1月20日‐21日の週末から始まったドイツ全国での「反AfD、反ファシズム」デモと集会は、2か月後の現在も休みなく毎週続けられています。その数、数千数万人規模になり、2月10-11日付FR紙上にその地域を集計した一覧表が掲載されているので、ここにコピーしておきました(下記)。
それが今後、ウクライナ戦争、ガザ-パレスチナ戦争との関連でどのような発展を見せるのか、重要な課題を投げかけているように思われますが、一つひとつの事実関係の中から方向性を見つめていきたいと考えています。
ドイツ全国での「反AfD、反ファシズム」デモと集会2023年11月25日の極右派・ファシスト勢力による「Remigration(外国人追放)」をテーマにした「ポツダム会議」の内部事情が暴露された直後から取り組まれてきている「反AfD、反ファシズム」デモですが、それが明らかにされる直前の12月末から1月初めにかけて、すでに農民・農業者の全国的なデモと集会が計画され、それはドイツだけではなく、ヨーロッパ全域に広がる兆候を示していました。
オランダでは、既報した通り2023年3月15日の地方選挙でBBB「農民・市民運動」が得票率20%弱を獲得し、2010年以来続いてきた保守派リベラルといわれる長期政権(首相Mark Rutte)を揺るがし、事実、同年11月22日に行われた国会選挙で極右派ポピュリストが第一党の地位を占め、これが最終的に首相ルッテの退陣を決定づけました。
ここでのテーマは、・農業‐農村の貧困化、・住居事情の緊迫化、・気象‐環境保護規制、・難民政策が指摘されます。
同様の傾向はイタリアを筆頭に、戦後の社会福祉国家の模範と言われてきたスウェーデン、フィンランドの社会民主主義政権でも見られ、さらに「変革の希望」と支持を集め、コロナ危機を市民との連帯で乗り切ってきたニュージーランドの労働党政権(首相Jacinda Ardern)も敗退し、その後に極右派、ポピュリスト、右派保守党による連立が成立することになりました。
ここで再度、2018年-19年フランスでの「黄色ベスト」運動を振り返ることにします。なぜなら、なぜ自発的な市民・農民の大衆的な政治運動が、最終的に(極)右派ポピュリストの手中に落ちるのかという問題を考えるときの一つの教訓を引き出せると思われるからです。
以下、「黄色ベスト」運動の長い経過と現在の課題が総合的によく整理された新聞記事(注)を参考にしながら、自分なりに整理してみます。
(注)Frankfurter Rundschau Freitag,17.Novenber
Warten auf den Funken Eine Bilanz von Stefen Braendle
運動の起こりは、フランス大統領マクロンが「環境税」を導入したことが農民の決起を呼び起こし、それに全フランス市民の84%が連帯したことから始まります。
環境税の意味は、ディーゼル1リッター当たり7セント、ガソリンを3%値上げし、そこから得られる税収入を自然環境保護に還元するというものです。しかし、農業で必要なエネルギー量で換算すれば、農民への莫大な財政負担になってきます。農業は自然の中で営まれるもので、農民が財政困難に陥り、農業経営が崩壊し、農家が倒産すれば、一体誰が食糧確保を保障するのかと訴え、同じく農業の経営破壊を導く自然環境保護とは何かを問うことになりました。それによって、今まで一度も政治デモに参加したことのなかった農民と、インフレ、物価高、住居難に見舞われる都市部市民の連帯が実現します。これが経済的な背景とすれば、他方で政治決定に関する政府への反発です。農民‐農業の現実を把握することのない、そして農民の要求を無視する政府・マクロンの独断が、長年蓄積されてきた農村部の怒りを解き放ち、2018年11月17日にはその数30万人が結集することになりました。
当初のデモや抗議行動には、それまで体験したことのない新鮮さと広がりが感じられ、フランス全土を静かに飲み込んでいくような迫力に圧倒されたものです。こうして、毎週数十万人の組織化を可能にしました。
