ファシズムは死語になったのか(12) ― いま「二・二六事件」を考える ―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
タグ: ,

 83年前の今日、「二・二六事件」が起こった。
この事件を振り返り今日的意義を探ろうと思う。
今日的意義とは、「アベ政治を許さない」戦いのために材料を発掘することである。

《「二・二六事件」とは何か》
 最新の『広辞苑』(第七版)は次のように叙述している。(■から■)
■1936(昭和11)年2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸などを攻撃したクーデター事件。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らを殺害、永田町一帯を占拠。翌日戒厳令公布。29日に無血で鎮定。事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化された。■

統制派は、陸軍の一派で第一次世界大戦の経験から「総力戦体制」確立の必要を痛感し、生産力、技術力の向上による軍事力の強化を目指す。そのためには財閥資本・官僚組織とも協力し、ヒト・モノ・カネの戦時動員を統制によって行う。場合によっては市場原理も否定する。幕僚将校が主体であった。
皇道派は、荒木貞夫・真崎甚三郎両大将らを支持する隊付尉官級青年将校が中心の一派。天皇と臣民の間に、官僚・財閥・政治家・宮中人脈―それらを「君側の奸」(くんそくのかん)と呼ぶ―が入り込み、政治腐敗、農村の経済疲弊を招き、国益を損なっていると断じた。「昭和維新」を叫ぶ彼らは「君側の奸」の排除と天皇親政を理想とした。

「二・二六事件」以前にも、20年代から陸軍だけでなく狂信的な右翼などによる多くのテロや軍内部の闘争があった。中でも、1932年の「五・一五事件」は首相犬養毅が殺害され世上へ大きな衝撃を与えた。ところが裁判では犯人への同情が集まり「意図が純粋なら不法手段も許容」する空気を生んだ。

《軍部の政治的支配とはなにか》
 一体、「軍部の政治的支配力の強化」、あるいは「軍部独裁」とはどういうことか。 評論家加藤周一(1919~2008)は、「二・二六事件」の翌年に、旧制一高に入学した。加藤の自伝『羊の歌』に次の叙述がある。
■第一高等学校へ入った私は、その頃、理科の学生のために設けられていた「社会法制」という矢内原忠雄教授の講義を聞いた。一週間に一時間の講義で、社会制度の技術的な詳細を語ることは不可能だから、矢内原先生は、議会制民主主義の最後の日に、その精神を語ろうとされたのかもしれない。内閣の軍部大臣を現役の軍人とするという制度を利用することで、陸軍は責任内閣制を実質的に麻痺させることができる、と矢内原先生はいった。「なるほど陸軍大臣がなければ、内閣はできないでしょう」と学生の一人が質問した、「しかし議会が妥協しなければ、陸軍もまた内閣をつくることはできないわけですね。陸軍が内閣を流産させたら、政策の妥協をしないで、いつまでも内閣の成立しないままで頑張れないものでしょうか」。顔を机にふせて質問をじっと聞いていた矢内原先生は、そのとき急に面をあげると、静かに、しかし断固とした声でこういった、「そうすれば、君、陸軍は機関銃を構えて議会をとりまくでしょうね」。――教場は一瞬水を打ったようになった。私たちは、軍部独裁への道が、荒涼とした未来へ向って、まっすぐに一本通っているのをみた。そのとき私たちは今ここで日本の最後の自由主義者の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じた。■

ここに出てくるのは「軍部大臣現役武官制」復活の話である。この制度は1900年に山県有朋首相が決めたもので、軍部大臣(=陸相・海相)の任用資格を現役の武官に限定するものである。統帥権の独立と政治介入の防止を理由とした。日露戦争後の世情から1913年に、山本権兵衛内閣が、予備役・後備役・退役武官の任用も可能としたが、「二・二六事件」後の広田内閣が、軍部の圧力に屈して復活したのである。「二・二六事件」に発する軍部独裁への道は、勿論これだけではない。しかし加藤周一の回想は、この復活の意味を鮮やかに表現している。

