フォーヴィズムと表現主義の狭間にあるもの

 キース・ヴァン・ドンゲン(1877-1968) の展覧会が汐留にあるパナソニック美術館で、7月9日から9月25日まで開かれている。この画家を最初に知ったのは文化評論家の海野弘の『一九二〇年代の画家たち』を読んだ時だと記憶しているが、この本を読んだ直ぐ後、宇波彰先生がお亡くなりになる一、二か月前に、先生のご自宅で開かれていた講義で、ヴァン・ドンゲンが話題となった。先生がマルセル・プルーストの『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』の1947年に発刊されたガリマール版の挿絵がヴァン・ドンゲンのものである点を語られたのだ。鈴木道彦による集英社版のこの本の翻訳の挿絵もヴァン・ドンゲンのものが使われており、先生はそれを見せてくださった。その挿絵を見て、海野の本ではそれ程大きな印象を受けなかったこの画家の作品に興味が湧いたのである。またそれとは別に、ヴァン・ドンゲンはフォーヴィズム(fauvisme) とドイツ表現主義の中のブリュッケ(Brücke) と呼ばれるグループの両方に所属したことがある画家であるが、フランスの印象派の発展形式の一つであるフォーヴィズムとドイツの表現主義(Expressionismus) とには大きな違いがある(この点については後述する)。それゆえ、ヴァン・ドンゲンを導き糸としてこの二つの絵画グループの差異を詳しく考察したいという思いを私は抱いていたのだ。以上の理由から、私は8月の終わりにヴァン・ドンゲン展に向かったのである。

 本論に入る前に、このテクストの探求課題について話しておく必要がある。ここでは以下の三つの点に関する探究を行いたい。それは、「20世紀初頭の西欧絵画世界の様相」、「ヴァン・ドンゲンの作品とキルヒナーの作品の比較」、「破壊と再構築」という三つの視点である。この三つの視点からの考察を行う理由は、20世紀初頭の西洋絵画の展開は、絵画史だけの問題ではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけてのあらゆる分野における近代世界の終末と現代世界の開始とに深く関係するからである。また、前述したようにヴァン・ドンゲンはフォーヴィズムのグループだけではなく、表現主義のグループであるブリュッケにも属していたが、ドイツ表現主義の特質よりもはるかにフォーヴィズムの特質を有しており、この点を考察することで二つの絵画主義の共通点と差異が明確化できると思われたからである。更に、画家の宇佐美圭司は『廃墟巡礼 人間と芸術の未来を問う旅』の中で、20世紀は身体というものを「病む身体」として表現したという点を強調している。「病む身体」は世界を病んだものとしても提示しているが、印象派によるそれまで描かれていた世界像の解体と新世界の構築と、ドイツ表現主義の世界の破壊と世界の始原への降下は類似した芸術活動であったように見えて、実はまったく異なる方向性を持ったものであった。この方向性の違いをヴァン・ドンゲンの絵とエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938) の絵を比較することによって端的に示すことが可能であると私には考えられたのである。前置きはこれ以上必要ないだろう。三つの視点からの探求を順番に行っていこう。

20世紀初頭の西欧絵画世界の様相

 19世紀の終わりから20世紀初頭にかけての最も大きな美術運動は印象派の成立と展開であったと考えられる。何故なら、印象派が構築した世界像は新たな光の世界であっただけではなく、近代的世界像の解体を提示したものでもあったからである。19世紀後半、ロマン主義を発展させた象徴主義からの更なる展開は絵画の対象の形態を曖昧なものにし、光の強さによって解体させる方向へと向かった。光の強さはオブジェの輪郭を不明瞭にするだけではない。オブジェを点の集合体へと解体させる。マネ、モネ、ルノワールと続く前期印象派からスーラの点描へと続く動きは、こうした美術表現の動きを反映している。この動きはフランスの印象主義内の問題に止まらず、ドイツ表現主義の画家たちにも少なからず影響を与えた。だが、前者が理性的な統一的秩序を自らの探求の横に座らせていたのに対して、後者は先ずもって生命の力を強調したロマン主義的パッションを内部に抱えていたのである。

