カッセル市民賞‐「理性のグラス」の授賞式が行われた10月8日(土)
10月8日(土)は、カッセル市民賞‐「理性のグラス」の授賞式が行われた日です。今年は、ARD(ドイツ公共第一放送局)の女性ジャーナリスト(Natalie Amiri)が選ばれました。
是が非でもライブで見てみたいと思いあちこちに手をまわし出席の可能性を探していたら、地方紙に「45席が、まだ空いている」と報じられていたのを目にし、先着順の入場チケットを手に入れるために早めに家を出て、45分近くも前に行列に並ぶことになりました。先頭には5人が並んでいただけで、安堵したものです。
前日7日のハマスによるイスラエル市民への集団虐殺・テロの行われた直後ですから、彼女がどんな発言をするか興味がありました。
それと同時に、ナタリー・アミリはイラン人の父とドイツ人の母を持ち、2011年以降、ARD海外特派員としてイスタンブール、アテネ、ローマからの報道を担当し、2015年からはテヘランのARDスタジオを牽引していくことになります。また2014年からは、私たちもよく見ている海外報道番組――「Weltspiegel」のモデレーターを務めています。
2020年にはドイツ外務省から〈安全性を理由にイランへの入国を控えるように〉との警報が出され、それに伴ってテヘランのARDスタジオは閉鎖され、彼女もドイツに帰国することになりました。
学生時代に彼女はテヘラン、ダマスカスに留学していますから、ドイツではイスラム諸国に最も詳しいジャーナリストの一人と評されています。それは単に言語――8か国語に堪能というだけではなく、それによって市民の日常生活、意見、社会・文化状況の底辺まで深く踏み込んで報道できる貴重な存在と言われてきました。市民の生の声を反映することができるのです。
それ故に、イラン滞在中は革命防衛委員会、諜報員等から報道活動へのありとあらゆる脅迫と妨害を受けることになり、このへんの事情を書いた本-『Zwischen den Welten』(注)が2021年に出版されベストセラーになり、そして2022年に第二版が出版されたという経過があります。
いうまでもなくこの年は、女性を先頭とする「イラン革命」が新しい社会への希望と方向性を与えてくれた年です。それから、ちょうど一年が過ぎました。
(注)タイトルを『さまざまな世界の狭間で』と訳しておきます。
実は、この2か月近くこの本を何回も読み返し、イスラエルの民主化闘争がハマスによるイスラエル市民へのテロ攻勢以降どこからも聞かれなくなり、また報道されることもなくなったなかで、他方では、イスラエル軍によるガザ地区へのロケット弾、地上戦による子ども、老人、病人・患者、そして男女区別なく一般市民の負傷・殺戮の現状が連日伝えられてきます。
それ故に、ナタリー・アミリが何を言うか、特別の興味がありました。
会場のオペラ・ハウスは満席になっています。あたりを見渡し、イラン市民が参加しているか確認してみますが、わずか数人が散見されるだけでした。
独裁国の文化、展示会が開かれても、当該国のドイツ在住市民の参加がほとんど見られないのは、諜報員による――往々にして大使館員、あるいは市民、学生を装い監視の目が網羅されているからで、ドイツ在住外国籍市民が自国に帰国すれば、何らかの威圧や社会的不利益、政治弾圧を覚悟しなければならないからです。
そうした事実を私たちの周辺では、これまでイランは言うまでもなく中国、タイ、ベトナムからの友人に見ることができました。個人的にはある程度の話しはできても、公共の場ではなおさらオープンで、自由な会話が難しくなる理由です。
セレモニーは、まずイラン出身ベルリン在住の女性ミュージシャンとバンドの演奏から始まり、続いてクルド系イラン人女性――人権擁護活動家の賛辞スピーチがあります。
その後、ナタリー・アミリがお礼の辞を述べるという式順で、イラン女性で固められた式典になりました。「イラン革命」の息吹が伝えられてきます。
彼女が着ている長コートは緑、赤、黄、青等カラフルな柄で、あたかもイランの黒づくめの宗教指導者、何よりもイスラムの服装規則に対抗しているかのようです。
「一色」の世界のなかで連帯を生み出す〈叫び〉
1990年代の初めにイラン人と知りあい、イラン入国には現地住民の招待状が必要といわれ、その入国手続きを手伝ってもらった当時、社会ではイスラム共和国への関心が高まってきていました。アメリカの女性ジャーナリストは、イランの町の様子を「ベルリンの壁」と対比し「黒い壁」と評したほどに、特にモスクの金曜日ミサでは黒い服装で身をまとった女性、宗教指導者であふれかえります。
