ドイツでは9月に三つの州議会選挙が予定されています。1日のザクセン州とチューリンゲン州、そして22日のブランデンブルク州です。他方で並行して進むアメリカの大統領選挙に注目していると、両者には密接した共通する課題のあることが理解されるのです。
それを言葉でどう表現するかを考えていたとき、先日シカゴで開催されたアメリカ民主党の選挙総決起集会で発言した一人のジャーナリストのアピールが、適切なきっかけを与えてくれたように思われ、これを書いています。
70歳で政治トーク番組の「伝説」とまで称されているオプラ・ウィンフリー(Oprah Winfrey)が舞台に登場し、以下のように訴えます。
「私たちは、隣人とそれほど大きな違いがあるわけではない。隣家が火災にあえば、私たちは、その住人のパスポートや宗教を問うようなことはしない。私たちは、なされねばならないことをする。」
政党政治への直接な関与からは距離を取りながら、しかしオバマ、ヒラリー・クリントンを支持してきた彼女は、トランプから絶え間なく扇動される人種主義、性差別、ポピュリズム、虚偽プロパガンダにこれ以上耐え切れなく、〈ここで言わねば〉との思いから、事前の打ち合わせなく飛び入りで自分の気持ちを訴えたかったのだと想像できます。
さらにトランプの副大統領候補者ヴァンスによるハリス批判――「彼女には実の子どもがいない」へのカウンターが続きます。
「家に子どものない『Cat Lady』(子どもの代わりに猫と住んでいる女性への侮辱の意―筆者注)が住んでいれば、私たちは、同様に猫を持ち出すよう努めるだろう。」(注)
トランプとヴァンスからの聞くに堪えない暴言、差別言辞が飛び交うなかでのポイントを直撃した痛快で心温まる批判というしかありません。そしてこの二つの世界――一方で、人を差別し分裂させ排除するのか、他方で、人と助け合い結束していくのか、これが実は、現在、対抗軸になっている本質だろうと考えられるのです。アメリカのみならずドイツ、ヨーロッパでもそうだと思います。
(注) Frankfurter Rundschau Freitag,23.August 2024
Von Normalos und guter Nachbarschaft von Karl Doemens
そのJ.D.ヴァンスです。以前に少し書いたと思いますが、2016年に書かれアメリカでベストセラーとなった彼の本――『ヒルビリー・エレジー(Hillbilly-Elegie)』がドイツ語訳で出版されたのは2017年で、その批評に惹きつけられ私が読んだのは2018年のことだったと記憶しています。
ヴァンスが生まれ育ったオハイオの鉄鋼産業と炭鉱の盛衰、そしてそれに伴う家族、社会の変遷を書き綴ったものです。経済の衰退に呑み込まれていく家族と彼自身の伝記といっていいかと思いますが、そこにはアメリカの分裂していく歴史的な経過がわかりやすく描かれ、なぜトランプが登場してくるのかの背景をリアルに知ることができます。この本は、学校でサブ教材として使用されたとも聞いています。それほど衝撃の大きい一冊の本です。ヴァンスは、当時、トランプを「アメリカのヒットラー」、「愚か者」とさえ表現していました。
彼の家系はスコットランド-アイルランド系移民で、白人系の間にも宗教、政治、生活習慣の違いから起こされる差別のあることを経験し、生計は父親の日銭に頼るしかなく、子どもの教育、健康、福祉などには手が回りません。両親が離婚し、母はドラック依存症になり、彼は祖父母のもとで育てられます。同じような光景を見て育ったのはヴァンス一人ではなく、このアパラチアといわれる地域全体がそうした環境に陥っていました。ワシントン政府からの援助はありません。これが、当時の中央アメリカの一般的な社会状況でした。
彼の本が「社会ドラマ」といわれるのは、単に社会と経済の分析ではなく、そのなかで各自がどのような影響を受け成長(生存)し、精神的変化を遂げていくのかを描いているからにほかなりません。
経済と地域社会への決定的な一撃となったのは、オバマによる炭鉱閉鎖と、中国の経済進出、つまり自由経済という名の下での外国資本によるアメリカ産業の喪失でした。