 美術史家のアウグスト・K・ウィードマンは『ロマン主義と表現主義 現代芸術の原点を求めて╱比較美学の試み』(大森淳史訳:以後サブタイトルは省略し、ウィードマンの言葉の引用は全てこの本からである) の中で、「感情の崇拝、個性や創造力の賞賛を伴うロマン主義の基調的テーマ、主動的モチーフは、必ずつねに一者性ないし全体性の観念という一点に集まるのである」と述べているが、こうした主張は表現主義にも流れ込んでいる。もちろん、印象派もロマン主義からの影響を受けているが、そこには調和と秩序を重視するフランス的な志向性があり、後続するセクションで見ていくように、超人や強力な独裁者を求める方向性はなく、この差異は絵画的特質としてもはっきりと表明されているように私には思われるのである。

 前述した本の中で、宇佐美圭司は、「古代ギリシャ時代、身体は空間的なパターンであり得た。古代ギリシャにおいて理想的な身体が希求され、それが像として出現し得た。人間の身体によって、世界全体が語りえたのである」と書いているが、現実世界を肯定し、実際の健全な身体を美的に優れたものであると見做し、正確に描写していくことを押し進めた西洋絵画は遠近法という武器を手に入れて、その進歩と発展が恒久的に続くことが約束されたように思われた。だが、歴史の展開は近代合理主義への反逆へと多くの画家たちを向かわせた。その反逆を高らかに宣言したのがロマン主義者である。現代美術はロマン主義の洗礼を受けることなしには発展できなかった。それゆえ、健全な身体描写をベースとした世界把握が不可能になった現代の様相に対する宇佐美の「(…) 二〇世紀の文明はそれを不可能にした。その不可能性が誰の目にも明らかなほど、私たちの身体は人間存在の色褪せた未来を指し示し始めた」という主張には核心的な意義がある。

  目の前にあるオブジェを厳密に写実することは世界を秩序付けることであり、この世界の存在性を調和的なものとして肯定することである。そして、世界への肯定を引き受けるのは理性的人間であり、こうした創造態度は理性的な人間が遠近法によって捉える世界認識方法に基づくものである。この世界観への不信を敢然と表明したのがロマン主義者であり、その流れは西洋芸術全体で激しく揺れ動かして、大きなうねりとなって広がっていった。ウィードマンは「ロマン主義者たちは、事物を分析的に「ばらばらで、死んで、生気のないもの」と見る冷たいデカルトの理性、つまりそれ自体の奥底にあるものや背後にあるものをいずれも独断的に拒絶する理性のなすがままになって、生をますます合理化していくことに対し不安と絶望を含んだ眼差しを送っていたのである」と述べ、更に、ロマン主義者の希求方向に対して、「それに対して彼らがただちにしたことは、人間のもつ畏怖と驚嘆の感覚を回復することによって、あるいは事象の本源の説明のつかない神秘に訴えることによってその流れを堰き止めるということであった」と述べている。この方向性はロマン主義の後を継いだ象徴主義にも、更には印象派の中にも流れているものであり、印象派の影響を受けたフォーヴィズムや表現主義の中にも流れ込んでいる。しかしながら、フォーヴィズムと表現主義を比較した場合、そこには旧時代のヘゲモニーの変革という共通の目的がある一方で、解体後の新たな秩序の構築を強調する前者の立場と、破壊を第一とし、原初的事象に回帰しようとする後者の立場との根本的な違いが存在するが、この点に関する詳しい考察は次のセクションで行うこととする。

