ピケティ『21世紀の資本』から新『資本論』体系化刷新について(その2)

日本は、知らぬ間にルビコン川を渡らされてしまっているようです。

この安倍晋三総理の失策は、重大であり、明確にしていかねばなりません。イスラム国と日本について更に見守りながら。

それはさておき日本内部の日常についての学習会はどの様にあるべきか?連帯の可能性はどの様にあるのかを今回も考察していきたいと考えます。

 

副題:資本論学習会は如何にして復興されるのか?

 

再び、以下のこの内容について考察を加えていきます。

1%の最富裕層、2016年までに世界の富の半分以上を独占へ=調査(ロイター 1月20日(火)19時5分配信)

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150120-00000103-reut-int

 

具体的に、日本の社会における1%とは何であり、99%の人々の連帯と可能性とは何かについて仕上げなくてはなりません。

それが現代資本論の再編成としても重要な作業の様に感じています。

わかり易い資料がこちらにありますので掲載してみます。

 

安倍総理殿、自腹を切って身代金を払ってください!

https://chikyuza.net/archives/50224

 

「安倍一族の資産は25億円以上」

「上位1%の平均資産は1人当たり270万ドル(約3億2000万円)という。」

明らかに、安倍氏は、1%の最富裕層以上である事がわかります。

 

本来は、99%の人々において、独自に民主主義会議を持つこと、政党を明確に、資本主義の原理に基づき利害に即して、再構成しなくてはならないはずです。

しかし、問題は、利害や利潤とは何か知らされていない事の問題があるのであり、それを研究すること、イコール政党として再構成するだけで真の民主主義に近づくのではないかと考えるわけです。

日本の教育制度ではまだまだ民主主義的成熟において不十分であることは、インターネット上のヘイトスピーチ的横行や政治的無知、投票率の低下問題などなどをみても明らかです。

若者非正規労働、子供の貧困率問題は、教育問題的にも深刻であり、本来、人の交流の中から、水や空気の様に手に入れられて然るべき知恵も金銭的な貨幣的な関係の中で、阻まれている事を最大限に訴えていかねばならないのです。

 

その為に、「資本論」研究を焚き付けることは重要な要素と考えていますが、新しくわかり易く書き換えていく必要性も感じていると言うわけです。

資本論は、ピケティ氏が述べるように、「概念的でありわかりづらい」そのままに置き去りにされている問題点がある事を前回、第一の指摘としていたわけです。

 

このシリーズ(『21世紀の資本』と資本論刷新)を時間の許す時に少しづつ、2015年度の学習会の問題意識として展開していきますが、時間がなかなか取れない事もあり、一気に書き上げられずにいる事が残念でなりませんが、仕方がありません。

 

「21世紀の貨幣論」学習会は、とても有意義な内容でした。

 

そもそも資本とは何か?を考えているわけですが、貨幣論のみを如何にして抽出出来るのか?

商品貨幣論から信用貨幣論へと言う事でしたが、商品と信用の差異とはなんであるのかな?と言う疑問を持っていたわけです。

 

それについても語りたいものが山ほどありすぎて時間が取れないので次回に回さざるをえません。

 

更に、横たわる問題意識を話し合いました。

(一)世代継承について

世代論の問題がでました。

資本論や宇野経済学や岩田弘論を問題としているのですが、高齢となっても来ているのは事実です。

この面白さが何故、若者に届かずにいるのか?

これについても言及したいのですが、次回とします。

 

(二)失敗学について

吉本隆明氏が、故人となり、今、この牙城としての一応のカリスマ的位置にあるのは、柄谷行人氏(73歳)となっているのですが、多くの不満も語り合いました。

柄谷行人NAMブログ

http://nam21.exblog.jp/

NAMも若者へと世代を越えて政治的問題意識、資本論読解の手助けをしたいとする水や空気の様に、民主主義的基本的知恵の段階までを育てようと組織されていたのでしょう。

それが、やはり、金銭問題、貨幣問題的に阻まれ、失敗例を示したと言う事かも知れません。

 

(三)実践とは何か?

更に、年を取ったなら若者や世代間格差問題として、戸惑いもあるように感じますが、本来、それを恐れず、実践の基盤を作らなくてはならなかったのだと感じました。

若者は、まさに、社会的知識からも歴史的知識からも疎外されている状況もあることが、日本の最大の問題点の様に感じています。

「若者は、実践をしない、自分で切り開け」は、今の日本では本当の意味での叱咤激励にはならないのではないかと言う事を考察しなくてはならない様に感じました。

実践論、社会運動論は、ここでも重要な主題でもありますので、出来るだけわかり易く次回以降に、展開できたならと考えています。

 

簡単ですが、これを新しい序説とします。