ハンナ・アレント著 「革命について」 ~アメリカ革命を考える~

   革命というと、恐ろしい。それが多くの人にとってのイメージだろう。また革命と言うと、共産主義のイメージもある。それらのイメージの源はルイ16世をギロチンにかけたフランス革命であり、ロマノフ王朝を倒したロシア革命である。しかし、ドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アレントはその著書「革命について」の中心を<アメリカ革命>に置いているのである。アメリカ、資本主義のチャンピオンを生んだ政変をアレントは世界で唯一の成功した「革命」と見ているのである。独立というだけでなく、あれこそ「革命」だったのだ、と。

  「革命について」の中で、アレントはフランス革命やロシア革命が失敗したのに、「アメリカ革命」がなぜ成功したのかを検証している。それを細かくここでたどることはもちろんできないのだが、アメリカ革命が大きく違っていたのは大英帝国から独立を求めて戦った時に、当時13邦あった植民地のそれぞれが独自の自治を行っていた原点にあるとする。この邦は今でいう州なのだが、建国前はそれぞれが独立していたので国に近い邦という字をあてているのである。

  すでにそれぞれの邦の中に、郡単位で民衆が自発的に産み育てた市民の話し合いの場=「評議会」があったというのである。そうした草の根の政治参加の場=「公的空間」がいくつも同時に存在していたことがアメリカ革命にとって大きかった、と見ているようである。しかも、独立宣言を出した後はそれぞれの邦が憲法を独自に作り出そうとしていた。こうしたローカル組織から生まれた邦ごとの政治体制を、いかに連邦としてまとめていくか。それが連邦憲法を作り、米国を建国する過程だった。

  米国の政治体制の構築で、大きな意味を持った思想家が「法の精神」で三権分立を唱えたモンテスキューだったという。フランス革命にとって最大の思想家がルソーだとすれば、アメリカ革命の最大の思想家はモンテスキューだったとしている。この権力分立の思想こそが米国を強くしたのだと。

  「よく知られていることであるが、権力の分立と均衡の問題以上に、これらの論争で重要な役割を果たした問題はなかった。・・権力は権力によってのみ阻止され、同時に、依然として侵害されないままでありうる。したがって権力分立の原理は、統治の一部分による権力の独占を防ぐばかりではない。それは新しい権力を絶えず生み出す一種のメカニズムを、統治の中心そのものにすえつける。しかもそのばあい、その新しい権力は、権力のその他の中心や源泉に害を与えるほど肥大し、拡大することがないのである。」

  それは単に国家機関の三権分立のみでなく、米国の場合は邦と邦をどう束ねるか、そこにいかなる関係を構築するか。そしてまた、その時、いかにそれぞれのパワーを互いに封殺させず、国の力を増すことにつなげられるか。米国が欧州よりもユニークだったのはこの連邦制の問題を抱えていたことだったという。

  「われわれは権力の分立を統治の三権分立の観点からだけしか考えないので、問題のこの側面はたいてい見過ごされている。しかし、創設者たちの主要な問題は、十三の「主権」、すなわち正式に構成された十三の共和国をどのようにして結合させるかという問題であった。つまり彼らの任務は、モンテスキューから借りてきた当時の言葉を使えば、外交問題における君主政の利点と国内政治における共和主義の利点とを調和させるような「連邦共和国」の創設であった。・・・連邦の権力と、その部分である正式に構成された州権力が互いに減じあい、滅ぼしあうことがないように、抑制と均衡が作用するような権力のシステムを樹立するという問題であった。・・・理論の次元で、その最大の擁護者はジョン・アダムズだった。彼の政治思想全体は権力の均衡を中心にしていた。」

  政治のすべての段階に権力の均衡が楔のように打ちこまれている。だからこそ、1つの権力が肥大した時に、それを復元するバネのような力を発揮しうるのである。それぞれがパワーを抑制するのではなくそれぞれがパワーを最大限に発揮することで、権力の均衡も生まれる。

  これらの権力は下から積み上げるものである。だからその最も身近な権力は草の根の市民の会合である「評議会」に支えられていた。アメリカ革命が成功したのは単に君主から権力を奪う、ということでなく、すでに植民地であった1つ1つの邦の中に、権力の内実が生まれており、それが独立と連邦制に加盟することによって米国の権力を下から生んだことなのだ。だからこそ、フランス革命やロシア革命のような一部の革命家によって権力が簒奪される、独裁政権の樹立にならなかったと見るのである。

  アレントによれば、フランス革命でもロシア革命でも自治を目指す評議会の萌芽があった。彼らは下からの力で革命を進めたにもかかわらず、後から職業的革命家たちによってその権力を奪われてしまった、とする。しかし、アレントは革命に唯一成功した米国においてすら、建国の下地になった評議会の可能性を十分に伸ばすことができなかったと見るのである。評議会の可能性を誰よりも知っていたのは建国の父、トマス・ジェファーソンだったと書いている。

  「もしジェファーソンの「基本共和国」の計画が実行されていたら、それはフランス革命のときのパリのコミューンのセクションや人民協会にみられる新しい統治形態のかすかな萌芽をはるかに凌駕していただろう。・・・このような評議会が現れるばあい、それは、きまって人民の自発的機関として生まれ、すべての革命政党の外部に発生するばかりか、党とその指導者のまったく予期に反して姿を現した。しかし、ジェファーソンの提案と同じように、このような評議会も、政治家、歴史家、政治理論家によって無視されただけでなく、もっとも重要なことは、革命的伝統によって完全に忘れ去られた。はっきりと革命の側に同情を寄せ、人民評議会の出現をその物語の記録のなかに書かざるをえなかった歴史家でさえ、それを革命的な解放闘争における、本質的には一時的な機関にすぎないとみなした。つまり彼らは、評議会制がまったく新しい統治形態、つまり、革命そのものの過程で構成され組織された自由の新しい公的空間、をどれほど自分たちの面前に突きつけていたか、理解できなかったのである。」

■ハンナ・アレント著「革命について」(志水速雄訳、ちくま学芸文庫)

■ハンナ・アレント(Hannah Arendt 1906-1975)
 政治哲学者。ドイツのユダヤ人の家庭に生まれ、ナチスドイツの台頭によりフランスを経て、1941年にアメリカに亡命した。主著に「全体主義の起源」がある。そのほか「エルサレムのアイヒマン」、「人間の条件」、「暴力について」、「暗い時代の人々」などがある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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