この社会の色という点では、旧ソ連圏では「灰色」のイメージが私にはあります。いずれにしろ〈一色〉なのです。 そこでは、部外者が社会に歓迎されることはなく、冷たく突き放され、除外されていると感じるしかないのです。
はたして、いろいろな色の交わる可能性があるのか、どうか? あるとすれば、どこでか?――これが長年、私の問題意識になっていました。
現在の難民問題でも、同じことが問われていると思われてなりません。
「不安はいらない、不安はいらない」とペルシャ語で静かに話し始めます。イランの女性はこのように街のなかで、そして通りで叫びながら、自分自身を励まし「勇気」を駆り立てたといいます。その〈叫び〉が、実は大きな連帯を生み出した原動力だと、ナタリー・アミリは語気を強めます。
イランでは、街頭でデモをすること自体が〈死〉を意味します。その恐怖と精神的抑圧を破るためには、叫ばざるをえなかったのです。個人の不安が最高潮にまで達するでしょう。しかし、その時〈叫ぶ〉ことによって勇気が与えられ、1人ではなく2人、3人……と声を上げれば大きな潮流ができます。これが連帯を可能にした、と言いたいのです。
宗教指導者の下でつくり上げられてきた統制、監視、抑圧、虐殺体制によって窒息させられたイラン社会に、こうして新鮮な風が吹き抜け、黴臭い空気が洗浄されていくことになりました。
水を得た魚のように人は生き返ります。各自の自由な活動が可能になります。
ここに、昨年の大きなデモの本質があったでしょう。
なぜか?
闘争によって〈人権〉という武器を手に入れたからです。服装、性関係、文化等、他人から指図を受けるのではなく、自分自身の意志で判断する権利が各個人にはあることを知り、それによって社会の多様な価値関係を可能にさせるからです。
以上を統計で見ると以下のようになります。
全大学生の65-67%(資料によって違いがあります)が女性で、卒業後はそのうち高々20%が仕事に就ているだけだといわれます。高等教育を受けた女性たちの労働分野がどこか詳しい資料はありませんが、しかし、重要なポジションを占めていることはイラン現地で見聞しています。
他方で女性の価値は――こういう表現を使いますが、男性の半分にしかすぎません。例えば、法廷での証言価値は男性の半分ですから、離婚訴訟になると、もう1人付き添い女性の同席が必要になります。また離婚、親権に関しては、女性にはまったく決定権がありません。旅行をするにしても男性(パートナーあるいは父親)の許可なしには不可能です。
一言でいえば、女性の社会的かつ政治的平等権が、システムとして奪われていることになります。
こうした男権社会のなかで女性の存在、女性の役割、そして女性の権利を問い返すことになります。それはシステムとの闘争に行きつかざるをえません。
そこから「独裁者の死を!」(Tod der Diktatur!)、また「女性は自由(のため)に生きる」(Frau Leben Freiheit!)のスローガンとシュプレヒコールとなり、イラン全土で、全市民から〈叫ばれ〉ました。
ナタリー・アミリは、同書の中で、
イランには女性の権利は、「与えられるのではなく、闘いとるものだ」という言い伝えがある。
それをイランの女性は、日常生活で、自分の体で体験している。
と、書いています。
ここで話しは少し横道にそれますが、〈女性の権利〉に関して、同様に明解な説明を受ける機会がありました。
11月18日(土)、ドイツの1920-30年代を歴史背景とした『バビロン』というオペラを観劇したときのことです。舞台上では歌劇が演じられ、左右、正面の大スクリーンに映し出される1920年代ベルリンの記録フィルムには女性たちの活気あるライフ・スタイルと新しい労働生活が映し出され、女性の権利が確立されていく現状が、理屈ではなくリアルに伝えられました。
それを劇場側からは、
女性は戦争中、仕事をしながら自分の手一つで子供を育て、そして家庭生活を守ってきた。
戦後、それを手放したくなかった。
と解説がなされました。
戦後、戦地から帰ってきた目的を失くし、意気消沈した男性との社会面、心理面での大きなギャップが生じることになり、夫婦-家庭関係の抜き差しならない紛争要因に転化していった経過は、映画や小説でも繰り返し書かれ、描かれてきたところです。