ヴァン・ドンゲンの作品とキルヒナーの作品の比較

  この短いテクスト内でヴァン・ドンゲンの作品とドイツ表現主義の中でもヴァン・ドンゲンが一時所属したブリュッケの複数の画家たちの様々な作品と比較することは不可能である。それゆえ、ここではこの画家の作品とキルヒナーの作品とを比較することで、フランスで始まったフォーヴィズムの作品とドイツ表現主義に属するブリュッケ・グループの作品との共通点と差異とを探ることで、ロマン主義の系譜を共に持つ両者の立場の違いを明らかにしていこうと思う。その前に一点だけ説明しなければならない問題がある。それはヴァン・ドンゲンの作品と比較する対象が、何故キルヒナーの作品かという問題である。それには以下の理由がある。『ドイツ表現派 ブリュッケ』の中で、美術史家のホルスト・イェーナーはブリュッケ・グループの中でキルヒナーについて、「仲間のだれよりも、彼は敏感に、同時にまた知的に下界の印象に反応したものであったが、ひとたび獲得した成果もくり返し検討の対象とし、新しい問題との対決の場に投げ入れた」(土肥美夫、内藤道雄訳:以後、イェーナーの言葉の引用はこの著作からであり、また、引用文中で「,」は「、」に、「.」は「。」に変えている) と語っているが、キルヒナーはこのグループの中心的存在の一人であり、更には、彼の作品が表現主義の発展に極めて重要な方向性を示しているからである。その上、彼はヴァン・ドンゲンと同様に20世紀初頭の都市の風景の中の人物像に注目し、その複雑で、奇異な様相を反レアリズム的で、悪魔的とも言い得る独自の視点から探求していった画家でもあったからである。

  今回の展覧会の中にあったヴァン・ドンゲンの作品の多くは、「ヴァン・ドンゲンならではのスタイルである、華奢で細長くデフォルメされたしなやかな人物像は、きわめて洗練された色彩で表現され、当時の上流階級の人々から絶大な人気を博しました」と展覧会のフライヤーに書かれているように、20世紀初頭から1920年代までの人物像(その多くは若い女性の像) である。だが、この細長くデフォルメされた人物表現はヴァン・ドンゲンだけが用いたスタイルではなく、ブリュッケの画家たち、特に、キルヒナーが用いたものでもあった。この技法上の共通点があるにも係わらず、二人の表現の向かう方向性がまったく異なるように私には思われる。確かに、この技法を用いる以前の1900年代の両者のフォーヴィズム的な作品には色彩の強烈さと荒いタッチなどによって表されたそのスタイルだけでなく、対象を探求する眼差しにも同じ方向性があったように感じられる。だが、細長くデフォルメされた人物像では二人の求める絵画表現の方向性ははっきりと異なっていたのではないだろうか。

  イェーナーは1911年にドレスデンからベルリンに移って以降のキルヒナーの「(…) めまぐるしい大都会の雑踏を鮮明なコントラストでとらえようとして、造形上の変化が起こった。構成上の組み立てがより動的になり、強く歪めた背景描写と鋭角的な平面延長でもって、画面に異常な緊張を生みだした。1913年、1914年の街頭風景や、ある種の気どりのあるきわだって細長くのびた人物などは、こうした創作の頂点とみなすことができよう」と述べているが、こうした方向性はキルヒナー作品に典型的に表れたものであるが、この感覚はブリュッケ・グループの画家全体が持つものでもあった。前述したヴァン・ドンゲンの細長くデフォルメされた技法が、洗練されたエレガントさを示す一方で、そこにはスノビズムの匂いが漂っており、それはフランスの生んだフォーヴィズムの向かった方向性をも示している、だが、キルヒナーに代表されるブリュッケの画家たちにはこうした方向性は全く存在しない。イェーナーは「フォーヴィズムは形態と色彩の喜びであり、形而上学的幻影のない偉大なリリシズムである。これに対し、ブリュッケ派は、色彩と素描を拷問にかけながら、大きくなって行く不安と困惑を可視化する。形態そのものに身をゆだねはしない。現実により強く結びつく形式を見出せば、これが現実を超えて、人間とその時代を洞察する手段となるのである。芸術における感覚性、目と精神の喜悦は、マティスにとって欠くことのできないものであったが、これはブリュッケ派の求めるものではなかった。彼らはつねに「生の悲劇的感情」につきまとわれていた」と書いているが、このマティスの探求方向性はヴァン・ドンゲンのものとも一致し、二つの絵画グループの求めるものの差異はヴァン・ドンゲンの作品とキルヒナーの作品の比較を通して、細長くデフォルメされた人物の比較を通して、具体的に見つめることができる問題であると考えられるのだ。例えば、今回展示されていたヴァン・ドンゲンの「パリのラ・ペ通り」(1922-1923) とキルヒナーの「街ゆく女たち」(1915) を比較すれば、イェーナーの指摘した差異がはっきりと理解できる。だが、この差異は近代の秩序の破壊と新たな秩序の構築というより根源的な問題の探求を要求しているのではないだろうか。次のセクションではこの点に関する考察を行う。

