの最近の〈市民(社会)と政治〉とは一体何だったのかという点になります。
2017年10月、ウルトラ・オーソドックス派と表現される神学学校の男子学生へも徴兵義務を課すべきだとする議論が国会でなされ、最高裁判所で承認されました。
このグループがホロコーストの犠牲者になったユダヤ人の中でも多数であったことから、戦後、徴兵義務を免除され、ユダヤ教聖書(トーラーの名で知られています)の解読に生涯を費やし、正職には就かず、いってみれば国の生活保護で生計を立ててきました。
2021年10月、国家の財政難の中で速やかな就業を促進させるために就学上限年齢を従来の24歳から21歳まで下げる法案が提出され、17年の時と同様、それに反対するオーソドックス派の街頭での大きなデモと騒擾がありました。TVニュ-ス、新聞報道でも見ましたが、全員が男性で、黒スーツに黒ズボン、そして黒帽子、白シャツの装いですから、市民の目には異様に映ったに違いありません。
それを覆すには、国会での政権奪取と司法制度の改正が必要になります。最高裁判所の権限を制限し、国会決議をそれにとって代えることです。三権分立の民主主義原理が揺らぐことになります。
次に、この経過を〈司法制度改正〉に沿って検討してみます。
2018年7月ネタニヤフ政権が、イスラエルを「ユダヤ民の民族国家」と規定する法案を提出し、最高裁判所がそれを承認しました。それによって一方では、非ユダヤ系イスラエル市民――特にパレスチナ市民が〈二級市民〉に陥れられることになります。世界から要請されてきたイスラエル問題の「二国家間」解決への、右派ナショナリスト側からの対応であったように思うのですが、他方では、それによって過激派シオニスト、人種主義者、ナショナリスト、性差別主義者たちの跳躍に拍車をかけたことは間違いないように思われます。
そうした経過を受けて2022年12月末に、上記勢力を取り込んだ現在の右派ナショナリスト政権が成立し、連日、数万、数十万人を結集する市民の反対デモが半年以上も取り組まれた経過は、周知のとおりです。あらゆる階層、階級のイスラエル市民が〈民主主義擁護!〉を掲げて闘い抜きました。
問題になるのは、そこで取り上げられた〈司法制度改正〉の内実です。この意味するところは既に少しふれたところですが、具体的には以下のような諸点が考えられます。
・オーソドックス派男性を徴兵義務から解放すること
・公共生活領域での男女の性別分離―これはユダヤ教信者の祈りの地「嘆きの壁」に見られる宗教規律の市民生活への強要です
・次に来るのは、言論・表現の自由を拘束し、批判を封じ込め
・そのために裁判官等の民主主義手続きを無視した恣意的な解任と任命を可能にするこ
・その最後の締めくくりとして、報道・メディア機関への制限
このように「ユダヤ民の民族国家」と「司法制度改正」の二つから見えてくるのは、過激派シオニスト、人種主義者、ナショナリスト、性差別主義者たちによる国家権力奪取という政治動機です。
「信仰の自由」を保障するのではさらさらなく、宗教的な、また独自の信仰利害を実現するために国家権力を動員しようとするわけですから、「自分のグループ以外の人たち」を排除するしかありません。異なる意見、利害の共生・共有は不可能だからです。
では、現実的に国家の国防と警備、あるいは経済活動は誰が担当するのか?いうまでもなく「他の人たち」以外にはありません。この論理矛盾――それは社会の分裂と対立を意味し、この間のデモに決起した数万、数十万人のイスラエル市民が、こうして「民主主義防衛!」を掲げて闘い抜くことになりました。それはまた、国家と社会の統一を目指すものでした。
この一連の経過は、掲げられたアピールに見てとることができます。
1948年イスラエル建国の基本精神である「自由、平等、平和」に基づいて、すべてのイスラエル住民に、宗教、人種、性の区別なく完全な社会的政治的同権を保障することです。
2023年7月23日ネタニヤフ政権は、国会で司法制度改革の「基本法」を可決しました。最高裁判所の決定が確か9月28日に出る予定でしたが、延長されたのか、その後の新しい情報は入ってきていません。
次に、その上で議論されたのは、その時 パレスチナ問題がどう取り上げられていたのかという点です。イスラエル現地、そしてドイツのメディアで時折見聞しましたが、はっきりとした言説はなかったように思います。
あくまで私の個人的な推測による見解ですが、以下、二点指摘してみます。
1.イスラエル市民の民主化要求が、同時にパレスチナ市民の声を代表するという考え方です。にもかかわらず、相互の直接的な民主化実現の可能性がどこにあるのかは、課題についての現実的な取り組みの議論なしには深められないのではないかと思われるのです。民主化をめぐるイスラエルとパレスチナ双方の共通の認識がどこで形成されていくのかという、極めて実践的な方向性です。政治・社会的条件によって、同一テーマへの異なる認識が生まれてくるのは必然的な経過であるわけですから。