マクロンと政府は強硬姿勢です。運動の広がりと同時に農民の要求は社会的性格を示し始め、その中には・最低賃金の上昇、・減税、・国民投票権の導入などが並びます。12月、首相(Philippe)は環境税を取り下げますが、遅きに失したことです。
次の段階は、そこに左右からの政党議論が介入してきます。主導権をとったのは極右派(Le Pen)と左派戦線(Melenchon)の二人です。議論が過熱するにしたがって抗議行動もラディカル化していきます。「黄色ベスト」運動の基本原則は、〈暴力を拒否〉することでしたから運動内部に亀裂が生じ、この頃から街頭暴力のエスカレーションから身を引き、戦線を離れて家に引き返す人たちの数が増えてくる一方、戦線が左右へのポピュリズム化傾向を示し始めた言われました。全体像が見えなくなってきたことにより、運動が社会の目から遠のいていったように思われるのです。
この一瞬をとらえてマクロンが、「国民大討論」を呼びかけノルマンジーの一村からはじめることになります。場所が象徴的で、そこまでマクロンが追いつめられ危機感を持っていた事実を逆に象徴するかのようですが、「市民契約」を取り決め、7時間ノン・ストップで市民からの提案と要求を「フィルターを通さなく」聞き入れました。
「黄色ベスト」のその後の方向性は? 運動内で発言力を持っていたメンバーが極右派、左派ポピュリスト、中には謀略論グループに分かれていったことにより、組織と運動は衰退していったと判断できるのですが、同じく別のグループに私の関心が向かいます。
2019年5月のEU議会選挙に、3人のメンバーが「黄色ベスト」リストを組織し立候補することになりました。結果は、0,5%の得票率に終わっています。実は、この点に現在の農民デモを考えるときの重要なテーマと課題があると思われ、ここまで闘争経過を書き連ねてきました。
当初全フランス市民84%の支持を得ていた「黄色ベスト」運動が、EU選挙で高々0.5%しか獲得できなかった原因とは何か、それと極右派、左派ポピュリズム、加えて謀略論にまで流れていく経過との間にどのような関係性が成り立つのかという問題意識です。
闘争が高揚するにしたがって社会の耳目が集まります。意見と要求を聞くためにTV等の公開の議論が求められてきます。この時、「黄色ベスト」は間違いなく未経験さを見せつけられたと想像できるのです。と書けば未経験さを批判しているように聞こえますが、そうではなく、むしろ自己の未経験さを武器にすべきだったと思われてならないのです。
われわれが日常体験するように公開の、特に政治議論となれば、メディア関係者、政治家、専門家、知識人等々、話し説得すことの巧みな人たちが議論を領導することになります。しかし往々にして、議論によってテーマを多面から理解し深めるためにではなく、自己の正当性を強調し、論争相手を貶めるためのものであることが見透かされてきます。そこで、いってみれば古強者の論者から集中砲火を浴びせられる「黄色ベスト」の姿が想像されるのです。
TV議論に招かれて「黄色ベスト」のメンバーは、同じ発言――「農民への減税と、社会費用の増大のために高所得者への増税を!」を繰り返すだけだったと伝えられています。
それ以上の論理の展開を求められたとき、未経験のメンバーは返答に窮したはずです。
ここから二点のことが言えるだろうと思います。
1.窮して、反論の道を単純なポピュリストに求めることは十分に想像できるのです。
2.運動の経過から振り返れば、「黄色ベスト」が極右派、左派ポピュリストに流れた原因 は、彼ら自身の運動ではなく、誰がそれを強制したのかと問題が立てられるはずです。
こう考えると「黄色ベスト」の未熟さ、未経験さを批判するのではなく、それを支えて、その中から農民運動の新しい方向性を見つけ出すための社会運動全体の取り組みが求められていたのであり、それによって議論の豊富さから農民の自立的な組織化と運動の発展に十分貢献できたはずです。それがまた政治組織の役割りだと思われるのです。それを果たして、どの政党と政治グループがなし得たのか? 問われるべきはここでしょう。
