バルビュスの『地獄』からの省察―東洋的虚無思想とニヒリズム(その1) 合澤 清

はじめに

2月8日の衆議院議員選挙で、自民党が単独で3分の2を超える勢力になった。どうしてこんな結果になったのだろうか。その理由はいろいろ言われている。高市早苗個人の人気に便乗した人気投票だ、とか「中道連合」という性格の曖昧模糊とした選挙対策用の急作りの政党をでっち上げたことにより、野党票がそのまま自民党に食われてしまったからだ、等々。

なるほど、しかしそれらの解釈からは、世相がなぜ「軍備・軍事拡大」の方向にシフトしたのかは不明だ。それで思い当たったのは、もうかなり前になるが、現存社会に失望した一青年が、あるインタビューに答えて、「希望は戦争」といっていたことである。社会の貧富の格差は、愈々拡大する一方で、物価高にあえぐ庶民の生活苦は日ごとに窮迫の度を増している。将来に絶望し、「もうどうでもよい」と投げやりの考え方が蔓延してきているのではなかろうか。これは一種不気味なニヒリズム(虚無思想)である。

ヘッジ・ファンド界の大物レイ・ダリオは、今の日本は「教科書的といえる長期衰退段階にある」という。そしてその主要因は、「この国に蔓延する無力感」であると暴き出す。

ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)の公然たるクーデターの企てを支持したフランス国民、普通選挙でナチ政権樹立を承認したドイツ国民、そして2.26事件の背景にある農村の貧困、などが頭をよぎる。なぜこういう事態が生まれたのか。こういう事態の招来を必然たらしめた社会要因には、今日の日本社会と通底しているものがあるのではないのか。

こういう連想の中で思いついたのが、「バルビュスの『地獄』を『金瓶梅』(あるいは『紅楼夢』)などと比較しながらニヒリズムを考えてみたい」ということであった。

同じように「ニヒリズム」と仮に呼んだとしても、この両者の間には確然とした違いがある。しかしまた、同じように「ニヒリズム」と呼びたくなるほどの同一性も確かに見いだせるように思う。

とりあえず話の糸口として、バルビュスの『地獄』(と『金瓶梅』)についての簡単な紹介から始めたい。

『地獄』アンリ・バルビュス作 田辺貞之助訳(岩波文庫)

著者アンリ・バルビュス(1873-1935)はフランスの小説家である。彼は高等学校の時代に、英語を象徴派の詩人「ステファーヌ・マラルメに、哲学をベルグソン及びピエール・ジャネに習った」という。彼を有名にしているのは、小説家であるということ以外では、反戦平和運動家で反ファシズム人民戦線の主唱者としてである。1923年、共産党に入党し、最後はモスクワの病院で病死している。

この1908年作の小説は、地方出の主人公(語り手)が、たまたま宿泊したホテルの部屋の壁の一部が壊れていて、そこから隣室の有様がのぞき見できることから展開される。と、こう書けばおそらく大半の方は「のぞき見趣味の猟奇小説」を想像するであろう。実際にこの小説が発表された当時のフランスの読者にもそのように受け取って飛びついた人たちが多くいたそうである。しかし、それを期待した読者にはまことにお気の毒であるが、然にあらずだ。もちろん、濡れ場が皆無というのではないが、それすらさらっと触れられているに過ぎない。大方は、語り手の自己内反省、隣室の事件(何組かの登場人物たちが織り成す人生模様、やり取り)に仮託した彼自身の実存的な煩悶から構成されているのである。

そしてそこに、この書の翻訳者田辺貞之助は「ニヒリズムを深く推し進めた絶望文学」(解説)を看取しているのである。この小説は「人間の醜悪さを描いた」自然主義小説と一般的には解されているようだが、私(=評者)には、むしろ象徴派的な内省小説と思える。

『金瓶梅』笑笑生作 小野忍・千田九一訳(岩波文庫)(平凡社「中国古典文学体系」)

