ドイツ通信170号 新型コロナ感染のなかでドイツはどう変わるのか(18)

先ずは、3月21日(日)カッセルで行われた〈反コロナ規制〉デモの様子から書き始めます。ここに現在のドイツの現状が、際立って認められるのではないかと思われるからです。

その一週間前の週末には、ドレスデン、シュトゥットガルト、ミュンヘン、デュッセルドルフで同グループの集会とデモが1,000-2,000人規模で取り組まれ、警察側の準備不足、無方針、無対策が厳しく批判されていました。

そして3月21日に向け、同グループがカッセルに全国動員をかけて1万7,000の集会とデモの許可申請を提出します。行政裁判所は、市と市民の反対を無視し6,000人まで、そして中心部から離れた場所での集会を許可しました。

私が抗議集会の開かれている街の中心部にある広場に着いた時は、どこから出発してきたのか長蛇の列のデモ隊が市内に向かって行進しています。中心部への入り口は警察――この日は他の州からの援助部隊を含め1,800人――によって阻止線が張られていますから、中心部を迂回するような形になります。

街の中心部への入り口と市庁舎の建物、右手にデモ隊(写真上)

このデモ隊は街中にある公園を占拠して抗議集会に向かってきますが、警察に阻まれ双方が対峙することになります。抗議集会側は数百人ぐらいでした。

周辺を見まわしながら、「これは、ヤバイ!」と思ったものです。

警備側が、集会・デモ許可の条件になっているマスクをつけず、対人間隔もとらないで、しかも2万人以上の集団を解散させることができないのです。州内務大臣(CDU)の責任問題が議論されています。当然のことですが、それ以上に重要な問題は、以下のところにあります。

「ヤバイ!」というのは、すでに1年を経過しながら後手後手に回り、決め手を欠くロナ対策で何かさらに弾みがつき、この勢力がどう動くかと考えると、この言葉が自然と口をついて出てくることになります。

「一部の市民は」という形容は、このグループを言い表すにはあまりにも表面的で、実態を的確に捉えていないように思われます。「個人の権利」「個人の基本権」を掲げながら、同時に謀略論、反ユダヤ主義、密教主義、極右・ファシストが一つの勢力に形成される社会的結節点が、とりわけドイツにつくられてきているというところに、政治的な危険性を感じるのです。

理論の正当性云々ではありません。あらゆる社会層からそこに惹きつけられる政治の流れとは何かと、いつになっても最後尾の見えない長蛇のデモ参加者を見ながら考えていました。そう考えると、「ヤバイ!」のです。

6,000人が結集する校外の〈反コロナ規制集団〉の集会は、コロナ規制を無視しながらも大きな混乱はなかったといわれますが、デモを組織したのはフィットネス・スタジオ経営者で、「自由市民カッセル」を名乗り、従来の「ねじれ思考者」の上記集団とは区別して、「建設的で、批判的な市民」を自称しています。組織者の職業と同じくホテル、レストラン、小売り・自営業者等、コロナ禍で生存の危機にさらされている多様な市民を結集することになりました。

しかし、2つの流れを区別するのは難しいと思われます。

「ねじれ思考者」の〈反コロナ規制集団〉は、それを見越しているような節が見られ、2020年夏に彼らは、政党〈Die Basis〉(注)を立ち上げました。

(注)Basisdemokratische Partei  底辺民主主義党と訳しておきます。

3月14日(日)に行われたバーデン・ヴュルテンブルクの州選挙(注)に党として初めて立候補し、4万8千票を獲得しています。国から政党への財政援助が出る得票率1%にはわずかに及ばなかったとはいえ、9月の連邦選挙を目指した動きが注目されます。