なぜなら、「黄色ベスト」運動は、まだ収束していないからです。まさに現在、ヨーロッパ全域に広がりを見せる農民運動の中で、この点が問われているからです。
次にこの問題を、現在のドイツの農民デモ、抗議行動を通して具体的に検討してみることにします。
2024年1月8日から始まるドイツ農民同盟の全国的デモ直前の1月5日に、今後の進展を予想させると思われる事態が発生しました。
経済エネルギー大臣ハーベック(緑の党)が、休暇から船でシュレースヴィヒ・ホルシュタインの小さな港に到着しようとする直前、港には怒声を上げる農民が駆け付け「市民直談」を要請します。身の危険を見てとった関係者は、警官導入のもとで、なんとかその場を逃れたと伝えられていました。船に同乗していた一人の女性がハーベックの存在に気付き、ソーシャル・メディアを使って同調者の港への動員を呼びかけたことが後程明らかになります。また女性が、AfD系のメンバーであることも判明しています。
政敵に対する極右派からの、暴力を含む直接的な行動が顕著になった事態と判断していいでしょう。従来との違いは、個別的な非公然の暴力行為から、今回の公然とした組織暴力に発展してきたことで、言ってみれば個人的なテロから組織的な集団テロへの変化ということです。
その後、緑の党の集会には多数の極右派とみられる集団が駆けつけ、会場への道を塞ぎ、歓声を上げ、集会を中止に追い込む事件がこれまで相次いでいます。のみならず、「反AfD、反ファシズム」デモ・集会に決起する人たち、緑の党、SPD、左翼党への暴力的な個人攻撃が、家屋への放火なども含め立て続けに起こされ、極右派の目的がどこにあるのかをはっきりさせました。
2019年から2023年に全ドイツでSPD、左翼党、そして緑の党、いわゆる左派への2400件以上の襲撃が発生し、特に西側ドイツに顕著であるという警察統計が出されています。2023年には緑の党への襲撃が、224件報告されています。
これによってポピュリスト的な「政府、エリート批判」の化けの皮がはがされ、暴力とテロによる社会混乱と騒擾を通した政権奪取の本音が抉りだされ、それへのあいまいな態度の許されなくなった支持者、市民が戦線から離れだし始めます。どの程度まで? どこまで?の質問に関しては、正確な予測を立てることは困難ですが、一つ言えることは、極右派グループの活動がそれによって後退するのではなく、より一層の暴力・テロ攻勢が仕掛けられてくる危険性です。まさに1920年代の「クモの巣」(das Spinnennetz von Joseph Roth 1923)が連想され、ワイマール共和国は決して過ぎ去った過去の歴史ではなく、現在直面している歴史であるということです。それが肌身に感じられる今日です。
2023年11月25日極右派の「ポツダム会議」の意味は、こうして時期的にもそれに合わせた秘密会談であったという内情が浮上してきます。
1月8日から開始された農民のデモと抗議行動は、フランス「黄色ベスト」、オランダBBBの運動と比べて規模と組織力で大きな違いが認められます。
フランスでは農業経営および経済の窮状に対抗しようとした農民個人の自発的な結集から、オランダでは元ジャーナリストで議員になった一人の呼びかけにより、それに対してドイツでは「農民同盟」が始めから終わりまで抗議行動を主導しています。
そしてこの違いは、極右派の潜入、介入に対する対応で重要な意味を持っているように思われることです。
機会を見つけて大衆運動への接近を謀ってきたAfDを含む様々な極右派グループ
――難民問題、コロナ禍で公然化してきた謀略論者、「ねじれ思考者」等が、同傾向のグループ「自由農民」(Freie Bauern)とともに1月8日の「ゼネスト」をTelegram等のソーシャル・メディアを通して呼びかけます。
その1週間後には、DB-ドイツ鉄道機関士組合(GDL)のストライキも予定されていたことから、その実情がどうであれ、極右派グループが社会混乱に乗じて政府の転覆を目指していることが誰の目にも明らかになりました。1月15日のベルリン中央デモと抗議行動までの1週間に及ぶ闘争経過は、同時にこうした極右派グループとの緊張した関係の中で進められたといえるでしょう。