この点が友人の娘さんたちの若い世代が自問、格闘している問題意識だと思うのです。
2.パレスチナ問題はイスラエル市民が日常生活で実際に体験していこるとで、しかし、見解が分かれているはずです。民主化運動で、圧倒的な多数の階層、階級、それ故に意見・利害の異なる市民を結集するためには、パレスチナの具体的な問題――「入植・移住」問題を後景化させねばならなかったのだと思います。
デモに結集する人たち、各種の民主的組織の中には、こうしたジレンマが、間違いなくあっただろうと想像されます。
これ以上のことは、私からは言いかねますが、この半年間余り、そして、もう少し年月をさかのぼって、「ユダヤ民の民族国家」規定と「司法制度改正」のこれまでの経過は、以上の議題を深める最良の機会と時間であったと思うのですが、イスラエルへのハマス軍事攻撃、それを受けてのイスラエルの報復攻撃に向けた〈挙国一致体制〉が、その芽を刈り取ってしまったように思われます。
最後に、パレスチナ側の死傷者数が、地方紙HNA10月14日付の記事に見られます。保健省大臣の発表では、ガザ地区で、少なくとも死者1799名、負傷者7388名と報じられています。
イスラエルの報復攻撃によって、流血の中でイスラエル、パレスチナ双方の更なる死者、負傷者の出ることは明らかです。
それと同時に、中東をめぐる国際関係に大きな影響を与え、それが関連諸国を巻き込んだ軍事対立の更に拡大されたエスカレーションを呼び起こすのか、あるいは大量の流血と無数の屍の上に調停に向けた機会が生み出されるのかの分岐点になってくるでしょう。
ハマスのイスラエル攻撃は、この点を確実に計算に入れた軍事行動だったと思えるのですが、しかし何れにしろ、パレスチナ及びイスラエル市民に生命の犠牲を強いることになります。それが反転して、パレスチナ市民のハマスへの批判から、ハマスの政治的孤立化が強いられることになるのは、十分に考えられるところですから、それへの可能な対応が現在、模索されなければならないように思うのです。
〈報復攻撃〉は、その可能性をつぶし、パレスチナ市民のハマスへの依存を逆に強めることになりかねません。
では、ハマスの政治目的とは一体何だったのかという点です。
アラブ諸国の西側世界への接近は、資源・エネルギー戦略の転換を契機に早められてきました。その典型的な一つが、以前に書いたように2018年に見たフランス・マクロンによるルーブル博物館のアブ・ダビ開設と、アブ・ダビ側からの「宗教対話」でした。従来の宗教、政治対立の枠内で閉塞状態に陥った双方が、win‐win関係を築き上げながら打開策を模索していく過程です。
イスラエルを中心にここ一年間を振り返れば、モロッコ―サウジ―アラブ首長国連邦が、イスラエルとのツーリズム、軍事援助、そして情報交換等で、言ってみれば〈和解〉が始まっていました。ユダヤ市民がアラブ旅行をして、初めて知るアラブの観光地に感動し、楽しんでいるニュースが報道されたりもしていました。
この南の政治戦線は、しかしイスラム・スンニ派の流れで、他方ハマスにつながるレバノン(ヒスボラ)―シリア―イラク―イラン、それにロシアが加わりますが、この北の政治戦線はシーア派であることから、イスラエルがアラブ・スンニ派と協調していくことにハマスは危機感を持っていたはずです。
そこで、ハマスの存在位置を示し、軍事対立に入った時に二つの戦線を明確にさせながら、尚且つイスラエルの報復が激化した時は、スンニ派といえどアラブをもイスラム主義で自分の陣営に取り込むという打算が生まれても何ら不思議ではないと思うのです。
事実関係はこうですが、その内実となればここでも同じ繰り返しになりますが、自己の政治存在と実権を示すために他者を紛争と軍事対立に引き入れ、流血と生命の犠牲を強制することになります。
それが宗教といわず、ある一つの思想を、あるいは世界観を信じる尺度だといわれれば、あまりにも人間の生命を軽視することになりはしないか?
90年代の初めに旧共産主義諸国つづいてアラブ諸国、中東地域を見てまわりながら感じた思いが、わたしのこれまでの問題意識になっています。
他宗教を認められない宗教とは何か?
「宗教」を思想と置き換えてもいいと思いますが、この観点から今回のハマス・イスラエル軍事対立を考えていこうと思い、これを書きました。 (つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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