ピケティ氏の議論をめぐって考える

本稿は、今日評判になっているピケティ氏による格差の議論について論評することを意図して執筆するものである。だがやや、風変わりな観点からこの問題に接近したい。

現在NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公杉文の兄の吉田松陰や松下村塾の塾生達は、徳川幕藩体制の廃止と新社会の建設を目指したのであるが、それは単に黒船来航という外部要因のみに依存したのであろうか。幕府の側が開国和親を、長州藩(および後には薩摩藩も加わる)が尊皇攘夷をスローガンにかかげて闘争した点からいえば、外圧が重視されがちとなる。だが真相は決してそうではなかった。徳川幕藩体制のもとでは、大名や武士層が農民から農産物(主に米)を搾取する(=農民の余剰労働が搾取される)階級社会であったが、農村社会に商品経済が浸透するにつれ、武士層が次第に奢侈に陥りがちとなり、農民への苛斂誅求が強められたから、農民は不満を抱くようになった。それ故封建社会の体制は内部的にも崩壊に至る要因を抱えていた。薩・長の下級武士が立ち上がったのもそのためである。だがこれら勤皇の志士達が描いていた近代国家とは、封建社会とは反対の中央集権的な代議制政治体制であったが、経済システムについては十分な理解が行われていなかったように思われる。

 

だが近代国家のもとに成立した経済システムは資本主義のシステムであった。資本主義の経済社会はいうまでもなく、資本家と労働者との対応関係のもとに成立している社会である。もっとも表層的にみれば、前者が後者を支配しているように捕らえられえないかもしれない。その点は、資本家が商品の生産過程のために労働者を雇用するさい、労働者に支払う賃金は労働の価値(または価格)あるいは労働の報酬であると考察されたならば、資本家と労働者の関係は対等な関係にたつことになる結果、支配の関係にはないとみられるであろう。だが賃金が労働の報酬とみることは真実ではない。資本家によって支払われる賃金は、労働者が自らと家族の社会的生活の再生産に必要な平均的な生活資料の金額にひとしい金額であって、したがってここでは労働力(または労働能力)が商品化しており、その商品の価値(または価格)が賃金として支払われると解すべき問題となる。したがって生産過程において労働者が例えば、1日10時間労働をするものとすれば労働者が自らの再生産のためには例えば5時間の労働が必要であり(必要労働時間)、あとの5時間は資本家のために働く労働時間(剰余労働時間)ということになり、資本主義は資本家が労働者の剰余労働を搾取する階級社会であることが明らかとなる。この点はマルクスが解明した論理であった。マルクス経済学者、宇野弘蔵もこの見地をふまえてはいるが、資本主義では、本来別の社会では商品たりえない労働力までもが商品化している(これを資本主義の根本的矛盾と把握する)が、これは経済分析的に明かになることであって、一般的には資本の生産過程自身が商品による商品の生産とみられることになり、階級関係は隠蔽される結果になることが強調されたのである。

 

さて、これからピケティ氏に戻るが、彼は著書『21世紀の資本』において、冒頭ではマルクスの学説に論及するとはいえ、この根本的な階級の問題については触れることはない。単に欧米先進諸国における所得格差、資本所有の格差の拡大の解明を19世紀からの数理統計学の数値にもとづいて行おうとしているにすぎないとみられる。それ故資本収益率rが経済成長率gを上回ってきたことが重視される。その意味は富裕層が保有している資本や資産、株・土地などの収益率が、それによって一般の労働者・市民も富の増大の恩恵に預かっているとみられる経済成長率よりも高まっていけば、富裕層とそれ以外の市民・大衆の所得の格差は増大するとみられるためであろう。それ故に氏の場合、格差社会を改革し、より公平な社会を築くための方策は、富裕層に累進税を課すなどの税制の問題になってしまう。

 

本年1月にはピケティ氏が来日したこともあってか、多くの経済誌が彼の格差論について特集記事を載せている。例えば、『エコノミスト』誌も2月17日号で彼の論議についての会社経営者、作家、経済学者達の感想を掲載しているが、その見解は一様ではなく、賛否両論があり、また相互に矛盾している場合もある。だが全員において、日本には階級があるという筆者の見方と同一の議論をする人は見当たらない。多分古典派経済学者やマルクスによって主張された商品価値の実体は労働であるとする労働価値説を学んだことがないのであろう。例えば、この雑誌では、元IT企業の社長で価格操作によって罪を問われた著名な経営者が次のような論を展開している。「格差がそんなに悪いことなのか・・・しかも今は、お金を持っている資産家が権力を持っているわけではない。警察や司法、軍事力を行使して国家を支配しようというわけではない。資産家と労働者という対立構造など、そもそもないのだ。」(同誌87頁)と。だが、われわれはこの議論に対しては、現在の日本の保守党政府は、国民のための政治を行うなどと口ではいっていても財界人の利益に反するような政治は決して行われず、国民大衆、社会的弱者をしいたげるような政策を平然とやってのける点の認識、洞察力が欠けているのではないかと思う。

 