「なぜ、誰も、何もしようとしないのか」というのがヴァンスの疑問でした。それは政府に政治責任を問うことではなく、各人への自己責任を問い詰めることでした。移民が勤勉に労働をしながらこれほど貧しく、子どもを育てられる安定した家族もつくれないような尊厳のない生活を強いられ、議論だけはするが、しかしなぜ、そのような状況から抜け出そうとしないのか、とヴァンスは自分自身のみならず同じく他の移民家族にも問い質すことになります。
彼は学校を卒業したあと軍隊に入り、イラクに派遣されました。兵役を終えた彼はエール大学で法学を学び、ベンチャー資本の財政部門――要は資金集めを担当することになります。
これが私の知り得たヴァンスの経歴ですが、その後数年間、彼の名前を聞くことはなかったです。一昨年でしたか、突然、彼が共和党からオハイオ上院選に立候補するという新聞ニュースを目にしました。驚かされたものです。メディアの一部では彼の本が、「左派にトランプが生まれてくる背景を教えた」といわれていたほどですから、辻褄が合わないのです。それからその理由を探し求め、彼が何を発言するのかに注目していましたが、手掛かりがつかめないまま、今日まで来ました。
現在のヴァンスの政治活動と発言を見聞しながら、初めてその理由に気づかされた次第です。彼の一冊の本が、人々に感動を与えたのは紛れもない事実で、無視することはできません。そこでの各メディアの論評と批評だったと思われます。
しかし、もう一つのテーマが、実は彼の本に含まれていたことを、現在、あらためて気づかされました。
問題は、同じ境遇にありながら無気力になりドラッグに溺れていく家族のメンバー、そして労働者、白人系労働者たちへの言いようのない失望感があり、それに伴って間違いなく苛立ちと、その裏返しとして憤りの念が募ってき、これが「なぜ、誰も、何もしようとしないのか」というヴァンスの疑問をとらえることになったのだろうと思われることです。
何かを変え、動こうともしない要因を彼は、スコットランド-アイルランド系移民の信仰性も含めた文化、風習、生活習慣、モラルに求めたように考えられます。そういう意味では社会対立としてではなく〈文化対立〉として認識していこうとしたのではないかと理解できるのです。
彼には、それまで自分が生きてきた〈文化が桎梏〉となっていたのではないか? 内面に募る忸怩たる思いが、憤怒とともにエリート大学に向かわせるエネルギーとなり、最後は、アメリカの進歩的かつ民主的文化を破壊しようとするトランプのもとでヴァンスは、過去からの自分を解放したかったのだといえば、あまりにも薄っぺらで、軽率な解釈になるでしょうか。
しかしここでの問題は、トランプが、進歩的で民主的なアメリカ文化を育て上げてきた人種、性、マイノリティーの社会を古い世界、すなわち過去の世界に引き戻すことであり、新しい未来の世界を展望するものではなく、逆にそれを破壊しようとすることです。
それ故に、ヴァンスはトランプ以上にラディカルにならなければならず、彼の反動的な暴言、差別発言は、これが動機になっているといっていいでしょう。
自分を〈過去から解放する〉ためには、現在属している保守派の過去に戻ることではなく、従来の保守派の〈過去を超えたところ〉に新しい自分を見つけようとしているということだと思うのです。彼の危険性は、ここにあります。
一例を挙げます。新保守派グループが2022年に作成した「プロジェクト2025」という政策提案があり、これは、2024年の選挙でトランプが大統領になった暁には、アメリカの独裁制度をめざそうとする青写真です。しかしトランプにはあまりにもラディカルすぎて、一線を画しているといわれていますが、ヴァンスはすでに2022年に『シュピーゲル』誌のジャーナリストによるインタヴューで単に民主党を選挙で打ち破るだけではなく、国家財政で運営されている公共機関――官庁機構、大学、学校から左派を排除、一掃しなければならないと答えています。
保守派のなかには政治形態としての自由民主主義制度に疑問,猜疑をもっているメンバーが多数存在し、それに代わるオルタナティブなヴィジョンが提供されなければならならず、それが彼にとっての「プロジェクト2025」の位置づけとなります。
「民主主義には賛成、しかし自由には反対。民主主義は、いつも自由な結果を生み出すとは限らない。」(注)
ヴァンスの言葉を借りて言えばトランプが「アメリカのヒットラー」だとすると、果たして彼自身は何者か? ゲッペルスか?