《「昭和維新論」の辿った栄光と悲惨》
 「二・二六事件」皇道派将校の、「昭和維新論」の背景には、国家社会主義者北一輝(きた・いっき、1883~1937)の『日本改造法案大綱』などの革命思想があった。北の革命論を一言でいえば「天皇制下の社会主義革命」である。その概要は「天皇の名による軍事クーデター。三年間の憲法停止。戒厳令政権。貴族制度など特権制度の廃止。言論の自由化。私有財産の保有上限設定。地主小作制度の改善(自作農創設)。土地の国有化。労働者の待遇改善。児童の教育権保全」である。

しかし昭和維新の革命は大きく躓いた。
青年将校が蹶起(けっき)し「君側の奸」を排除して天皇親政を期待していたとき、昭和天皇は激怒した。「朕が股肱(ここう、君主が最もたよりとする家臣)の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校ら、その精神に於ても何の恕すべきものありや」とも「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」、「朕自ら近衛師団を率いて、此れが鎮定に当たらん」と言ったという証言が残っている。要するに、革命家のみた「君側の奸」は、天皇がみると「最高の忠臣」だったのである。

加藤周一は『羊の歌』で、次のように書いている。
■「天皇のため」と称して起った将校たちが、その天皇自身から「国賊」ときめつけられるようなことになったこと、はじめは彼らを「蹶起部隊」とよんでむしろ称讃していた陸軍の指導者たちが、後には「反乱軍」とよんで弾圧に出ようとしたことから、私は実に強い印象を受けた。反乱軍の将校に同情したのではなく、反乱軍の将校が裏切られたということのなかに、政治的な権力というものの言語道断な冷酷さをみたのである。■

反乱軍の裁判のために戒厳令下の特設軍法会議がつくられ「一審、上告なし・非公開・弁護人なし」の決定がなされた。起訴された者123名、死刑17名を含む有罪35名であった。近代国家らしからぬこの裁判では天皇が激怒した瞬間に被告の運命は決まったのである。

《「二・二六事件」の今日的意味はなにか》
 「二・二六事件」のクーデターとしての失敗は、「天皇への反乱」の失敗であって、テロや暴力への反省はないままに、大日本帝国は1941年の開戦へ雪崩を打ち敗北への道を進んだ。総力戦体制を戦争の枠組とみる統制派は、帝国の三権を掌握し「兵営国家」は完成の域に達した。

されば、冒頭の問題意識である「二・二六事件」の「今日的意味」は何か。
安倍政権は三権分立という民主主義のルールを無視している。
行政を立法と司法の上に置いている。報道で知る限りでも、最高裁判事、内閣法制局長官、日銀総裁、審議会メンバーなどの選任に関して、従来の慣行を破っている。
周知の「お友達」人事である。

内閣府への権力集中も進んだ。高級官僚の人事権は首相と側近が握っている。
メディアを支配している。それで選挙に勝ち、選挙に勝てば「やり放題」である。
安倍政権の構造と体質は、相当程度に1936年以降の、軍部独裁の構造と体質に似ている。思えば統制派を代表する東条英機内閣の商工大臣は安倍晋三の祖父岸信介である。

大きな違いもある。
30年代に昭和天皇以上の主権者はいなかった。明仁天皇は、安倍晋三と親和性のない思想の持主であると思う。報道から推察する限り戦後民主主義を奉じている。
一方で、2018年の安倍政権には、ドナルド・トランプ大統領が率いる「日米同盟」という神聖な同盟が存在する。「日本国」の平和を脅かす危機は、「大日本帝国」のそれよりも深く大きいようである。これが「今日的意味」を考えた結果の暫定的な結論である。極めて消極的な「今日的意味」が見いだされたのは残念である。(2018/02/24)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4305:180226〕