(注)同日他にも三つの選挙が行われました。そこに見られる傾向については、機会を 改めて書  く予定です。

綱領らしきものといえるのは、

1.コロナ規制の撤廃、

2.新しい人間かつ自然に適応した社会体制、

3.自由(のために闘い―筆者注)、そして人間を身体的・心的・精神的存在として中心に据える、

となりますが、「自由市民」がこの政党に直接合流していくかどうかには、まだ未知数な要素が含まれているように思われます。

抗議集会から家に帰ってきたら、友人から「こんな警備の現場を見たか」と連絡がありました。二つの場面を指しています。社会メディアで流されているといいます。

一つは、〈反コロナ規制〉デモには何の介入もしないで、抗議活動をする左派メンバーに対する警官の暴力的な排除活動が見られるというのです。警備の重点が抗議集会の左派グループにおかれていたことが理解されます。不法デモを挑発しないために、左派を弾圧するという危険な治安対策です。

二つ目は、1人の女性警察官が〈反コロナ規制〉デモに向けて両手の指でハートのシンボルをつくって見せている場面です。「心は同じ!」と伝えたかったのでしょう。

昨年、ヘッセン州および北ドイツを中心に全ドイツの警察官のなかに極右派グループの極秘ネットワークがつくられていたことが摘発され、ここから実は個人情報が流失され、極右・ファシスト勢力と闘う弁護士、政治家への脅迫文が送りつけられていたことが明らかにされました。女性警察官のパフォーマンスには、そんな背景があるのではないかと直感したものです。

私は現場で目撃していませんが、いずれにしろ、解明されなければならない重要な問題点だと思います。国家への信頼感がどこから揺らいでいくのかという一つの象徴でしょう。

3月22日(月)、この日もまた接種勤務が入っていました。アストラ・ゼネカ社のワクチン使用が4日間停止された後の、初めての接種になります。ほとんどはバイオン・ファイザー製ワクチンでしたが、それでもアストラ・ゼネカ製接種を受ける希望者がいたことに安心しました。大きな混乱は見られませんでした。

接種待ちの暇な時間が、話しできる唯一の機会です。

88歳という女性が二回目の接種を終え、15分の観察時間が終わり家路につこうとしたとき、

「まもなく春になり、花が咲き自然がきれいになります。これからの時間を十分堪能してください」

という私のお別れの言葉に、

「私は、コロナで死にたくありません」

と答えられました。私には、言葉が出てきませんでした。

この彼女の言葉を何回も、何回も反芻しながら、コロナ感染、そしてそれへの対策の意味が私なりに理解できたように思われ、この報告を最初に書く動機になりました。

「生き抜くこと」への意志でしょう。「感染しないために何をなすべきか」、それはそれで重要なことに変わりがありませんが、同時に、「ウイルスの脅威のなかで、人はどう生きていけばいいのか」が語られなければならないということでしょう。生きていくことで人は結ばれるのだと思います。そこに人に会う喜びがあるはずです。

〈生きる〉ということは、経済の活動であり、文化・芸術への感動であり、教育施設で学ぶことの楽しみであり、またスポーツをすることの解放感です。こうして人は受け身ではない、積極的に個性的な人間性を確立していくのだと思うのです。

こう考えると、ドイツのコロナ対策で何が語られないできたのか、それゆえになぜ〈反コロナ規制〉グループのような潮流が生み出されてくるのかという根拠が分かるような気がしてきます。

その結果が、メルケルの「謝罪」に繋がり、その背景にあるものだと私は考えています。市民からの人間の社会活動に向けた圧力に耐えられなかったのです。

以下にその辺の事情を振り返ってみます。

来週3月未からイースター休日が始まります。クリスマスと同様にキリスト教文化にとっては、最も「聖なる時間」を迎えることになります。例年そうですが、通り、周辺は静まり返り、人の徘徊する姿は見られません。家族ともども、過ぎし時間と来たる時間の意味を、現時点でとらえ返し人間相互の絆を再確認することによって、また新しい一年の門出を迎えることになります。神学的な意味は、私にはよくわかりません。しかし、信仰者でない私たちも、この時期になると襟を正すことになります。それがヨーロッパの〈キリスト教文化〉といわれる伝統だと理解しています。