1919年のワイマール共和国で女性の権利と選挙権が憲法で認められたのは、単なる政治からの賜りものではなく、自己の生存と意思を貫き通そうとする女性の闘争の戦果だったことが認められます。 当時の政治と文化、何よりもワイマール憲法には女性の闘争が血肉化されているといえるのです。それによって社会がダイナミックかつ百花繚乱に、しかし他面でデカダンスに跳躍していくことになりました。
1978-79年、パーレビ独裁政権打倒からイスラム共和主義国建設以降強められてきた弾圧制度――絞首刑、虐殺、投獄の脅しは、最早、無意味になりました。効を奏さないどころか、逆に、独裁政権の土台が足元から揺らぎ、政権エリートが〈断末期の不安〉を抱かされることになります。
世界を席巻した68年革命といえど、その直前にはフランスでもドイツでも、女性が自分の銀行口座を開設したり、家庭を離れて仕事につくためには男性パートナーの許可が必要だった状況を考えれば、時間はそんなに遠く離れていないのです。(注)
(注)フランクフルトで開催された「68年革命」展示より
西側世界がイスラム圏の女性を見る目は、しかしこの同等の視線からではなく、「解放された者」からの目線で、ヒジャプ(頭のスカーフ)を「犠牲」のシンボルと捉える傾向がいまだに強いことです。犠牲者ではなく、不公正、不正な制約、規制、政治制度と闘っている女性の存在意義を訴えているのが、今回の革命であっただろうと私は理解しています。
確かにファナティックなイスラム主義者のいることも事実で、彼(女)たちが「黒い壁」を築くことになります。「ベルリンの壁」もそうでしたが、一人ひとりが壁にグラフィティーを描き、壁を彫り刻み、そうして壁に光と風を貫通させたように、「黒い壁」にも多彩な色が混じり、そのあとには自然色豊かな草原が広がるはずです。
スローガンになった「女性は自由に生きる!」は、実際にはクルド言語(注1)で叫ばれたといいます。イラン中央政府に対するクルド派少数民族の伝統的な自由解放闘争、女権運動がイラン市民の中にも深い影響を与えていることを物語っています。
事実、2022年9月13日に風俗取締警察官に逮捕され、暴行を受け16日に死亡した22歳の女性(Jina Mahsa Amini )は、北西イランのクルド地域出身です。全イラン市民に占めるクルド派市民の割合は10%、他方、イラン市民の単に30%がシーア派ムスリムを自認しているだけという世論調査結果(注2)もだされていますから、クルド系少数派民族への監視、統制は年々強められ、その結果が服装規律違反を口実とした暴力による死を結果させる弾圧を導いたのだと考えられます。
たかが服装の一部、頭のスカーフではないことは、宗教最高指導者にとってみれば、頭部を解放することは「裸(体)」を意味していることから明らかです。(注3)
女性にすれば、〈自分の体は自分のもの、自分たちで決める!〉闘争になってきます。宗教師の黴臭いお前らにあれこれ指図されるいわれはない、と爽やかに言い放っているように理解されるのです。
目を見張らされるのは、年齢11歳くらいですから小学生・中学生のデモ、抗議行動への多数の 参加があることです。後に、彼女たちが毒薬らしきものを撒かれ、あるいは襲撃を受け病院に運び込まれるニュースが伝えられていました。
これまでシリア、ロシアでも同じような事件が国内外で起きています。
イラン-シリア-ロシアに連なる枢軸は、一言でいえば中央独裁政権、軍隊、警察そして諜報部の暗躍による人民殺戮、テロ、威嚇の世界と言い含めることができるでしょう。
その真っ只中での闘争です。それ故に正確な犠牲者の数はつかみきれません。2022年12月未段階で、1万8千人が逮捕・拘束、500人以上のデモ参加者が虐殺され、さらに少なくとも26人が絞首刑の脅威にさらされているといいます。(注4)
手元に資料が見つかりませんが、記憶では6人か7人だったと思いますが、すでに見世物として公開で絞首刑を執行されています。
(注1)「Dschin! Dschijan! Asadi!」
Der Spiegel Nr.43/22.10.2022 Der Ruf nach Freiheit
(注2)Frankfurter Rundschau Mittwoch,28.September 2022
Proteste im Iran?Es geht nicht nur ums Kopftuch. Ein Essay von Natalie Amiri
(注3)同上(注1)
(注4)Frankfurter Rundschau Freitag, 23.Dezember 2022
Proteste Stimmen aus dem Iran von Sereina Donatsch
