バラク・オバマは広島に何しに来るのか ― 憲法記念日に原爆投下を考える ―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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 オバマ米大統領が2016年5月の伊勢志摩サミット出席のついでに広島を訪問するという。
被爆者を含む多くの日本人がそれを歓迎していると報道されている。
81歳の一日本人である私には、なぜそうなるのか理解できない。「そうなる」とは、オバマが「謝罪なしに広島訪問すること、日本でそれを歓迎するムードが起こる」ことである。
常識的で市民的な感想を述べたい。

《オバマの核兵器廃絶の建前と米国民の原爆投下正当論》
 核兵器の廃絶は世界の世論であり人類の悲願である。
核兵器はなぜ廃絶すべきなのか。それは非人道的な兵器だからである。非人道的な兵器として認識されるようになったのは何故か。米軍機による広島と長崎への原爆投下が、無辜の人々を一挙に大量に虐殺したからである。
投下だけではない。原水爆の実験によっても米国を含む各地に犠牲者が出たからである。全面核戦争が起これば人類の滅亡につながるからである。
核兵器の使用は「人道に対する罪」、「平和に対する罪」を犯すことである。第二次大戦後に、勝利国側が「創設」したこの二つの罪に該当する。私は個人的にはそう考える。

 しかし米国は広島と長崎への原爆投下を正当化している。
様々な変奏はあるが、私が理解している米国の正当化論理は次の三つである。
一つ 日本本土上陸作戦で想定される米軍と日本軍民の数百万人単位の死者発生をそれ以下の最小数にとどめた。
二つ 原爆開発に費やした巨額のコスト(=税金)に勝る効用を米国民に示すためである。
三つ 戦後の仮想敵国たるソ連に対する米新戦力の示威であった。
更には、戦勝のためには手段を選ぶ必要はないとする一般論もあるだろう。

 米国の戦略爆撃調査団は、戦中から戦後まで日本への空爆の破壊力、被害の大きさを細部にわたり徹底的に調査した。戦後に発表された報告からは、1945年時点における日本の国力は、戦闘どころか、政府は生存に必要な食糧さえ国民に供給できない状況だったことがわかる。米国でも、アカデミズムでは原爆投下は正当化されないのが通説という。
それはB29爆撃機や米空母艦載機の空襲を経験した私の世代の常識でもある。正当化論は、米国政治家と国民の大勢が支持してきたが、若者層では反対論が増えているとの報道もある。

《往事の正義が再定義されるのは希ではない》
 この前提に立てば、世界の指導者が原爆被爆地を訪れ惨劇の事実を知り反核意識を深めて犠牲者を追悼するのは望ましい。これは一般論であって、米国大統領の場合は別である。彼は追悼の前に「謝罪」が必要である。これが私の考えである。

 オバマは2009年のプラハ演説で、米国が率先して核兵器のない世界を追求するとの決意表明をして、同年のノーベル平和賞まで獲得した。彼は自国の爆撃機が70年余前に投下した広島を訪れる。そのときに原爆資料館や原爆ドームを見て記念碑に献花するだろう。しかし哀悼と鎮魂では済まない。ノーベル賞に至る演説の精神と謝罪は矛盾しない。むしろ謝罪が論理的な筋道である。米国の世論を超えて、指導者として当然の論理であり心理である筈だ。

 往事の正義が今日では犯罪と認識され、謝罪で償われることは少なくない。
1992年に、米ブッシュ大統領(父)は、太平洋戦争中の「日本人の強制収容」の非道に対して陳謝した。生存者には賠償金も払った。2008年、米下院本会議は奴隷制と黒人差別への謝罪決議をしている。
私は戦争への謝罪を要求しているのではない。原爆投下への謝罪を要求しているのだ。
原爆の地獄のなかで「仇を取ってくれ」と言いながら死んでいった者たちがいる。成仏できなかった彼らも米首都に原爆を落とせといわぬであろう。彼らは米国人に対して虚妄の正当化論をやめて謝罪せよと言っているのである。彼らが幽界から戦後日本を見ていれば、東京裁判では不問とされたが、遅すぎた「聖断」への謝罪をも望んでいるのであろう。

 オバマの広島行きに関して歓迎色だけが日本全体を覆っている。
メディアを見聞しても謝罪論を一つも見ていない。日本の外務大臣は「オバマは謝らなくてもいい。広島へ来てくれるだけで有り難い」との意を米側に伝えたという。
「押しつけられた」憲法を改正して、「戦後レジームからの脱却」をうたう安倍政権とその支持者に問う。核廃絶を追求しながら原爆投下を謝らないバラク・オバマを歓迎する理由を教えてもらいたい。「原爆投下は正当」は「戦後レジーム」の言説である。大東亜戦争下の「大日本帝国」は、B29による都市への無差別爆撃と原爆投下に対して米国に対して強い抗議を表明していたのである。

《常識的で市民的な感想だが》
 以上は「常識的で市民的な感想」のつもりで書いた。
この考えについて何人かの知人・友人に意見を求めたが全面賛成者は皆無であった。私の考えは「常識的で市民的」ではないのだろうか。(2016/04/29)

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