そのイースター休日をコロナ感染の真っ只中で、どう乗り切るのかというのが、先週初めの政治議論でした。

15時間に及んだ総理府と16州のコロナ対策会談で結果が発表されたのは、3月23日(火)の午前3時になってからでした。前日、官邸担当のジャーナリストが、首相の記者会見をまだか、まだかと人気のないプレス・ルームで待ちくたびている画像がTVで流されていました。

そして、やっと結果が出ます。4月2日金曜日の祭日から始まる休日を、1日繰り上げ1日木曜日からとし、加えて4月5 日も祭日ですから、5 日までのシャットダウンを可能にしたことです。しかし、4月3日の土曜日、スーパーはオープンします。これを「イースターの静謐」と呼ばれました。

この判断の引き金になったのは、変異ウイルスの猛威です。10日ほど前には、感染率に占めるその割合が70%強といわれていましたから、現時点では80%前後までいっているはずです。最近の正確な報道と資料は入手していません。

ところが結果の発表された数時間後、メルケルはその決定を「謝罪」することになり、以降、政界、経済界、そしてメディアで公然とした議論が噴出することになります。皮肉なことです。それまでは、こうした議論が確かに行われていたとはいえ、「選択肢のない」メルケル論法からどこかで蓋をされていた節が見受けられましたから、一挙に問題が浮上したことになります。

「謝罪」の意味を考える前に、それまでの経緯をここに少しまとめておきます。

この1年間、メルケルのコロナ対策に関してメディアで指摘されていた批判点を要約すると、

数値(感染数―筆者注)の解釈、警告、忍耐を訴えるだけでは十分ではない!

となるでしょう。この表現は、どこにでも読み取れます。

これをもっと具体的に表現したのが、会談決定に対するチューリンゲン州出身のCDU議員(Albert Weiler)の直接メルケルに宛てた手紙です。「計画のない、途方に暮れ、臆病な」と批判し、他のCDU国会議員も同じような基調で、「骨まで笑いものにされた!」と怒りを隠し切れません。

同じく他の国会議員(Kai Whittaker)も、今回の決定は「混乱をつくり出し、議員として市民に何を語ればよいのかわからず、信頼を勝ち取る最後のチャンスを完全に逃した」と、各州首相の対応をやり玉に上げています。(注)

(注) Frankfurter Rundschau Donnestag, 25. Maerz 2021

経済界と強い結びつきのあるCDUですから、そこからの反発に耐えられなかった事情がわかります。その経済界からの批判は、木曜日を繰り上げ休日にして、土曜日にスーパーをオープンすれば買い物客が押し寄せ、かえってスパースプレッダーの可能性が高くなるではないかというものです。

もう一つホテル、飲食店を含む観光業界の動向ですが、会談前に4つの州―シュレースヴィヒ・ホルシュタイン(首相CDU)、メークレンブルク・フォアポンメルン(SPD)、ニーダーザクセン(SPD)、ザクセン・アンハルト(CDU)から国内旅行に関する共同の提案が出されますが、決定のなかに取り入れられることがなく、この分野での失望は、休暇シーズンへの期待がかかっていただけに大きかったといわれています。

そういう背景をもった圧力に耐えられなかったがゆえに、「謝罪」を不可避にしたといえるでしょう。

会談では、「メルケルが、押し切った」と報道されていました。しかし、会談決定は法律的に、つまり労働法に照らし合わせて問題が残され、また、それを現実化するための経済および社会の準備時間の不十分なことが直後に指摘され、こうしてメルケルは決定を翻しました。

いわゆる「イースターの静謐」に向けたシャットダウンは、それによって破綻したことになります。

これを受けて議論されているのは、会談の経緯です。どういう提案が出され、どのような意見があり、どう議論され、そしてどこで最終的に決定されたのか、言ってみれば決定と執行をめぐる民主主義の意思形成過程と公開性です。密室で行われた会談と決定の全貌は市民に伝えられることはありません。結論だけが強制性をもって下ろされてきます。置き去りにされた市民、野党からの反発が強まる最大の要因です。逆に見れば、現在のドイツのコロナ対策は、市民を引き連れてともに闘う構造にはなっていないという一つの証明です。

