1960年代末からの大学生活において、私がまずもってテーマに設定したものの一つに、共同体とその解体に関連するものがある。1970年、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』『資本主義的生産に先行する諸形態』、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起原』を読みノートを執ったおり、私ははじめてルイス・ヘンリー・モーガンの名を知った。当時は一様に「モルガン」とドイツ語(マルクス・エンゲルス)経由の名称で記されていたあのモーガンを、私はそれなりに細かく調べてみた。家族の第一形態「血縁家族」、第二形態「プナルア家族」、第三形態「対偶家族」、そして第四形態「単婚家族」といったメモ、最初の社会的分業=牧畜種族の分離、第二の分業=農業からの手工業の分離といったメモはいまも読書ノートに残っている。
共同体にかんする研究は、その後、唯物史観の再検討を課題にしていくことで副次的に継続していくのだが、1980年代に入るや、そのテーマは一挙に主題にまで上昇することになる。その契機は、1981年10月東京の明治大学駿河台校舎で行なわれた「第一回女性史のつどい」である。これが開かれたとき、会場でモーガン学者布村一夫先生(1912~1993)と出会った。このとき以来、私は布村民族学・布村神話学に確実に感化を受けることとなった。フェティシズムを研究テーマとして設定することになるのもこの感化の引力圏内においてのことであった。
先史社会は以下の三つの要素から成り立っている。原始労働(物質的生産)・自然信仰(儀礼的行為)・氏族制度(人間組織)。先史の生活者たちは儀礼を生産に先行させる。先史人や野生人は、あらゆる事柄・行為を儀礼でもって開始するのである。
そのほか、儀礼とは、人間(自然的存在=動物)が人間的存在になるための必須条件である。自然的存在(モノ)を神的存在にすることにより、人間(モノないし動物)は人間(神的存在をつくりだす存在)となった。これをさしてフェティシズムという。これまで宗教学や哲学、経済学や心理学などで通説だった解釈、物神崇拝は人間が人間以下のモノにひれ伏す幼稚な観念、という解釈は間違っている。事態はむしろ逆である。物神崇拝は、人間が人間になるために必須の条件なのである。フェティシュを投げ棄てるところから始まるのである。
布村生誕100年を記念して、以下に布村著作を書き記す。
Ⅰ古代社会ノート、1962年
Ⅱ日本神話学、1973年
Ⅲモルガン 古代社会資料、1977年
Ⅳ原始共同体研究、1980年
Ⅴ共同体の人類史像、1983年
Ⅵ原始、母性は月であった、1986年
Ⅶマルクスと共同体、1986年
Ⅷ日本上代の女たち、1988年
Ⅸ神話とマルクス、1989年
Ⅹ正倉院籍帳の研究、1993年
最後に一言。布村が亡くなって4日後、雑誌『情況』1993年7月号が届いた。その中に榎原均氏による短文があって、布村学説に触れていた。「布村一夫は、長年研究してきた共同体論にフェティシズム(物神性)論を加味して新たな境地に到達している」(153頁)。その後の文章で「布村説を受け継ぎ、それを『フェティシズム史学』へとまとめようとしている石塚正英の提起を検討する」とし、さらに「石塚は、原始信仰としてのフェティシズムについてのみならず、『資本論』のフェティシズム論についても、布村説を土台にして独自の解釈を試みている」(155頁)としている。幾度も記すが、今年は布村一夫生誕100年にあたる。いつになっても、生ある限り、私は心から先生に感謝している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study489:120506〕