実は『金瓶梅』については、昨年の8月24日、9月2日、29日と3回にわたって「ちきゅう座」に小論を書いているので、それらをご覧いただきたい。〔opinion14396 250824〕〔opinion14412:250902〕〔opinion14449:250929〕

ここではストーリーの詳細にはほとんど触れずに、『金瓶梅』のニヒリズムについて、とりあえず述べたい。薬商の西門慶は、幸運に恵まれて一世の大富豪に成り上がり、権勢をふるい、贅沢三昧、道楽三昧を重ねた挙句、さらなる女遊び・快楽追求のために手に入れた強精剤の服用過多であえなくその一命を落とすことになる。彼の死後、さしもの大富豪の家産は凋落、それとともに今まで彼を取り巻いてちやほやとおもねり、諂っていた周囲の者たちも手のひらを反す如くに離反する。ここに「人間模様=権勢や富貴のはかなさ、虚しさ」を透見するというのがこの小説の含意する「ニヒリズム」である。ここには東洋的な、仏教や老荘思想に象徴的にみられる「無常観」「虚無思想」がある。

この点、『金瓶梅』よりも後の作である曹雪芹の『紅楼夢』の方がもっとはっきりしている。ここでは、物語の主人公である賈宝玉は出家することになるからだ。しかもそれで終わりなのではなく、実はこれらの物語世界そのものが「虚の世界」に他ならないという「否定の否定」のカラクリが仕掛けられている。(興味のある方には昨年10月12日の〔opinion14469:251012〕をご参照願いたい)

「ニヒリズム」とは何なのか(

ニヒリズムといえばすぐに思い出すのは、ツルゲーネフの『父と子』の中の有名な会話である。

以下、岩波文庫から抜粋して引用する。

「―あの男はニヒリストです―とアルカーディはくりかえした。

―ニヒリスト―とニコライ・ペトローヴィチは言った―それは、わしの判断するところでは、ラテン語のnihilつまり虚無から出ているようだな。するとその言葉は、つまり…その、なにものをも認めない人間をさすんだな?

―なにものをも尊敬しない人間といった方がいい―とパーヴェル・ペトローヴィチは口を入れて、またバターの方にとりかかった。

―つまりすべてのものを批判的見地から見る人間です―とアルカーディが言った。

―それは同じことじゃあないか?とパーヴェル・ペトローヴィチはたずねた。

―いえ、同じことじゃありません。ニヒリストというのは、いかなる権威の前にも屈しない人間です。まわりからどんなに尊敬されている原理でも、それをそのまま信条として受け入れることはしないんです。」(岩波文庫p.36)

「―われわれは有益だと認めたものによって行動するんです―とバザーロフはひくい声でいった―今は否定が最も有益だから、それでわれわれは否定するんです。

―なにもかも?

―なにもかも。」(同書p.82)

「―役に立つか、立たないか、それは我々のきめるべき問題じゃありません。あなたにしたって、自分のことを、無用な人間だと考えているわけでもないんでしょう。」(同書p.84)

「―それがニヒリズムというんですか?

―それがニヒリズムというんです―と再びバザーロフはくり返したが、今度はとりわけて不敵な調子であった。」(同書pp.85-87)

ツルゲーネフがここで描いたバザーロフのニヒリズムは、なるほど、いかなる権威といえどもこれを認めず、自己にとってそれが有益かどうかが行動の判断基準となる。つまり、たぶんにインテリの思い上がった独りよがりのものと考えられる。それ故に、この小説の最後で、一介の土(どん)百姓に軽くあしらわれてしまう。つまり地に足がついていない軽薄な抽象論がバザーロフのそれだ。

「ニヒリズム」とは何なのか(

『地獄』というこの小説には何組かのいわくありげな男女あるいは医者(師弟)などが登場する。それらの人々の葛藤を機縁として語り手の心情がさまざまに展開される構成になっていて、一種オムニバス風でもある。少々長ったらしくてしつこいと思われるかもしれないが、流れをたどって追思惟してみたいと思う。