破壊と再構築

  トーマス・マンは『ドイツとドイツ人』の中で、「ドイツ・ロマン派、、、、、それはあの最も美しいドイツ人の特性、ドイツ人の内面性の発露以外の何物でしょうか」(青木順三訳:以後、マンの言葉の引用はこの本からである) と述べ、そして、その重要な側面として、「(…) それは自分自身が、地底の世界に通じるような非合理的で悪霊的デモーニッシュな生命力に近いところに、すなわち人間の生命の本来の源泉の近くにいると感じており、他方単に理性的でしかない世界観や世界論に対しては、自分はもっと深い理解を持ち、聖なるものともっと深い結び付き持っているとして反逆する、そのような魂の古代性なのです」と述べている。この発言はドイツ人の精神性の根源にあるロマン主義を鋭く指摘したものであるが、このドイツロマン主義の流れは、ドイツからフランスに伝播し、展開していったロマン主義の流れとは根本的に異なるものだった点を注記しなければならない。

  ドイツとフランスのロマン主義の特性の相違は、自由という概念に対する捉え方の完全なる相違に起因している。トーマス・マンはドイツ的な自由、あるいは、フランス的な自由の否定の傾向について、「(…) ドイツがまだ一度も革命を経験したことがなく、国民という概念を自由の概念を結びつけることを学んだことがない、というところにあります」と断言し、更に、「「国民ネイシヨン」というものは、フランス革命で生まれました。それは革命と自由の概念であり、人類的なものを内に含み、内政的には自由を、外政的にはヨーロッパを意味するものであります。フランスの政治的精神のあらゆる魅力的な点は、このような両面の幸福な一致に基づいています」という言葉を語り、「ドイツ的自由の理念は国粋的反ヨーロッパ的であり、かならずしもそれが今日におけるごとくあからさまで公然たる蛮行となって爆発するような場合でなくとも[注:ナチスの状況下のこと]、常に野蛮なものに極めて近いのです」と結論づけている。この自由に対するドイツ的な野蛮さの源流にあるものが、ドイツロマン主義であるとトーマス・マンは明言しているが、それは政治的な問題に止まるものではなく、文化的なものでも、思想的なものでもあった。それゆえ、ナチズムの源泉にはロマン主義が存在していると述べ得るのである。

  ここでフランスとドイツのロマン主義の美術的展開方向の違いについてもう一度見てみよう。「20世紀初頭の西欧絵画世界の様相」のセクションで考察したように、フランスのロマン主義は象徴主義を経由して前期印象派に流れ込むが、ドイツでは前期印象派の影響はあまり見られず、後期印象派の中のゴッホやマティスの影響や、そうした画家の作風の発展形態であるフォーヴィズムから大きな影響を受けたドイツ表現主義へと展開していった。だが、「ヴァン・ドンゲン作品とキルヒナー作品の比較」のセクションでも検討したように、フォーヴィズムとドイツ表現主義の、特に、ブリュッケ・グループの作品との共通点と差異、それは破壊と再構築という問題の探求という方向へと向かう必要性へと導かれていくように思われる。何故なら、イェーナーが言うように、「フォーヴ派とブリュッケ派に共通するものは多い。1908年に発行された『ラ・グランド・ルヴュ』誌に寄せたマティスの寄稿文中に「何よりも」表現に向かうという言葉は、そのままブリュッケ派の言葉でもあった。しかしながら、このフランスの画家が本質的とみなしたのは、事物を野生のままの状態ではなく、調和の状態において提示することであった、アプローチの仕方がブリュッケ派のそれとはちがっていた(…)。表現の概念が同一ではなかった。ドレスデンの芸術家たちにとって表現とは、情熱と陶酔の表現を意味していたのに対し、フォーヴ派の場合には、情緒的なものと形態との均衝がより強く志向されていた。情念の奔放な表現よりも、構築における節度の方に重きが置かれていた」からである。