にもかかわらず、〈なぜ、彼(女)たちは声を出して闘うのか〉――これをナタリー・アミリは、静かな声で語ってくれたように思えるのです。
報道では数万人の逮捕者がエヴィン(Evin)監獄に拘留されているといわれます。暴力・拷問・テロ支配で知られる悪名高い監獄です。監房は「死への待合室」とも称されていますが、国の最も聡明な頭脳――インテリ、ジャーナリスト、文化人、弁護士、環境保護活動家そして学生たちは「エヴィン大学」と逆手にとって意気を上げているといいます。
「今日は、ジナ(Jina) ―明日は、われわれだ」
「もし、われわれが何もしなければ、明日は、われわれの誰もが虐殺される!」
しかし、ここまでの長い道のりを忘れることはできません。簡略してみます。
・1999年、政治改革を求める機運が高まる中で新聞「Salam(平和)」への言論弾圧に抗議し、表現の自由と学問の自由を同時に要求した学生運動。
・2009年、大統領選挙の不正操作に反対する、100万人が参加したといわれる「Green Wave」反政府運動。
・2017-19年、インフレ――特にガソリン等生活資料の値上げに反対する大規模な大衆運動。
学生運動から始まり、次に都市部の市民中間層をとらえ、さらに農村部・地方の貧困・低所得層にまで拡大していく大きな全国的な反政府運動の軌跡が読み取れます。
逆に見れば、司法、メディア、そして経済が宗教指導者とその徒党一味の手に完全に掌握され、特に産業の約70%がこの一派に握られている(注)イランの現実が暴露されました。西側の経済制裁のにもかかわらず、私腹を肥やしてきたのがこのグループであったといわれる根拠がここにあります。
(注)『Zwischen den Welten』
そして今回の女性たちの決起です。イスラム戒律による性別分離――性差別と分断に対抗し、こうして男性が女性に連帯し、あらゆる年齢層を結集することができました。現在の若い世代は「革命の子ども」と表現されます。1979年の革命世代が、自由で解放的な民主主義社会を希求しながら、結果的にイスラム主義を生み出したことへの痛苦な自責の念にとらわれ、その子どもたちが親の代の革命を引き継ぐことになったからです。
今回のハマスによる攻撃を彼女はどう発言するか…
イランの政治動向は同様な政治構造にある中近東諸国に直結するところから、ここで地域の安全保障が重要なテーマになってきます。
この点で、ハマスのイスラエル軍事・テロ攻撃に関してナタリー・アミリがどう発言するかが、私の個人的な2つ目の関心事でした。
1959年から1979年までのイラン-イスラエル関係は、短期戦略とはいえパートナー関係にあり、イスラエルはイランからの石油――地下資源エネルギーを基に産業と軍事を強化する一方、他方イランはイスラエルからあらゆる可能な生活資料を手に入れることで社会要求を満たすことができました。しかし、1979年イラン革命からイスラム共和主義国建設によって、今日までの抜き差しならない敵対関係が続くことになります。
紛争がいつ勃発し、エスカレーションしていくかもわからない一即触発の緊張した相互関係にありながら、両国市民の多数はそれを望まず、しかし政治(家)には別の利害関係から、逆にそれを扇動することになります。
以上の具体的な経過を、2つの側面から振り返ってみます。
2012年、軍事対立の緊張が高まった当時、イスラエル市民が「Israel loves Iran」のスローガンでフェースブック・キャンペーン運動を立ち上げます。
この背景には、2005年大統領に就任した超保守派を代表するアフマディネジャドがテヘランで開催した2006年の「ホロコースト会議」があります。そこで彼は、「イスラエルは地図から消滅させられなければならない」とイラン・イスラム共和国原則を公言し、世界および中東の安全保障体制に衝撃を与えたのは、まだ記憶に新しいところです。(注)
それによってイラン革命防衛軍(Pasdaran)のなかでもエリート部隊(Quds- Brigad)によるシリア-レバノン(ヒスボラ派)-パレスチナ(ハマス派)-イエメン(フーシ派)等への軍事援助とシーア派イスラム圏の拡大が図られます。
(注)『Zwischen den Welten』
