ニクソンは“名誉ある撤退”を実現したが -サイゴン解放40年(下)-

1968年1月31日は旧暦の1月1日だった。テトというのはベトナム語で正月を意味する。ベトナムでも正月は最大の祝日で、前年までは事実上の“正月停戦”が実行されていた。その虚を突いて解放戦線は南ベトナム全土で軍事攻勢を掛けた。中でも首都サイゴンでは、解放戦線の決死隊が数時間にわたってアメリカ大使館を占拠するという「戦果」を挙げた。古都フエの城内を占拠した解放戦線を追い出すのに1カ月近くも攻防戦が続いた。

物量と兵員に勝る米軍は大規模反撃を展開し、テト攻勢は3月までに完全に壊滅した。ゲリラ戦が得意な解放戦線正面攻撃という冒険を敢行したのは、軍事的には大失敗だったようだ。当時の解放戦線の兵力は推定67,000人と言われていたが、テト攻勢の間に3分の2を失ったとされる。

しかし政治的・外交的に見ると、このテト攻勢はアメリカを敗退させる分岐点になった。現地の米軍最高司令官W・ウェストモーランド大将は、テト攻勢前まで常に楽観的な報告をワシントンに送り続け、これを受けてジョンソン政権は「勝利は近い」と国民に伝えていた。ところがテト攻勢で米大使館が一時占拠され、サイゴン郊外のタンソニュット空港の米空軍基地が猛火に包まれている映像などがTVを通じて放映され、米国民は愕然とした。

帰国したベトナム帰還兵や戦傷兵が家族や友人に語り伝えた戦争の実相は、政府の伝える楽観論とは180度異なり、ベトナム戦争の泥沼化がじわじわと米国内に浸透している時期だった。そこへテト攻勢の画像が伝わった。徴兵を前にした若者や学生たちの間に、ベトナム反戦運動が猛烈な勢いで広がったのは当然の流れだった。

これを見たジョンソン大統領は北爆停止に踏み切り、1968年11月の次期大統領選挙への再選出馬を断念することを宣言、交渉によるベトナム戦争解決へ舵を切り替えた。こうして米国とサイゴン政府、それに北ベトナムと南ベトナム臨時革命政府の4者による和平交渉が1968年5月、パリで始まった。

折しもパリでは、ドゴール政権の権威主義的な姿勢に反発する学生たちの「5月革命」の狼煙(のろし)が立ち上がったところだった。狼煙はあっと言う間に各国の学園に燃え広がり、欧州諸国、アメリカ、日本などに吹き荒れた。これが世界的な「ベトナム反戦」「米帝国主義反対」にすぐさま転化するのが時代の流れだった。

「5月革命」と並行してパリで始まった4者和平会談は、各代表団がそれぞれの主張を述べ合うだけで全く進展はなかった。パリに集まった各国のジャーナリストたちに「聾唖者の対話」と酷評される始末だった。こうした空気の下でペンタゴン・ペーパーが暴露され、米国内の反戦運動はさらに拡大した。

1969年1月に就任したニクソン大統領は、こうした状況の下で「名誉ある撤退」を決意した。米軍撤退以後もサイゴン政権を生き延びさせることに執心、南ベトナムの戦況を改善するための「フェニックス作戦」を大々的に展開した。その目的は解放戦線の根拠地をつぶし、北ベトナム軍の南下を食い止め、北からの補給を断ち切ることだった。

フェニックス作戦では、枯葉剤の広範な投下によって南ベトナムの森や草原を丸裸にした。北からの補給路であるホーチミン・ルートを破壊するための猛爆撃も連日続けられた。後日北ベトナムで報じられたたところでは、爆撃のできない夜間にホー・ルートを修復し、輸送を続けたという。

さらにこの当時、中立カンボジアのシアヌーク殿下がカンボジア領の一部をホー・ルートに使わせていたことから、米軍はカンボジア領の爆撃も辞さなかった。さらに1970年4月にはシアヌーク殿下の外遊中、親米派のロン・ノル将軍をそそのかしてシアヌーク追放のクーデターを起こさせた。これがその後のカンボジアの悲劇をもたらす原因となった。

パリ和平交渉が動いたきっかけは、1972年2月のニクソン訪中という衝撃的なニュースである。北ベトナムの党機関紙ニャンザンは「溺れる海賊に浮き輪を投げた」と論評して、中国の対米接近を酷評した。こうして中越間に大きな隙間が生じさせたのは、1960年代を通じて表面化した中ソ関係が決裂したのを見たニクソン・キッシンジャー外交が米中接近を策し、毛沢東・周恩来チームがそれを受け入れたためである。

かくて1972年春から、パリ郊外数カ所の隠れ家でキッシンジャー米国務長官と北ベトナムのレ・ドク・ト労働党政治局員による秘密交渉が始まった。これこそが本当の和平交渉だった。秘密交渉は結局、1973年1月27日調印のベトナム和平パリ協定に帰結した。協定は停戦と米軍の完全撤退を取り決めたが、ポイントは南に北ベトナム軍が残留することを認めたことである。

これを知ったサイゴン政権のグエン・バン・チュー大統領は烈火のごとく憤ったが、米国の決定には逆らえなかった。パリ協定はまた南の2つの政府がさらに交渉を続け、南ベトナム国内の和平を維持することを取り決めていた。両政府代表団は米軍全面撤退後もパリで交渉を続けていたが、その内容は全くの不毛な論議でしかなかった。

やがて1975年3月、北ベトナムの大軍が17度線を越えて南下し始めた。入念に準備された「ホーチミン作戦」の展開であった。米軍が残したおんぼろ兵器で装備したサイゴン政府軍はさしたる抵抗もせず、北ベトナム軍は破竹の勢いでサイゴンに迫った。4月30日解放戦線の旗を掲げた戦車隊がサイゴンの大統領官邸に入場、サイゴンは最終的に解放された。

これが15年間、アメリカ兵の戦死・行方不明者6万人、南北ベトナム軍民の死者200万人という悲惨な戦争の結末であった。

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