  ドイツ表現主義の画家たちはパッションの激しさと原初的なものへの回帰のための破壊衝動を根底に抱えていた。それゆえ、ブリュッケ・グループの作品は歪められた太い線による破壊の力によって表現された作品が数多く存在している。それに対して、フォーヴィズムの作品には印象派が点描によって形態を点に還元したものを再構築しようとする意志が感じられる。つまり、印象派が行った点描は秩序の破壊ではなく、基本単位への還元と新たな創造への道だったのである。それゆえ、点描は集合形成概念としてのマルチテュード(multitude) へ向かう道にも開かれていたし、新たな線への構築へも、対象の形態をデフォルメすることでの再生産への道へも開かれていたのだ。それは立体派から現代絵画へと向かう方向性を準備したものである。ドイツ的なものとフランス的なもののこの差異はあまりにも大きかったのである。

解体構築の可能性

 ドイツ表現主義はナチス(国民社会主義ドイツ労働者党) によって抑圧され、排除され、貶められ、抹殺された。だが、ドイツ表現主義は確かにロマン主義の負の遺産を内部に抱え込んでいた。その負の遺産はナチス・イデオロギーの中にも流れ込んでいたものである。ウィードマンはこの点に関して、「国民社会主義と表現主義とのあいだにはいくつか共通する特徴があった。それは、表現主義的世界観、、、のより神秘的で、特にドイツ的な面に見出される。すなわち、その特有の仕方での魂と内面性の強調であり、またその忘我的な生気論とそれに対応する好戦的非合理主義であり、またそのプリミティヴな汎神論と黙示録的観念論であり、そしてまたそれらすべてにまして、その原初的なものへの抗いがたい魅了である」という指摘を行っている。この指摘はトーマス・マンが行ったドイツ人のロマン主義的特質に対する分析に酷似するものであるが、同時代の対極にあるものとして語られることが多かった表現主義とナチスとの類縁性を鋭敏に捉えている点で特筆に値する考えである。

  この考えの中で特に注目すべき点は二点あるように思われる。一点目は原初的なものへの回帰という志向性が表現主義にもナチズムにも存在し、それはプリミティヴなものへの激しい憧憬であった点である。社会学者のジグムント・バウマンの言葉を使えば、それはレトロピア(retrotopia) であった。二点目は両者に暴力性と野蛮性に強烈に彩られた破壊主義、つまりは破壊のための破壊を遂行しようとする志向性があった点である。一点目についてイェーナーは更に詳しく、「一度意識が無意識に引き渡され、プリミティヴな本能や衝動や感情が至上の支配力を握るや、地下の世界の怒りが呼び醒まされ、ディオニソスが地上を破壊し始める(…)。それは、深みからの叫び声に応えつつ、すべてのものを跡形もなく破壊するのである」と述べているが、イェーナーの言葉にはこの始原への回帰が故郷への帰還といったものなどではまったくなく、徹底的な破壊への道であったことが的確に示されている。また、二点目についてはバウマンが社会学者のデヴィッド・ライアンとの対談集である『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章』の中で、近代精神が元来内包していた志向性つまり「古典的な近代」に関して語った、「(…) 「古典的な近代」は本来、完成、、へと向かう旅でした。ただしそれは、人間世界の形成に干渉しすぎるとそれを悪化させるだけなので、ものごとを好転させようとする圧力を抑えようとする度でした。同じ理由により、近代は破壊、、の時代でもありました。完成への取り組みには、物事を完全なものにするための計画表に収められない多くのものを根絶したり、拭い去ったり、取り除いたりする作業が欠かせません。破壊と創造は不可分のものでした、、、、、、、、、、、、、、、。つまり、不完全なものを破壊することが完成への地ならしの条件であり、その必要十分条件でした」(伊藤茂訳) という言葉が注目できる。近代性が内包する破壊と創造とのヤヌス的側面が歪んだ形態であったゆえに、それは解体構築(déconstruction:「脱構築」とも訳されている) の方向性には向かわずに、破壊のための破壊の方向性に向かったのである。ロマン主義の負の系譜を引き継ぐ表現主義の持つ反合理主義がナチズムと同様に今述べた二つの問題に集約されている点に対して、歴史的展開の事実としてわれわれは真摯な姿勢で向き合う必要性があるのではないだろうか。