(注) Der Spiegel Nr.33/10.8.2024
Der Systemsprenger von Rene Pfister
なぜ、かくもくだくだとヴァンスにこだわるのかという、次の問題点です。
ソヴィエト型共産主義が崩壊して以降、共産主義者をはじめ左派、左翼グループのなかから保守派、ポピュリスト、あるいは極右派に方向転換していく世界の傾向を少なからず見てきました。それは自分自身も含め、誰にも該当する可能性として存在していると思います。そこでその分岐点がどこにあるのかを、自分なりに見定めておく必要があると思うからです。
その際、何が決定的なポイントになるのかを、次に検討していくことにします。
一方、オハイオのアパラチア地域の移民系、白人系労働者に見られる無気力、ドラッグ依存の背景には何があるのか。歴史的に見れば、彼らが炭鉱労働者として重労働を担い、勤勉に、字義通り勤勉にアメリカのエネルギー戦略と産業を支え、単に家族と地域社会をつくり上げてきたばかりではなく、そこから一つの文化コミュニティーを形成してきたはずです。18世紀以降の移民の歴史にとってみれば、新境地での生存条件をつくり上げることを意味し、白人系労働者とともに強力なアメリカ産業と国家形成に貢献してきたという〈誇り〉を間違いなく持っていたはずです。それが彼らのアイデンティティーで、また、エゴイズムではない強力な個人のインディヴィジュアル社会を確立してきた基盤だと、私は理解しています。
しかし、20世紀以降、国際競争の中でエネルギー戦略の転換による、とりわけ鉄鋼産業の衰退が、そういってみれば〈アメリカン・ドリーム〉を破壊し、資本と国家の現実を見せつけられることになりました。
そんな理解を可能にさせる、ヴァンスの本でした。
ここに見られるのは、移民系、白人系労働者の中にある〈疎外〉で、これがヴァンスの〈桎梏〉との決定的な現状認識の違いであるように思われることです。
2016年のトランプとヒラリー・クリントンとの一騎打ちによる大統領選挙からこの経過を振り返れば、当時、次のように状況が表現されていました。
政治家は東のニューヨークから西のロサンジェルスまで飛行機で飛ぶだけで、中央アメリカを窓から見下ろし、素通りするだけだ。
しかし中央アメリカは、当時、トランプの支持基盤の強いところで、ここでの得票率が選挙結果を決定づけることになります。トランプは、民主党が中央アメリカ(flyover states)の課題を取り上げず、エリートを優遇していると批判してきましたが、これはビル・クリントン以降の民主党の組織・戦略的な問題であるといえるでしょう。
ヒラリー・クリントンは、この州のトランプ支持者を「思いあがった哀れな敗北者」と言い放ち、結果は敗北することになりました。(注)
(注) Der Spiegel Nr/33 10.8.2024
Gut gelaunt gegen Trump von Roland Nelles
逆に見ればオバマ、そしてバイデンの選挙勝利はこの地域での得票固めで、それを可能にしたのはBLM運動をはじめ、女性、移民、マイノリティーの広範な戦線形成に白人系中間層が応えたからであっただろうと思います。過去ではなく未来を展望できる社会をめざした運動でした。それがどこまで実現できたかは、今回の選挙で再び問われることになるでしょうが、民主党大統領候補に選ばれたカマラ・ハリスの陣営は、それを視野に入れた体制になっていると思います。
両政党の固定した組織基盤が、民主党は密集した都市部の先進的な部分であるのに対して、共和党は白人系(低所得)労働者と農村地域の部分と、大まかに分類していいかと思います。
共和党の選挙集会をTVニュースで見ていると、ヴァンスが「労働者と農民のための政党」とアピールしていました。こうした用語を個人的な経験では、これまでの選挙戦では公然と聞いたことがなく、またメディアでも報じられることがなく、今回の大統領選が、その直接な言葉が使われていないとはいえ〈階級闘争〉であることを共和党の側から前面に打ち出すことになりました、が、意味するところは〈アメリカ白人系の〉との意味合いが暗に含められている点を見逃すことはできません。ここにこそ、ヴァンスの役割があるといえます。白人系へのプロパガンダ担当です。
一方民主党は、2016年ヒラリー・クリントンの敗北を総括し、オバマ、バイデンの広範な社会大衆運動の継承をめざしながら、さらに中央アメリカ――固定票のない左右に揺れる選挙区、いわゆる「Swing States」への戦略的対応がたてられ、それが副大統領候補へのティム・ウォルズの選出だと考えられます。ヴァンスへの戦略的カウンターです。
民主党も同じく、大統領候補ハリスの口からだったと記憶していますが、「労働者と農民のための選挙」と党集会で強調し、これで両陣営の階級闘争への出陣が決まったことになります。
ウォルズはヴァンスより農村地域社会の事情に詳しいというのが、民主党の謳い文句です。彼はネブラスカの学校を卒業した後、陸軍州兵に入隊し、除隊後はネブラスカとミネソタで学校の教員を務め、高校のフットボールのコーチ経験もあり、2007年にはミネソタから下院議員に選出されています。さらに2017年からはミネソタ知事に選出されました。