では、その一線を画す政治力とは何かというのが、次のテーマになってきます。政治目的の明確さ、これは組織、運動内部でどれだけ自主的な議論と討論が深められてきたか、いるかという問題だと思われるのです。
その観点から、今回の農民・農業問題のテーマを整理してみます。
現「信号連立政権」が2024年国家財政を組むにあたって自然環境保護費用の財源をコロナ特別クレジットから充てようとし、その違法性をCDUから訴えられ、連邦裁判所がCDUの言い分を認め、結果は財源に大穴が空くことになりました。そこで政府は、各分野の助成金カットを余儀なくされ、真っ先に狙われるのはいつもの如く文化、社会、教育、家族で、その最大の分野としては農家、農業となります。
他の問題は、2009年憲法に明記された「国家負債制限」(Schuldenbremse)法が、予算編成に縛りをかけていることです。次の世代への財政負担を避けるという意味もありますから、赤字財政は組めません。
こうして農業用ディーゼル燃料への助成金カットが決定され、農民同盟は2023年12月18日ベルリンで「決定を取り下げなければ、年始に大デモ【完璧な嵐】に見舞われるだろう」と反政府闘争への意気を上げました。
ドイツ統計局の資料によれば、2010年から22年にかけて29万9千軒あった農家の内4万軒以上が廃業したといいます。何が進行していたのか? さらにその上に助成金カットが続きます。これが昨年の年末事情でした。
身近なところでは、数年前から中国産のニンニクが大手マーケットの市場に出回り、さすがのニンニク好きの私たちも「なんだ、これは! 安ければいいのか?」と頭を抱えています。安売り国際競争の現実なのです。素人なりに生産コスト、輸送費、経営費用等を加算して計算してみるのですが、割に合わないどころかドイツ国内の農民、農家はどうするのかと気持ちはそちらに向いていくのです。
中国産にケチをつけ、排外主義を煽るわけではないですが、食料供給と国際競争という問題のあり方が問われているということでしょう、といっても何も言ったことにはならないのですが。
過去EUの農業政策は、一方で農業の大規模資本主義化と、他方で小規模、家族経営による農業のエコロジー化の間で動揺、対立してきたと思われるのです。助成額は、1ヘクタール毎に(156ユーロと―筆者注)決められますから、敷地面積が大きくなればなるほど農業の大型化を振興し、大量生産を促進することによって価格低下を実現できますが、大手マーケットは、さらに購入価格への圧力を常にかけ続けます。
1990年代に国際競争に対応できるようEU各国政府は助成によって変動の著しい価格を安定させようとします。しかし逆にこれが過剰生産をもたらし、ミルクが路上に撒かれた光景は今も記憶に残っています。生産しても収入にはならないからです。
他方、それと比較して小規模、家族経営の農家への助成額は絶対的に少なく、さらに新しい領域としてエコロジー農業への転換には労力と資金を必要とします。量ではなく質での市場競争への参入、あるいは新しい市場開発となり、それはまた財政負担になってきます。
大資本のエコロジー化も進みますから、小規模、家族経営農業には競争と資金面での圧力が一層強められることになります。
大まかな構造としてこのように理解できるのではないかと思います。
以上の状況を、各報道機関および農業専門誌『agrar heute』(『今日の農業』の意)電子版資料から、具体的な数字で振り返ってみれば、今回の農業デモの要求と訴えが明確になってくるだろうと思われます。
2021-22年ドイツでの各農家への助成金の平均額は4万8千ユーロで、その内5千ユーロがコロナ援助だったといわれます。これが多いのか、少ないのかは私には判断できません。
その助成金から農業用エネルギー分野がカットされることになります。
2023年12月19日現在、ディーゼル価格は1リッター当たり1ユーロ68セントで、そこに21、48セントの農業補償が支払われることになっています。