 ここで上述したヴァン・ドンゲンの作品とキルヒナーの作品の比較に基づき、近代を乗り越えるための解体構築による創造の方向性について考えるべきであろう。何故なら、進歩主義を前提としたフランス的な理性中心主義はバウマンが主張しているように、合理の名の下に、それに反するものを抑圧していったが、それに対する徹底的な反逆だったドイツのナチズムは破壊のための破壊に過ぎなかったからである。どちらも近代の負の遺産を清算することはできなかったのである。この二つの道とは異なる解体構築の道の可能性を探ること、それが芸術分野だけでなく、政治分野も思想分野も含めた現代世界の求めるべき道のように私には思われるのだ。その方向性はヴァン・ドンゲン的なフォーヴィズムが向かったスノビズムでも、キルヒナー的な表現主義の向かった暴力性でもなく、その二つの方向の狭間にある方向性、それは秩序の強制でも、破壊のための破壊でもない、反復が反復にならず、円環が円環とはならない新たな意味の開示に向かう方向性を探るという解体構築の道ではないだろか。『反美学―ポストモダンの様相』の中の「ポスト批評の対象」において、英文学とメディア理論の学者であるグレゴリー・L・ウルマーは、ジャック・デリダの提唱した解体構築という概念に関して、「ひとつのテクストを他のテクストへ重ね焼きしようというデリダの欲望(擬態が差し向けられるプログラム) は、差―延(différance) において作動する指示作用もしくは再現=表象リプレゼンテーションのシステムを、反復不能な記号の時間においてではなく、その反転可能な時間性において考察する企てである。したがって、そもそものはじめから、脱構築の戦略は反復であったわけである」という主張を行っているが、解体構築(引用文での「脱構築」) は理性主義と破壊主義を超えた方向性であり、ユートピアでも、レトロピアでもない第三の道であり、合理と非合理の向こう側にある道ではないだろうか。解体構築とは反復が反復にならない反復であり、狂気が狂気とならない狂気となる試みであるからである。近代を乗り越えるためのポストモダンの方向性がそこに存在しているのである。

 目の前にあるヴァン・ドンゲン展のフライヤーに載った「楽しみ」(1914) とイェーナーの本に掲載されたキルヒナーの「モデルといる自画像」(1910) を同時に見つめながら、私はその二つの絵の向こうにあるものを見つめようと目を凝らした。その時、私はベルトルト・ブレヒトの「くらい晩」という詩を思い出した。

くらい晩、くらい晩

川にかかった高い橋

夜と朝のあいだの時刻

また冬の季節のながいこと

こんなものはこの国に

ないほうがいいわ

 

それはあぶないです

なぜって、ひとは

みじめさに面とむかうと

ほんのちょいとしたことで

そのたえがたい生活を

ほうりだしてしまいます

               (長谷川四郎訳)

 熱情的な原色が塗りこめられていても、第一次世界大戦の足音が近づき、ふいに襲撃して来て、ヨーロッパを侵食しようとしていた。激烈な戦火による荒廃、死者の群れ、合理の名を持つ科学は殺人マシーンを次々に生み出し、原初への回帰を切望する野生の残虐な叫びは世界中に谺す。炎で彩られた長く、耐えきれない冬の季節。排除、抑圧、憤怒、破壊の連続。理性と感情、進歩と回帰、合理と非合理、客観と主観、秩序と破壊、還元と切断、調和と荒廃。二項対立の季節は一方の選択を強制する。だが、他の道があったのではないか。いや、今からでも遅くはないのだ。他の道を探すのだ。それは解体構築の道であることをわれわれは知っているのだから。しかし、解体構築をどのような方法で実現し、新たな世界像を構築していくのか。われわれはその明確なイマージュを実はまだ持っていない。ただ、新しい創造世界の地図はヴァン・ドンゲンの向かったスノビズムを超え、キルヒナーの向かった破壊性を超えて行くものであることだけは知っている。20世紀初頭に提示された二項対立問題に対する探求の答えを、21世紀に生きるわれわれは今も尚休みなく問い続けなければならないである。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12390:220918〕