受賞式当日は、まだハマスのイスラエル軍事攻撃の全貌が明らかになっていなかったこともあるからだと想像しますが、ナタリー・アミリからはその評価に関しての直截的な発言はなかったものの、イランの周辺各国、特にレバノンへの軍事・テロ援助と介入による戦争扇動と、それがもたらす女性、子どもそして一般市民への人権抑圧、政治弾圧、そして虐殺の現実に目を向け、そこから各自が何を、どうするかの「コンパス」を見つけなければならないことを強調していました。私が使用している「コンパス」という用語は、実は彼女から拝借したものです。
イランを宗教指導国とするシーア派イスラム圏とハマスの関係に関して興味深いのは、パレスチナ市民の多数はスンニ派で、2011年スンニ派のシリア市民がアサド独裁政権打倒に向けて決起したとき、いわゆるシリアの「アラブの春」でハマスは反政府派を支援し、またイランに対抗しています。イランはこのとき、数万人の民兵部隊をイラク、レバノン、アフガニスタンからシリアに派遣し、反政府運動を闘うシリア市民からアサド政権を防衛しようとしました。
しかも、ヒスボラを通してハマスに軍事援助された武器が反政府派の手にわたっている現状を目にしたヒスボラは、ハマスに裏切られた現実を見せつけられました。
しかし、反イスラエル――「イスラエルの地図からの消滅」という一点で前線は組めることになります。(注)
(注)Der Spiegel Nr. 45/4.11.2023
ここで一つの疑問が投げかけられます。
パレスチナにそれ程心を寄せるイランに、はたして何人のパレスチナ市民が(難民として)受け入れられているのか? また、受け入れる準備と体制があるのか?とナタリー・アミリからインタヴューで聞かれたたイラン革命指導部は、何ら答えることができなかったのは当然のことです。(注)
(注)『Zwischen den Welten』
イランに代わりパレスチナ難民を受け入れ援助しているレバノンとヨルダンの状況は、数年前に現地で説明を受け、見ることができました。
どのようなもっともらしい表現が使われようと、一般市民が一部の特権階級、エリート、聖職者の〈人質〉にされている政治構造がそこには見られるはずです。自己の利害のために、他者のすべての権利と生存条件が奪われていくといえるでしょう。
では、この「神聖喜劇」というか、市民にとっての「神聖悲劇」のヴェールが剥ぎ取られる可能性は、一体どこにあるのか?
その下で生活する人々の声に耳を傾け、目を向けることに各自の〈コンパス〉を定めていくべきだろうと考えています。人権、生存権、(社会・政治的)公正、そして(表現の)自由のために声を上げて〈叫び〉、奪還しなければならないのです。
・ロシアでは、緊急動員された子どもたちの母親から、「自分の子どもには動員休暇が与えられていないのに、懲役中にいわば恩赦を受けて動員された者には、半年後の休暇が与えられている」と疑問を問いただされたプーチンは、言葉に窮し返答できなかったといいます(新聞か週刊雑誌の記事で読みましたが、手元に資料が見つかりません。記憶からです)。
・イスラエルでは、ハマスの人質に今なお囚われている市民の家族が、イスラエル軍によるパレスチナ地上戦と爆撃戦のエスカレーション――人民の無差別、集団虐殺に直面しながら、戦争の一時休止あるいは停戦を求める声が多数を占めるようになってきたと、TVニュース、新聞紙で伝えられています。
・イスラエルのユダヤとアラブの若い世代が、相互に止まることを知らない〈憎悪感情〉の高揚に対抗して「Standing Together」という名称の草の根運動を立ち上げました。状況が状況だけに「難しい」といいますが、徐々に、参加者数を増やしてきているといいます。(Frankfurter Rundschau 13.Dezember 2023)
・受賞式典当日、今年のノーベル平和賞がイランの人権派女性弁護士(Narges Mohammadi)に決定されたという一報が入りました。
彼女はこれまで13回逮捕―拘留され、全部で31年の懲役と154回の「鞭打ち刑」の判決を受けています。現在、懲役中でスカーフ着用を拒否し、それが理由で医者の診察治療を当局から拒否されているといいます。
以上ですが、日々気が滅入るようなニュースの洪水のなかで、どこか心の温まる新鮮な情報も入ってきます。これが私にとっての唯一のエネルギーとなっています。ここからだ!と思っています。 (つづく)
*「2023年10月7~8日の週末(その1)」はhttps://chikyuza.net/archives/130526(原発通信第2262号2023年10月16日付)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13449:231222〕