これをエネルギー税の面からみれば、一般市民では1リッター当たり47、04セントの課税となっており、農民は25、56セントとなります。
財政節約案が強行されれば、年間5千ユーロの損失が見込まれるという試算が出されています。
それに現在優遇されているトラックター等、農業用車両への新たな課税が加われば、農業は成り立たないという不安です。
因みに、2024年1月5日現在の各国のディーゼル1リッター当たりの一般市民価格および農民価格を比較すると、ポルトガルは市民用1.56ユーロに対して農家用1.30ユーロ、フランスは1.75と1.34ユーロ、ドイツは1.71と1.49ユーロになるといわれます。
エネルギー経費節約に向けた一つの可能性は、グリーンピースが主張するように〈電動トラックターや車両〉の導入ですが、そのための技術的な環境整備と財政が全く整っていない現状では、それを聞かされる農民からはただただ反発を買うだけのことです。キレイごとを言うな! ここが農民デモの一番の主張点だったと理解しています。未来の理想論をこれ見よがしに語るよりは、農民の現状を知り現実的な解決が図られなければならいと訴えているのです。
政府の農業政策と自然環境保護政策には一貫性がなく、コロコロ二転三転し現場での計画が立てられません。農業は人手と時間を必要とする産業です。加えて農家の半分以上が借地農で、契約更新は高くつくといわれますから、計画のない投資はできません。また後継者への引継ぎも目途が立ちません。
それを反映してか、デモには親の代のみならず二世代、三世代の若い農民の姿が目につきました。
20代後半の農民青年は、「2014年9月の農民デモ以来なかった満足感がある」とデモの後にインタヴューに答えていました。
EUは2019年「Green Deal」と題するプログラムを発表し、これは2050年までにCO2排気ガスをゼロに抑えヨーロッパ大陸が「世界で最初」の気象中立地域になることを目指したものです。
当然、気象・環境保護と農業は以下のような諸点で相互に密接な関係があります。
・自然を破壊する農薬使用をやめ植物保護
・農地のエコロジー化
・バイオの多様性
・排気ガス削減
等々が指摘されます。
そのためには使用可能な十分な敷地と目的を実現するための創造的なガイドラインが必要だというのは農民のみならず市民の誰もが理解できるところですが、EUまた各国政府から具体的な内容が提起されることはありません。あとは農民任せです。しかし、農民は官僚制度と様々な規制の下で速やかな対応が阻害されています。
こうして数年が過ぎてきました。
農民の決起は、農業の存在を顕示し、農政の根本的な問題を暴露したものです。それは健康食品、動物・自然環境保護、資源保存を声高に主張する都市部市民への再考を促すアピールでもあったでしょう。
EU年間予算の実に三分の一が、農業助成に支出されているといいます。現実は資金のバラマキの感が強いのも事実です。委員長フォン・デア・ライエン(CDU)の指導原理は、戦略討論を深めて農政及び巨大化したEU変革を推進するというよりは、自己の権力基盤を固めるための折衝、政治工作であるというスタンド・プレーの面が目立っていました。
これは、彼女がメルケル首相の元でドイツ防衛大臣を務めた当時、周辺を同調者で固め、必要とされていた国防軍改革を縁故関係者への投資を通して行い、それが暴露されスキャンダルになった過去を連想させるのです。
5月にはEU選挙が行われます。現委員長フォン・デア・ライエンの二期目に向けた候補者指名がEU保守派グループ(EVP)から決定されましたが、選挙戦の過程でどういう動きが出てくるのかが注目されます。
政治に利用され、見放され社会の周辺に辺境化されていく農民、市民の反抗がどこに向かうのかという問題を、最後に1920年代の北ドイツ‐‐シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州における経験から取り上げてみることにします。資料は『シュピーゲル』誌の特集号です。(注)
(注)Spiegel Geschichte, Die 20er Jahre
