敗戦記念日に、先達の戦争論を読んだ。作家大岡昇平(1909~1987)の『証言その時々』(講談社学術文庫・2014年、親本は筑摩書房・1987年)である。「蘆溝橋前夜から今日に到る、私の戦争に関する意見の、ほとんど全部である(インタヴュは除いた)」と本書の「あとがき」にある。私(半澤)の印象に残った部分を次に掲げる。(/)は中略。
■わたしはひとりになった。静かに涙が溢れて来た。
反応が遅く、いつも人よりあとで泣くのが私の癖である。私は蝋燭を吹き消し、暗闇に座って、涙が自然に頬に伝うに任せた。
祖国は敗けてしまったのだ。偉大であった明治の先人達の仕事を三代目が台無しにしてしまったのである。/私は人生の半ばで祖国の滅亡に遇わなければならない身の不幸をしみじみと感じた。国を出る時私は死を覚悟し、敗けた日本はどうせ生き永らえるに値しないと思っていた。しかし私は今虜囚として生を得、どうしてもその日本に生きねばならぬ。
しかし慌てるのはよそう。五十年以来わが国が専ら戦争によって繁栄に赴いたのは疑いを容れぬ。して見れば軍人は我々に与えたものを取り上げただけの話である。明治十年代の偉人達は我々と比較にならぬ低い文化水準の中で、刻苦して自己を鍛えていた。これから我々がそこへ戻るのに何の差し支えがあろう。(小説『俘虜記』、一九五〇年三月)
■日本国は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土上にあるかぎり、絶対に日の丸を上げないということである。捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにもちらちらしている間は、日の丸は上げない。自衛隊の幹部なんかに成り上がった元職業軍人が神聖な日の丸の下に、アメリカ風なお仕着せの兵隊の閲兵なんてやってる光景を見ると、胸くそが悪くなる。恥知らずにも程がある。(「白地に赤く」、『東京新聞』、一九五七年六月一八日)
■私は二十年前、一兵士として南方に送られ、戦争の惨禍を多少経験した。その経験を語ったこともある。現在作家として、アメリカに追随することによって生じた一時的繁栄の恩恵を受けている。しかし現に私と同じ国に生れ、同じ皮膚と目の色を持った若い同胞が、同じ恩恵を受けることにより危険な戦場に送られるのを見ていられない。二十年前、私は祖国がこういう事態に追い込まれようとは思いも及ばなかった。痛憤極りないといえば大袈裟であるが、幸い意見を述べる機会があるから、黙っていないのである。(「二十年後」、『潮』、一九六五年八月号)
■毎年八月になるとわれわれはヒロシマとナガサキを思い出し、戦争のことが語られる。なぜだろうか。
二つの理由が考えられる。一つは戦争で受けた傷が、国民の中で生き続けているからである。国は建国以来はじめて降伏したが、三十年の後に、GNP世界第二位まで恢復した。しかし原爆被害者も戦死者遺族も十分に補償されていない。太平洋の方々の島にある遺骨は、まだ全部収集されていない。/三十年前の戦争を、政府がその後始末をしないために、国民は思い出さずにはいられないのである。
第二の理由として考えられるのは、戦後三十年、日本は憲法の平和条項のおかげで戦争をしないが、世界のどこかで戦争が行われているということである。それも東南アジアで続いていた。/ベトナムが終った現在、問題は再び朝鮮半島に戻って来た。米国務省は韓国における核兵器の配置を発表し、朴大統領は核開発を命令したと伝えられる。アメリカは核先制攻撃もあり得る、といった。
これは画期的な声明である。これまでは、核は相手の核攻撃を抑止するために開発させるのだ、というのが私の世代の歴史的常識である。/これがヨーロッパであれば大問題だったろう。白人国の間では絶対に行われない声明である。使われるのは戦術核という制限がついているが、これが全面戦争に展開しない保障はない。これは人類の滅亡を意味する。
/核戦争は今後、アジアでも起こり得るのだ。この意味は重大であって、もはや対岸の火事として眺めてはいられないはずである。
戦争は勇ましく美しいものとして語られていた。しかしいくら美化されていても、そこには一つの動かすことのできない真実がある。それはどんなに勇壮であっても、人が死ぬということである。/それは取り返し得ないことである。将軍や参謀はめったに死なず、死ぬのは大抵名もなき兵士である。豊かな将来がむなしくされるのである。/日本人が三十年前の戦争で、何をして来たかをふり返ることは、むろん過去をたしかめて、将来のそなえとするためである。(「私と戦争」、『週刊読売』、一九七五年八月一五日臨時増刊号)
■国を愛する戦いで死ぬ兵士の犠牲の上に、満州や中国、東南アジアの諸国の物的人的資源の収奪の上に、国内的に市民の生活を潤すことができたのである。戦況不利となって物資不足によって生活が苦しくなった一九四四年までは、国民の戦意をあおり、米英に対する敵意をたもつことができたのであった。
戦後四十年たって、日本人はエコノミックアニマルと称して、中国、韓国、フィリピン、東南アジアに、企業が資本、技術輸出という別の形の収奪をなしとげている。今日のわれらの消費生活の豊かさは、それら収奪の上に築かれる、という同じ形が現れているのを、あの時意識しなかったように、今も意識しない。
戦後四十年、靖国神社の公式参拝は実現し、英霊は鎮まるであろう。そこで再び国のために命を捧げる若者を創り出さなければならない。/防衛費一%枠を早くはずして、軍事的威嚇を加えよう。最も豊かで賢明なアメリカの同盟国となって、戦闘的平和のために貢献しよう――戦後四十年の悪夢の構図である。早く目をさまそう。ふたたび、みずからそれと知らない大東亜の加害者になるのはよそうではないか。(「悪夢の構図」、『朝日新聞』、一九八五年八月一五日)
以上が大岡の文章である。本書全体の1%ほどだ。
作家の死から30年が過ぎている。京大仏文で学んだ西洋、小林秀雄らとの交友、フィリピン戦場での実体験、日本戦後の無反省、高度成長という新たな侵略、米帝国主義の変貌。そういう歴史のなかに生きた大岡昇平の、反戦、ナショナリズム、反人種差別、の意識は変わらなかった。しかし現実は大岡の予想を超えて変わった。作家が描いた未来像の多くは2017年の現実である。(2017/08/16)
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