高村薫の連載「作家的覚書」のタイトルは、「2016年のヒロシマ」であった(『図書』、岩波書店、16年8月号)。
彼女はオバマ米大統領の広島訪問を、「私にはひどく不思議に感じられた」と書いている。私(半澤)は、高村のわずか一頁の短文に共感するところが多かった。その一部を抜萃して紹介する(■から■)。文章全体の三分の一ほどになる。
■一日本人として、大きな違和感とともに、「なぜ」と自問せずにはいられなかった。なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか。なぜ、誰ひとりとしてアメリカの原爆投下を非難しなかったのか。
戦時下とはいえ一般市民が史上初の原子爆弾の実験台にされ、想像を絶する地獄絵図を味あわされたことの怒りと恨みは、戦後の平和の下で行き場を失っただけで、けっして消え去ってはいない。そう思い込んできた私にとって、抗議行動どころか歓迎ムード一色だったオバマ氏の広島訪問は、いろいろな意味で戦後の日本人の在り方への思いを揺るがすものとなった。
ヒロシマ・ナガサキは核兵器の悲劇のシンボルとなる一方、苦しみの主体だった被爆者たちと日本人の怒りは漂白され、核兵器廃絶の理想を語る言葉だけが踊る。核のボタンを持参して平和公園に立ったオバマ氏と、怒りを失った被爆地の姿が、くしくも核兵器に溢れた世界の現実を表している。■
(2016/07/30)
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