Vergangenheit kennen, Gegenwart verstehen― Ausgabe 1/2020
„Abseitsfalle“ von Hauke Friederichs
1925年にはドイツの穀物作付面積のほぼ三分の一が、まだ中世のように大鎌を使っての除草、収穫作業が行われていた一方、アメリカではすでに機械化が進み、複式収穫機が導入されていたといわれます。
収穫期には手作業により休日のない重労働と、多数の人手が必要とされます。日銭で雇われる作男のみならず農主も挙げての家族、地域を総動員した農作業というイメージが浮かんできます。
しかし1923年の最高時には2万9千%にまで跳ね上がったインフレにより収入は激減するどころか、農作物――例えば、ミルク、肉類を市場にもっていき販売しても、生産コストさえカバーすることができません。一言でいえば、農業を続ければ続けるほど、農家は「廃墟」と化す状況に陥ります。
他方で都市部に目を向ければ、工場の機械からは蒸気が吹きだし、煙突からは煙が吐きだされ、町中では消費社会を堪能する人出でにぎわいを見せます。「黄金の20年代」と表現された時期にあたります。同時に、路上に放り出される失業者群もあふれてきます。
その社会の胃袋を保障していたのが農家、農民でした。しかし、農村部の機械化は進みません。
1923年には政府が、「消費者国家カード」と「穀物カード」を農家に義務付けます。その意味するところは農家への作付と飼育の品目と量を指定し、収穫後の農民自身に許される消費品目と量が決められ、残りは市場に放出することを強制したものでした。戦後に戦時と何ら変わらない食料管理制度が現出します。
農民(生活)の自由、市場の自由などは、一片の欠片も見られない別の世界です。
この間に農家の廃業が続きます。生き残る道は、2つです。
1. インフレによって貨幣価値をなくしたライヒスマルクへの不信により、また、国際競争によりポーランド、デンマーク、オランダからの農生産物が輸入されることによって価格変動が常時起き、経営不安が常態化してきます。それに農業労働者の賃金上昇、高くつく運送費、国家への支出が重なり、残された手段は、物々交換に切り替えることで、穀物と肥料、小麦粉と種子の交換等が行われていきます。。
「保守的な農民にはワイマール共和国が無縁になり、ベルリンの政治家に信頼がおかれなくなった。彼らは公正な生活を侮り、自由精神の悪影響を恐れ、利用されていると感じるようになった」。
2. シュレスヴィヒ・ホルシュタインの多くの農民は、そこで反ユダヤ主義と地方自治を主張する農民党、または右翼保守派‐‐同じく反ポーランド、反ユダヤ主義、反ワイマール共和国、農産物への保護関税を主張するドイツ国民党(DNVP)に合流していきます。
最終的に農民運動に手工業者、工業経営者も加わり、NSDAPの一翼を担うことになりました。
上記資料で取り上げられている地域はディトマーシェン(Dithmarschen)という農村部で、1928年の帝国議会選挙ではNSDAPに18%投票しています。それに対してドイツ全体では、NSDAPは高々2、6%の得票率でした。ナチは、「農民の不満を基盤にしている」と言われる所以です。
その後は、単なる挑発的なスローガンのみならず、暴力的な扇動が頻発してきます。
1929年3月7日、ディトマーシェンに近い村(Woehrden)では、ナチ派のグループと共産主義者の間で3人が死亡し、30人の怪我人が出る街頭騒擾が引き起こされました。ヒットラーは、死亡者を「殉教者」として最期の敬意を表したといいます。
1928年8月1日、「ワイマール共和国」を拒否する数千人の農民たちは、農民戦争のシンボルとなった黒旗を掲げ、ノイミュンスターをデモ行進しました。
それ以降、ナチが権力奪取へ驀進していく経過は歴史の示す通りです。
以上、単なる歴史の類推ではなく、ここから何を現在学ぶのかという問題意識で、これを書きました。 (つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5225:240407〕