1%の最富裕層、2016年までに世界の富の半分以上を独占へ=調査
ロイター 1月20日(火)19時5分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150120-00000103-reut-int
ピケティパリ白熱教室が、全6回で開始されています。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/paris/index.html
ピケティ「私の本は、資本論よりは、具体的で読みやすいでしょう。マルクスの時代は、データーが集められず概念的でした」
概念的であるマルクスへの批判は、マルクス自身の研究がヘーゲル哲学から開始されたこともあり、批判的にこれまでも語られてきた様に思います。
それ故に、資本論の読解は、本来、読まれなくてはならない大衆や人民には、広がらず、学界のみのある意味特権的な領域に留まると同時に、中国共産党もかつてのソビエトも新しい特権階級化は、あるべくして暗礁として真の社会運動の広がりを阻んできたように思います。
21世紀の貨幣論~商品貨幣説の最終的廃棄(1/24世界資本主義フォーラムレジュメ)
https://chikyuza.net/archives/50113
1月24日世界資本主義フォーラム 私のマルクス経済学改造論 その3
https://chikyuza.net/archives/50126
マルクス研究会が、上記の様にあるわけですが、それが、古典経済学批判であるのかマルクス経済学批判であるのかあまりに資本論や宇野理論の細部に入り込んだ議論となってしまっており、マルクス主義運動の内側へのアピールとしかなっておらず、今の一般学生やら本来、伝えたいとする労働者大衆一般にとって読み取れる文章となっているのだろうか?
その様な疑問がいつもつきまとっているわけです。
宇野経済学については、遅ればせながら少しづつでもこれから読んでいけたならと思ってもいるのですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
時間の制約もあり、また、千年生きる人生でもない為に、細かなところを捨てて、現代やピケティ的成果より、資本論そのもの、そして、「社会主義運動の根本」とは何かを刷新する方が、良いのではないだろうかと考えてしまわずにはいられません。
新しい創造に辿り着くには、過去からも学ばなくてはならないのですが、
混乱して枝葉の問題となってしまい、大前提を見失った学習会であっては、それぞれが、セクト化していくだけであり、それによって、革新政党の衰退、安倍自民党の政治の席巻となってしまっている状況に危機感がなさ過ぎるなら誰の心にも届かず、大衆労働者の理解にも届かないままである事の打開となれずに、同じプチブル的日常として、特権的階層的学界の領域の延長とコンプレックスを広げるだけにしかならない「持てるものは、持たざる者へと手を差し伸べられる」社会運動として、教育の再生産を明確にしていかねばならないと感じているのです。
2015年度より、ピケティ『21世紀の資本』の普及もあり、真に刷新した新しい社会運動と学習研究会の場を、内側だけではなく、外へ、大衆労働者と広げるのでなくてはなりません。
さて、『21世紀の貨幣論』に目を少しでも通してから語る時間の余裕もないのですが、
「商品貨幣説の最終的廃棄」は、マルクス「資本論」にとって致命的となるのかどうかが判然としていない様に思います。
宇野経済学については全く知らないので、そこからの問題意識であるのか?
「同書はもちろんマルクス経済学の批判をこととしているのではなく、アダムスミス以来の古典派~現代主流派経済学の通説ともなっている、商品交換からその不便さを解消するために特定の商品が貨幣となったという神話に対する反証を、貨幣の歴史をたどることで推し進める。」
「貨幣が財貨や貴金属といった実体ではなく、そもそもの初発から支払い約束の連鎖、すなわち債権債務関係という信用システムそのものであると喝破した点は大いに共感できるところであり、最初に資本論の貨幣生成論の金本位制廃棄と理論的な反証を補強してくれるものと評価できる。」
「手形流通に基礎を置く商業信用と、その債権債務関係の結節点としての銀行による信用創造、銀行の銀行として手形の再割引を公定歩合の操作によって調整し、債権債務の社会的な最終集約点である中央銀行、少なくともこの立体的な構造体の作動を明らかにするところから、貨幣・信用論の再構成がはじめられることが、現代資本主義切開への第一歩が踏み出されるのではないか。」
一見、商品貨幣説の廃棄が、「資本論」の致命的乗り越えとしての展開としての説明ではなく、現状追認としての金融資本主義、カジノ資本主義としての追認に終わっている様に思えるところが物足りない。
現状追認であっては、なんら、マルクス運動としての「資本論」活用でもなく、刷新でもない、新しい提案を示すことなく、主張は、おわるのだろうか?と不安にならないでしょうか?
経済学が、数字のマジックとなってから久しく、それを打開して、実体経済にあった貨幣論として、再体系化の序説であるなら意義があるのですが、現状追認的知的言葉の遊びとなってはならないのではないのか?
その様に、学習会の今日的閉塞を感じずにはいられない今日この頃なのです。
冒頭の格差、問題。ピケティ『21世紀の資本』の普及から更に、刷新する「概念的」ではない『資本論』体系の刷新としての創造性を共有できる研究学習会そのものを変えていかねばならないその為の意見交換の場を「ちきゅう座」的にも開始してほしいと感じているわけです。