ネイキッド・タンゴ -アルゼンチン現職女大統領はテロリスト?-

 アルゼンチン・タンゴを踊るのは、そんなに難しくありません。 が、あの隠微な艶めかしい踊りはできません。 ところが、「男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まり」と、アルゼンチンタンゴ・ダンス協会のタンゴ史がタンゴの極意を教えてくれました。 同史には、「1880年頃、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでは新天地を求めて来た移民がひしめき、さまざまな人種が共存し、フラストレーションのはけ口としてタンゴが流行った」ともあります。 納得! ヌレエフとダウエルが踊る男のタンゴが、映画<ネイキッド・タンゴ>の男たちのタンゴが、<ロス・エルマノス>兄弟のタンゴが、軽妙洒脱で安っぽい理由は、移民の国アルゼンチンに来た荒くれ男たちが生んだダンスだからなんですね?!

(1) アルゼンチンの輝くタンゴ女性ダンサーたち:
アルゼンチンのファーストレデイー・エバ(1919~1952)は私生児として生まれ、15歳で家出をした、タンゴダンサーだった。 軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロンに見初められ、彼の二号となる。 学はなくても商才と政才に長けていたエバは、第二次世界大戦下の中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いだ。 が、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと親しかったことから、大戦後にはファシストの一員と見なされた。 しかし、1946年3月28日に旦那のファン・ドミンゴ・ペロンがアルゼンチン大統領に就任すると、ファーストレデイーの座を確保し夫をその下に敷き、国政を実行支配するようになった。 婦人部門を組織させ女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立したりして、立身出世のタンゴダンサーは国民の女神になった。 が、1952年に33歳で子宮癌で死去する。 旦那のペロンは1955年にスペインに亡命し、またまたナイトクラブのタンゴダンサー、イサベル(1931~)と再婚する。
 タンゴダンサー・エバの出世物語は、<エビータ>というミュージカルになりマドンナ主演で同名の映画も作られた。 主題歌「Don’t cry for me Argentina(アルゼンチンよ、私のために泣かないで)」を聞いてみてください。

c1ae155ed691c33370aae60c557021ca[1]-02

 エバやイサベルが輝いていた1950年代のアルゼンチンで、男どもは尻に轢かれっぱなしだったのかな? いやいや、この時代に輝いていた男、チェ・ゲバラを忘れてもらっては困る、、
 ゲバラ(1928~1967)は、1953年に通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得した。 が、エバが仕切るフアン・ペロン大統領下で軍医になることを嫌い、アルゼンチンを去る。
1956年、メキシコ亡命中のフィデル・カストロと弟のラウル・カストロに出会い意気投合し、従軍医としてキューバ独立闘争に参加することを承諾する。 グランマ号(10人乗りのヨットに82人)でキューバに上陸し、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に参加した。
1959年にキューバ革命が成功した後は、キューバの国立銀行総裁となる。
1959年に広島を訪問した時、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人につっかかったとか?
1961年、故郷アルゼンチンへ8年ぶり(最後)の帰国をするが、滞在時間はわずか4時間だった。 1965年にはキューバを去り、他国の革命闘争に参加する。
1967年10月8日、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ボリビア政府軍レンジャー大隊の襲撃を受け20人足らずの同志と共に捕えられ、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。 翌朝10時、ヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスが「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信し、ゲバラの運命は決まった。[死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められたそうだ。 ゲバラの生涯と思想は、反米思想を持つ西側の若者や、南アメリカ諸国の軍事政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、彼の肖像画は1960年代の後半頃からTシャツやポスターを飾った。

(2) アルゼンチンのユダヤ人
 元祖移民のユダヤ人が, アメリカ大陸最南端のアルゼンチンに目をつけないわけがない。 ユダヤ人の国をどこにするかと、亡命ユダヤ人たちが場所探しをしていた頃、アルゼン
チンもパレスチナやウガンダと共に候補地に挙げられていた。 映画<ネイキッド・タン
ゴの時代は1920年代の移民国アルゼンチンで、欧州から売られてきたユダヤ人花嫁たち
が働く、ユダヤ金持ち用のタンゴ売春宿が舞台になっている。
 移民を受け入れるアルゼンチンは、ユダヤの敵・ドイツのナチス残党にも門戸を開いていた。 数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送する指揮をしたドイツ親衛隊SSの中佐アドルフ・アイヒマン(1906~1962)もそのうちの一人だった。
ユダヤのお尋ね者アイヒマンは、偽名を用いて正体を隠し捕虜収容所から脱出し、1947年初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いリカルド・クレメント名義で国際赤十字委員会から渡航証を入手した。 1950年7月15日、元ナチス党員を中心としたドイツ人の逃亡先となっていた、親ナチスのファン・ペロン政権下にあったアルゼンチンのブエノスアイレスに、船で上陸した。 その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ用心深く生活していた。
1957年、西ドイツのユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、モサド・イスラエル情報機関にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。 直ちにブエノスアイレスに工作員とモサド長官イッサー・ハレルが派遣された。 アイヒマンの追跡が始まり、アイヒマンが結婚記念日には花屋で妻へ贈る花束を買う習慣があることを知る。 
1960年5月11日、花束を抱えたアイヒマンがバスを降りた後、路肩に止めた窓のないバンから数人の男がいきなり飛び出し、彼を車の中に引きずりこんだ。 アイヒマンは当初否定したが、少し経つとあっさり自分であることを認めたそうだ。 アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空機で、5月21日にイスラエルへ連れ去られた。 出国の際に彼は、酒をしみこませたエル・アル航空の客室乗務員の制服を着させられたうえに薬で寝かされ、「酒に酔って寝込んだ客室乗務員」としてアルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。
この逮捕と強制的な出国については、イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議した。
1961年、アイヒマンは人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑に処された。
モサド・イスラエル情報機関は英語で「ISIS」(Israel secret intelligence service)となり、「ISIS」(Islamic State of Iraq and Syria)と同じ頭文字だ。