もとより、私見は、今日の先進国社会が格差社会であることを認めるが、その基礎には階級もあることを主張したいのである。もっとも今日の階級関係はかなり複雑化し、不透明化して専門家でも十分に捉えられない場合もある。その重要な要因の一つには、19世紀におけるイギリスの企業のごとく個人経営的色彩のものではなく、19世紀末期からドイツにおいて発達した企業のように株式会社形態のものが一般化したということである。日本における大企業・中小企業にしても然りである。20世紀初頭に書かれたドイツ人のヒルファーディングの著書『金融資本論』では株式会社が発展、普及すると、本来の労働者(ブルー・カラー)ではない新中間層としてのサラリーマン(ホワイト・カラー)が現れる点が指摘されていたが、このサラリーマンは本来は生産過程において労働者を指揮・監督し、労働者を搾取する労働を担う者として、それ故収入として支払われる所得は労働者の賃金ではなく、資本家の搾取する剰余価値(ないし利潤)の中から分割されるものと解されたのである。もっともサラリーマンも人数の上昇につれて所得も次第に低下していくことはつけ加えられねばならぬ。さらに企業が株式会社形態をとるに至ると、所有と経営の分離が行われるが、サラリーマンの上位に位置する経営者は資本家とみなされ、また所有者は、大株主と零細株主に分かたれるが、大株主のみが(株主総会での発言力が強いため)資本家とみなされる。さらに複雑化の要因の第2としては、商品を生産しない第3次産業部門(サービス産業)が発達し、全産業部門のおよそ7割近くを占めるに至ったことである。この第3次産業部門の中でも社会の実質的富の増大に寄与するものと寄与しないものとに2分化することができるが、ここでは立ち入らない。ただこのような産業部門の中で、どのような人が資本家で、どのような人が労働者であるかを区分することが困難となってきたことをつけ加えたい。

 

階級関係は不分明とはいえ、所得や収入の格差は統計上でも明白といえるであろう。大企業の大株主等では、年収億円単位の人もいるであろうし、経営者層でも年収数1000万円に上る人の数は相当数いると思われる。これに対して経営者にはなれないサラリーマン層や労働者層の人々は1000万円を下回るケースも多いであろう。勤労者全体の平均年収は400数十万円であるということもよく聴く話である。20年前とは違って最近はサラリーマンとかホワイトカラーという言葉も聞かれなくなった。学問的見地からは使用されるべき概念も実際の統計では労働者と区分して数値化することが困難なためであろう。これに代わって最近よく使われる区分では正規労働者と非正規労働者という言葉で表される。そして前者の平均賃金は400万円以上であるが後者のそれは200万円程度で格段に低く、しかも後者の人数は2000万人に迫っている、ともいわれている。すなわち日本社会では貧困層の人達が確実に増えつつあると思う。これに加えて団塊の世代の人達の早期退職問題や失業者対策の未解決問題を考慮すると、現在は過去に較べていっそう厳しい経済社会に突入しつつあると思われてくる。

 

このような深刻な状況にあるにも拘わらず日本の労働者大衆(非正規雇用労働者を含めて)は保守化しつつある。その点は昨年暮れの総選挙で自民党の圧勝の結果をもたらした点に現れている。これはなぜであろうか。これは単に大衆の意識が低いという問題で片付けられるであろうか。私は単にそれだけではないと思う。大衆は経済的状況の改善を強烈に求めているのであり、見通しのきかない不透明なシステムのもとで自らの知見よりは優れていると感じて支配層の政策に期待したのであろう。こうした状況下において、新古典派経済学に基づいて提案されているピケティ氏による資本所有者に対する累進課税といった処方箋が日本に現実適応性があるだろうか。それはないと思われる。なぜなら、労働者階級の団結力が失われているこの国では、この提案には財界人が反対するだろうから労働者は敗北するだろうと思われるからである。また日本共産党もつね日頃、大企業が保有する270兆円の内部保留に課税すべきであると主張しているが、こうした提案も実現可能性は乏しいと思わざるをえない。支配層としての財界人と被支配層としての労働者との間の階級闘争では、前者が勝利し後者が敗北すると予見せざるをえないためである。

 

それでは貧富の格差が進行していく状況下で、われわれは失望していく外はないのかといえば、そうではないと考える。それは、いつかは労働者階級が決起するときがくると信ずるためである。それはいかなる場合か。現在の安倍政権でもつねに主張されている政策課題は技術革新の進展である。もっとも現政権の政治家は、経済成長の実現のために、この課題を達成しようとしている。私はこれによる成長実現は困難であるとみているが、しかし技術革新による機械化は確実に進展するとみている。とくにロボット技術の進展はめざましいものとなる可能性がある。最近では労働者としての人間よりも優れた能力を持つロボットが開発される可能性があると指摘されている。あと30年もすればあらゆる生産部門の工場や、医療、介護の現場等でもロボットの活動がみられるようになる。ロボットがロボットを操作する場面も排除できない。まさにロボット社会の登場である。

 

人間の生活資料の生産、流通の過程がロボットによって担われ無人化が進むにつて、労働者階級の人々は経済活動としての仕事を奪われ失業を余儀なくされるようになる。もっともロボットはあくまで機械であり、そのためには人間としての労働者によってコントロールされるのであるが、労働者の仕事量は確実に減るであろう.労働者は失業することによって、はじめてこのような社会のシステムはおかしいと気づきはじめるであろう。すなわち自らが収入を得ていたこの市場経済のシステムは果たして人間のためのシステムかと疑念を持つようになるであろう。そして機械やロボットによって支配されることのない新社会を求めて決起するであろう。

 

こうした状況に時代が推移していくさいの革新政党の役割はきわめて重大である。資本や貨幣の支配から脱し労働者の人間性を回復し主体性を確立していく方向に導くようにビジョンを示し労働者階級を導かねばならない。いかにすれば人間の幸福を第一とする新社会を築けるかを不断に追求せねばならないのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study635:150318]