『地獄』という小説は、主人公(ぼく)の次のような実存的なモノローグから始まっている。

「…むかしから、生まれてこの方、ぼくはなにをしただろう。しかもすでに人生の下り坂にある。ああ!あの角笛のしらべがぼくに過ぎこし方を思い出させたために、まるでぼくにとっていっさいが終わったように、自分が生きていなかったように思われ、失われた天国のようなものがしきりに恋しい。

だが、たとえ泣いて祈ろうと、向かっ腹を立てようと、なんのたしにもなるまい。ぼくは今後は幸福にも不幸にもなれないだろう。ぼくは生まれ変わることができない。数知れない人々がここで暮らした名残をとどめながら、誰ひとり自分の痕跡を残したもののないこの部屋に、今日こうして落ち着いているように、静かに年老いてゆくことだろう。」(p.11)

この実存的な独白には「東洋的な虚無感」が感じられないだろうか。この「世の中のはかなさ、虚しさ」という感覚が、実際にこの小説全体を覆うベースになっている。

例えば、隣室の男女の睦事をのぞき見しながら語り手は次のように反問する。

「世のすべての恋人たちはみんな同じだ。彼らはふとしたことから、慕いあうようになるのだ。偶然出会って、互いの顔形にひきつけられ、狂気に類した烈しい好みで、互いに相手を買いかぶる。そしてイリュージョンを現実だと確信し、しばらくのあいだ、嘘を真実に変えるのだ。」(p.107)

華やかに燃え上がる恋の灼熱の炎も、実際には二人の間の幻想でしかなく、真実の交情(両者の統一)には結局到達しえないのだ、という人間の悲哀が冷たい眼で観察され反省されている。

ニーチェが「神は死んだ」というとき、これは終局的な権威の否定であり、まさにニヒリズムであると言われる。外部に一切の権威など認めようとせず、あくまで「自己内反省」に沈潜しようとする。

「本能を導く高遠な永遠の観念…その時、男は生きるためにはその女を殺さなければならないような、それほど悲劇的な執念に駆り立てられるのだ。この人間の危機―神もその傍らでは無益に見える―この危機を上から見下ろす立場におかれたぼくには判っている。自分とは無関係だと思っていることも、多くはわれわれのうちにあることが、そしてそこにこそ人の知らない秘密があることが、ぼくには判っている。ヴェールがひとたび落ちれば、いかに万事が単純になり、単一になることだろう!」(p.115)

「…《一切が逃げ去るのですもの、人間は独りぼっちです》」(p.128)

「絶対的な隔絶・孤独」というのが「自己内反省」の根拠である。

この書の第Ⅷ章では、人間の一生のはかなさ虚しさが切々と語られ、まるで荘子の「胡蝶の夢」のヴァリエーションをみているようである。そしてこの「無常」観からは誰も逃れえず、時の過ぎゆくままに、やがては年を取り、この世から消えてゆく、この絶望的ではあるが厳然たる事実、先述した「絶対的な隔絶・孤独」の事実こそがまさにわれわれの「地獄」なのである。そして人間には、これを認め、諦観する以外に道はないのである。

「まず避けるに避けられない動物的なことの数々。子供が生まれる。産声は悲嘆の叫びだ。その叫びは、何にも知ってはいないのに、万事を知り尽くしているようだ。それから病気、苦痛、自然の無関心な沈黙の餌食でしかないあの痛ましい悲嘆のすべて、朝から晩まで戦わなければならない労働。それも年を取って力が尽き果てたときに、一握りの金をつかんでいるために過ぎないが、その金も廃墟の山のようにあえなく崩れ去ってしまう。あらゆることが、汚い排泄物や、身体の汚れや、埃の積もり積もった垢まで、われわれを狙っており、これに対して絶えず身を清めなければならない。…。」(pp.148-9)

Ⅸ章では時の移ろいやすさ、その一方で、思い出という観念の中での確固不動な姿形、思い出の中では過去の景色が現実以上に生々しく、色褪せずに現れることが、瀕死の老人の口を通して語られる。そして「死」そのものよりも「死の観念」が怖いという言い方のうちにも「自己内反省」が色濃く表現されている。