その日の午後、メルケルは国会で「謝罪説明」をします。ここで、はたして何に謝罪しているのかが、次の問題になります。

メルケルは「自分一人で責任を負う」意思を表明します。しかし、各州首相は、自分たちも決定に加わっていることから共同責任のあることを、口調を合わせて表明し、それによってドイツがこれ以上、底なしの政治不信にはまることを何とか必死に食い止めようとします。

国会説明でメルケルは、変異ウイルス、ワクチン接種、スピード・テスト(Antigen Test)の重要性と、対策の停滞している問題点の指摘はしています。しかし、なぜそうなっているかの分析は皆無でした。

また、EUとの共同の取り組みを強調しながら、ではなぜ、EUで開発、製造されているワクチンがEUに供給さてないで外国に持ち出されている現実についても、何の説明もありません。このワクチン契約交渉をめぐる昨年の夏は、ドイツがヨーロッパ評議会の議長席を務めていましたから、その観点からの説得ある説明はできるはずだし、メディアも市民をそれを求めています。ないものねだりになります。

そこで、再度、

数値(感染数―筆者注)の解釈、警告、忍耐を訴えるだけでは十分ではない!

の持っている意味を理解してもらえるでしょう。これが「メルケルの政治スタイル」と表現されて久しいです。

さらに最後は、「これまでのコロナ対策は正しい」と悪びれることなく国会説明を締めくくりました。そこには直前の意気消沈した表情はなく、「今まで通り」(メルケル政治を表現するマスコミ用語―筆者注)の顔が見られました。

さて、ここで「謝罪」の意味が何であるのかをもう一度振り返ってみることにします。

TVの定時ニュースでその場面を見ていましたが、一つ実に重要なシーンがありました。メルケルが国会演壇に向かおうとしたとき、議長席のショイブレ(CDU)が、コール元首相とシュレーダー前首相が不信任投票をうけた歴史的一例を挙げながら、「しかし、ドイツは政治危機に陥らなかった」とアピールしたことです。ショイブレの意図がどこにあったのか、私には正確なことは読み切れませんが、「謝罪」のもつ用語上の意味とこの1シーンが頭から離れません。

最後に、市民に今回の事態がどう受け止められているのかを、2つの資料から簡単に紹介しておきます。

1.3月25日ZDF(公共第二放送局) 21時45分の定時ニュースから。

今回の「謝罪」の関するアンケート調査結果です。

〈政治的影響に関する質問〉

政治的な強化につながる 28%

政治的弱体につながる  27%

全く影響はない     41%

〈「イースターの静粛」シャットダウンに関して〉

賛成 41%

反対 54%

2.Der Spiegel Nr.12/20.3.2021のアンケート調査

メルケルのコロナ感染に対する危機管理への満足度に関する調査結果です。

非常に満足/どちらかといえば満足    27%

非常に不満足/どちらかといえば不満足  65%

メルケルの任期も9月まであと半年余りとなりました。まだまだ、大きな揺れがくるものと思われます。私たちは、今週、立て続けに接種勤務が入っています。またどんな話しができるのか。                          (つづく)

訂正のお願い

これまでワクチンの表記に関して誤解と混乱がありました。接種センターで私の仕事であるワクチンの持ち運びで気付いたのですが、アストラ・ゼネカ製に関しては、必ず10本の注射器にワクチンが吸入され、バイオン・ファイザーは6本です。つまり、各社1瓶から、10回、あるいは6回の接種が可能だということです。そしてワクチンの値段は、この1回分の値段ということになります。また各製薬会社から供給される数というのは、この接種回数分になります。以上お詫びして訂正します。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10694:210331〕