(3)アルゼンチン現職女性大統領はテロリスト?
エビータ(エバ)の旦那、ファン・ペロンは1973年10月に再び大統領に復帰し、副大統領には3晩目の妻イサベルを就任させるが、1年後の1974年7月に病死する。イサベルは世界初の女大統領になったが、オイルショックで300%を超えるインフレーションに見舞われ、左翼テロと政治的混乱に襲われ、1976年3月24日にはホルヘ・ビデラ将軍のクーデターで失脚した。 イザベルは逮捕され、横領罪で5年間収監された。 その後もイサベルは活動家失踪事件などの容疑を受け、亡命先のスペインで軟禁状態にある。

現職アルゼンチン女大統領クリスティ―ナ・フェルナンデス・キルチネル(1953~)はダンサーではない。 大卒の弁護士で1989年にサンタ・クルス州議会議員、1993年に再選、1995年に上院議員、1997年に下院議員、2001年に上院議員と、、輝くインテリ女だ。 2003年には夫のネストル・キルチネルが大統領になり、2007年の選挙でその夫から大統領職を禅譲され、2010年に夫が死んだ後、2011年の選挙で大統領に再選された。 キラキラと眩しいアルゼンチン女だ。
その輝く女大統領クリスティーナは、1994年に起きたアルゼンチン・ユダヤ人センター爆破事件で真相隠蔽に関与したとして、検察当局により告発されている。 
2015年1月19日には議会で、ユダヤ人センターが爆破された事件に関してアルゼンチンの現職大統領がイランと密約を交わしていたと主張するアルベルト・二スマン検察官(51)が証言することになっていた。
ところが、証言の前日、1月18日に自宅マンションのバスルームで、こめかみに銃弾を受けた二スマン検事の遺体が見つかった。 傍には二スマン検事のではない22口径の拳銃があった。 二スマン検事はユダヤ系アルゼンチン人で、女大統領クリスティーナの逮捕令状を2014年6月14日に作成していた。
2015年3月4日、現職女大統領クリスティーナら関係者8人への尋問請求を却下した下級審の決定を不服とし、アルゼンチンの検察当局は連邦裁判所に抗告した。 が、大統領の直接尋問などの本格的な調べは、主役の二スマン検事が暗殺され暗礁に乗り上げたままになっている。
 1990年代のテロ事件とは、アルゼンチンのイスラエル大使館爆破事件とイスラエル協会爆破事件の2件を指す。 一件目は、1992年3月17日にブエノスアイレスの大使館が攻撃された自爆テロで、死者29人、負傷者242人を出した。
2件目は、1994年7月18日午前9時53分、アルゼンチン・イスラエル相互協会が爆破された事件を指し、死者85人、負傷者300人以上にのぼるアルゼンチン史上最悪のテロ事件となった。 アルゼンチンの裁判所は、レバノンのイスラム教シーア派原理主義組織ヒズボラがイラン政府の命令を受けて起こした事件だったとして、2006年からイランのアリ・アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ元大統領など8人のイラン人の引き渡しを求めている。 が、2004年からこの事件の捜査を担当していたニスマン氏は、アルゼンチンのクリスティナ・フェルナンデス・キルチネル現大統領やエクトル・ティメルマン現外相やカルロス・メネム元大統領(在任期間:1989~99年)などが、イランの石油を安く輸入するために捜査を闇に葬ったと主張し、証拠を固めていたのだ。

世界をお騒がせするアルゼンチン人は女だけではない。 
カルロス ザ・ジャッカル(1949~)という男もいる。 1973年~1984年にかけて14件のテロ事件に関与し、世界中で83人を殺害、100人を負傷させ世界を暗躍して極左テログループを指揮した。 彼は1970年にパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に合流し、1973年にはPFLPの分派組織「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部」(PFLP-EO)に参加し、多くのパレスチナ武装闘争を指揮した。 1994年8月14日にはスーダン警察に逮捕され、フランスに移送され、パリのサンテ刑務所に拘置されているそうだ。
このアルゼンチン男も立派なイスラエルの敵です。
第二次世界大戦の終戦70周年は、日本だけの節目の年ではありません。 ユダヤ人ホロコースト70周年に当たり、イスラエルが何を企んでいるのか?、、戦々恐々としているのは、パレスチナ人は勿論のこと、輝くアルゼンチン女大統領クリスティーナなのではないでしょうか?

文:平田伊都子 ジャーナリスト、 写真構成:川名生十 カメラマン

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5237:150315〕