後で触れるが、カミュの『異邦人』にも似た、どこまでも孤立した自己の実存が基軸におかれている。

Ⅹ章の二人の医者(師弟)の会話も興味深い。若い方の医者は明らかに社会的悪(貧富の格差)の方に目を向けている。年寄りの方は、そのことを経験したうえで、すでにある種の諦観に達している。世間に目をつむり、自分の専門分野だけに逃げ込みたいとひたすら考えている。

「そうだわしは知っとる、知っとる、知っとる、よく知っとるよ。人間はこみいった議論や特殊な事例に迷い込んでいるが、わしがこれから言おうとすることの絶対的な正しさは、どんな力の前にもこゆるぎさえしないということを、わしは知っとるんだ。つまりだね、あるものを裕福に、他のものを貧困に生まれつかせて、社会に慢性的な不平等を持続させる法則がこの上もない不正なことで、これは昔奴隷の民族をつくった法則と同様に根拠のないものであることさ。それから、愛国心が偏狭で攻撃的な感情となり、それが存在する限り、恐ろしい戦争と世界の疲弊とが続くということ、更に、労働も、物心両面の反映も、進歩の持つ高尚な微妙さも、芸術のすばらしさも、どれもみんな憎悪に満ちた競争を必要としない―いや、その反対に、そういうものはみんな武器を食らえば粉砕されてしまうのだ。…」(pp.205-6)

先に紹介したツルゲーネフの小説中のバザーロフのニヒリズム、それに対する百姓の強烈なパンチは、ここでの大砲の弾一発に等しい。

「『自然か!』老人(年寄りの医師)は冷ややかな笑いを浮かべた。その冷笑はぼくをぞっとさせた。『自然は憎い奴だ。悪い奴だ。病気も、自然じゃないか。すべて異常なものが避けられないとすれば、異常なものこそ正常なんじゃないかね』だが、彼は自分の敗北に心が和んで、こう付け加えた。『自然は何でもうまくやるっていうのか。ああ!それはつまるところ、不幸な人間の言葉だ。こんな言葉を口にしたものを恨むべきではない。彼らは掟とか宿命とかいう種類の感情で自分の目をくらまし、自分を慰めようとするのだ。彼らがこうした感情を大声で口にするのも所詮はそれが真実ではないからだ』」(pp.211-2)

XⅢ章では瀕死の老人(フィリップ)が、その若い妻アンナに自分の過去の一つの事件を話す。それは若いころの恋人同士が睦まじく彼の作った詩を読んで感激しあっていた頃の思い出から始まる。その幸せは彼女の死によって打ち切られるが、彼はなおも詩作を続けている。しかし彼女の死後は一つとして満足な詩が書けない。うつうつとしながら思慮を巡らせた末、彼女の遺骸とともに埋めた自分の詩こそが最高傑作だったことに気づく。そして彼女との誓いを破って、彼女の遺骸を掘り起こし、その詩文を取り返す。改めてそれを読んで、しかしがっくり来る。冗漫で平凡な試作でしかなかったのだ。

ノヴァーリスを思わせるある種幻想的な個所である。かつて誰も見た者のない「真理の神の祠」を、艱難辛苦のうえ探し当て、その扉を開く。彼がそこに見たものは―じつに彼自身に他ならなかった。

この小説(『地獄』)は次のようなぼく(語り手)の自省的独白で完結する。

「さっきぼくの感じた静かな生活への夢は、ぼくとは縁の遠いことであるために、ぼくをひきつけ誘い掛けたに過ぎない。たといそういう生活に入ったとしても、またほかの生活を夢見るだろう。何しろぼくの心は夢のようなものなのだから。」(p.317)

少なくとも、この小説で展開されているニヒリズムが、他者との関係性から抽象された特殊・個別性の世界での反照(Reflexion反省)においてあることは了然であろう。

                                                                        つづく

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14691:260219〕