ヴァンスと比較して、社会各分野での政治経験の豊富さが明らかです。同時に地域の社会問題に取り組んできたことは、知事時代に取り組んだ社会プロジェクトに顕著に現れており、全日制小学校の子どもたちへの給食を無料にし、同性愛者の権利を保護する法律もつくっています。
ハリスによって都市部の左派も含む先進的な市民の得票を確保しようとする一方で、他方、ウォルズによってアキレス腱である中央アメリカに特徴的な地方農村地域、および郊外の白人系労働者と移民、女性、マイノリティーの得票を同時に目指した布陣であるのがわかります。
地域での地に足のついた活動から多種多様な文化的で公正な社会をつくり上げていく可能性を追求するのか、それとも亀裂した社会にさらなる楔を打ち込み、宗教、出身、性、民族による対立を煽り、その上に独裁制度を樹立するのか――これがウォルズとヴァンスの決定的な分岐点だと思います。
以上一言でいえば、人と人の関係をつくり上げるのか、人と人の関係をズタズタに切り裂くのか、最後の問題は、この課題をハリスが果たして成し遂げられるのかどうかという点にあります。
ハリスの大統領候補決定に関して相反する評価が、ドイツでは、連日、メディアで見られました。
疑問説としては、バイデンの副大統領として、これといったプロフィールをつくり上げられなかったことから、大統領としての資格に疑問が持たれる、というのが最たるものです。しかし、事実としてはそうかもしれませんが、私の個人的な意見は、それは実に民主党にも根強い保守性を反映したものではないかと考えられることです。女性で、しかも有色系が政治の前面に出ることは、四方八方からの圧力を覚悟しなければなりません。
一例として、ミシェル・オバマの書いたものを読んでいると、ファースト・レディー時代、彼女はアフロ・ヘアーで公衆の前に登場することを自制したのみならず、二人の娘にも長い時間をかけて髪を梳いてあげたといいます(資料が手元にありません。記憶からです) 。これがオバマ大統領時代のアメリカでした。
ですから、副大統領としてのハリスの評価に関しては、こうした面からの観察も必要になってくるように思われるのです。
他の評価は、未来への希望を体現するというものです。バイデンは最後まで2期目の大統領選に出馬することに固辞しました。事前の支持率もトランプと拮抗していました。
しかし、です。バイデンの年齢(81歳)、体力、そして思考能力のもとで、先行きへの不安を抱えながら選挙戦が戦えないことは事実でしょう。トランプから攻め込まれて反撃できず、民主党は完全に防衛、後退戦を強いられ、支持者は精神的に行き詰まり状態に陥れられました。心身ともに硬直し、選挙戦が戦えません。この時点で共和党は、選挙戦の勝利を確信したはずです。
民主党が候補者をハリス一本に絞り切った時点で、拘束されていた足枷が取り払われ、組織は未来に向けて活動し始めました。それはアメリカが前に向かって動き始めたことを意味します。支持者は精神的にも解放され、直後のハリス・フィーバーが起きたことになります。
まず都市部の白人系中間層に女性、移民、マイノリティーが合流してきます。この流れが、果たしてどこまで奥深く広範囲な発展を遂げるのかが、これからのポイントになってくるように思われます。
ハリスには、まだ、明確な政治政策がないといわれるのも事実でしょう。
ここで2つの観点から、この評価について検討してみます。
自主的な社会大衆運動が労働者、農民、そして女性、移民、マイノリティーの闘争エネルギーを統一していくことによって、政治の方向性は決められてくるはずですから、むしろ政治政策の明確化に関する責任の一端は戦う側にもあるということです。政党に期待するのではなく、統一して戦う戦線からの要求で民主党の動きを拘束すべきでしょう。その時、民主党が党内の政治統一を実現できるかどうかが、選挙結果を左右すると思います。
闘争にはいつも勝利と敗北が付きまとうものであることは、経験した者であればすぐに理解できる事実です。しかし、いずれにしても、闘争で何を残してきたのかが、常に問われるはずです。戦ってきた戦線を残すという、ただこの一点です。
戦線があれば、闘争を引き続き牽引もし、また、再起することもできます。戦線には未来への道が示されているからです。
そう考えると、私たちは戦線を残さないばかりか、戦線を破壊してきたのではないかと、痛苦な思いにかられます。
最後に、ハリスがトランプの暴言、差別言辞をしなやかに、かつ決定的に打ちのめす舞台を見てみたいものです。元検事総長と無法者のトランプ。トランプは恐怖を持っているはずです。
今週の日曜日は、ドイツ東地域の二つの州で選挙があります。小トランプたちの動向が気になります。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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