フジコ・ヘミングさんのこと

著者: 盛田常夫 もりたつねお : 在ブダペスト、経済学者
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 ピアニストのフジコ・ヘミングさんがお亡くなりになった。ここ 10 年ほど、中東 欧各国で演奏活動を続けられ、ハンガリーでも定期的に演奏会が開かれた。2022 年 10 月の演奏会が最後になった。脚が悪く、付き添いなしでは歩行が困難だった。90 歳になっても演奏活動を続けられていることに感心しながら、これがハンガリーで の最後の舞台になるだろうと思った。アンコールが終わり、何度も聴衆に手を振り ながら舞台を降りたのが印象的だった。 さすがにこの歳になると、記憶力が薄れる。繰り返しが多いモーツアルトのコンチェルトでは、何度も演奏が中断した。その度に、指揮者とオーケストラはうまく対応したが、やはり歳には勝てない。聴衆は何とか最後まで弾いて欲しいと願い、 固唾をのみながら演奏が無事終わるのを待った。終わった瞬間にホットしたのを覚 えている。
訃報を伝える新聞記事では「世界的ピアニスト」という表現があったが、これに は違和感がある。音楽やスポーツの世界で、「ワールドクラス」と呼ばれるのは、トップテンあるいはトップ 30~50 までだろう。次から次への若い世代が台頭するス ポーツや音楽の世界で、「ワールドクラス」と評価されるのは特別な才能を持った 一握りの人々である。日本で人気があるから、世界でも人気があると考えるのは間 違いである。

フジコさんは、1999 年 2 月の NHK ドキュメンタリーで紹介されてから日本で知ら れるようになり、それを契機にソロアルバムが爆発的に売れ、日本での演奏活動が始まった。70 歳目前で陽の当たる舞台に登場した音楽家は彼女以外にいないだろう。 それを実現したのは、ピアノの実力というより、彼女が辿った人生に共感を覚えた人々の人気である。

日本では TV で紹介された商品や人物が、実際の効能や実力とは 関係なく、ストリーだけが肥大化して異常な人気を生むことがある。クラシックの音楽の普及になることは望ましいことだが、いかにも日本的な現象である。あたか も安倍晋三が「世界的な政治家」と日本で評価されるのに似ている。欧州の政治家は安倍晋三をトランプ大統領の「抱っこちゃん」人形と認識していても、優れた政 治家などとは考えていなかったし、一般の人々が安倍晋三の名前を知らなかったの は言うまでもない。 残念ながら、欧州の音楽界ではピアニストとしてのフジコさんの名前は知られていない。欧州各国で演奏会を開いていたから「世界的」とうのは間違っている。

ハ ンガリーではそれこそ当代の世界的なピアニストが常に演奏会を開いている。法外な報酬を支払う日本とは違い、ハンガリーで支払われる報酬は多くない。それでも 世界の一流のソリストたちは招待されれば、喜んでブダペストの演奏会を受諾する。ウィーンーブダペストープラハは中欧のクラシックのメッカである。このメッカで フジコさんの公演を企画してもチケットは売れない。財政難に苦しむハンガリーの オーケストラが、赤字覚悟でフジコさんを招聘する余裕も義理もない。だから、日本のフジコ財団が指揮者やオーケストラの報酬、ホール借料をすべて負担する形で 演奏会が主催されてきた。席を埋めるために多くのチケットは無償で日本人社会に 配布され、NHK のドキュメンタリーを見た人々が、「有名人のフジコさん」を見るために集まった。このような演奏会では、日ごろクラシック音楽に関心のない日本人も、「有名人」見たさに多く集まる。事実、聴衆の半分以上は日本人で、多くが幼児同伴の家族連れである。子供のピアノ発表会に行くように、盛装して幼子を連 れてコンサートにやってくる。

ところが、子供たちはホールの後方で声を出しながら遊びまわっている。演奏会が始まっても、音楽に関心のない子供たちが退屈して 愚図っている。そのような子供たちが多い中で、聴衆が演奏会を楽しむのは無理だ。 2016 年のコンサートはリスト音楽院で開催されたが、私が座った 2 階席には赤子を連れた夫婦がいた。これも時折日本人社会に見られる光景で、何時泣き出すか分 からない赤子をクラシックの演奏会(あるいはテニスの試合会場)に連れてくると いう非常識に遭遇する。案の定、フジコさんのソロ演奏時に、目を覚ました赤子が 「ギャー」と泣き出した。夫婦はすぐに会場の外に出たが、周囲の聴衆が興ざめしただけでなく、舞台のフジコさんも一瞬、客席に目を向けた。こういうことがあるから、日本のクラシック演奏会では「未就学児の入場はご遠慮ください」と注意書きされている。しかし、フジコさん人気に釣られ、初めてクラシック音楽を聴く日 本人にはそういう常識は通用しない。なんとも残念なことである。

フジコさんはミスタッチを気にしないと語っていたようだ。世界のトップを競うピアニストではなく、いわば素人相手のピアニストだから、エンタメ的な要素が強かった。だから、ミスタッチや演奏の中断などは許容された。ところが、2000 年代初めに国立ハンガリーオーケストラが日本公演を行った時に、 問題が起きた。日本のクラシック公演では会場を満席にしても、1000万円程度の補助金かスポンサー資金がないと赤字になる。だから、地方公演では少なくともチケ ットを完売しなければならない。集客のために、音楽性を犠牲することが必要になる。だから、人気があるフジコさんの出演が組まれた。要するに日本でのクラシッ ク公演はエンタメ的要素がなければ、ビジネスとして成立しないのだ。

当時のハンガリー国立オケの音楽監督で指揮者のコチシュ・ゾルタン(1952-2016) は、知る人ぞ知る世界的なピアニストで、オーケストラに厳しい練習を課すことで知られている天才である。日本公演のソリストは国立フィルが選ぶのではなく、日本の主催者が集客を考えて選ぶ。コチュシュが指揮し、フジコさんがソリストとして出演するコンサートのリハーサルで、フジコさんの打鍵の間違いに我慢がならな かったようだ。コチシュは自らピアノを弾いて弾き方を伝授したのだが、その後、 フジコさんはピアノを弾けなくなるという出来事があった。日ごろ、コチシュはソリストには自由に弾かせると明言していたが、さすがに間違った打鍵を許すことができなかったようだ。

国立フィルや芸術監督としての矜持から、間違った音を放置することはできない。とくにコチシュは 1 音も間違えずにレコーディングを一度で終えるほどの伝説の持ち主だから、平気で間違った音を出す演奏家を許すことができない。だから、国立フィルのリハーサルは厳しく、間違っ た音を出す演奏家は厳しく叱責された。それくらいの厳しさで向き合わなければ、オーケストラのレベルを上げることはできない。世界的レベルに到達するためには、 それだけの厳しさと努力が必要だということだ。当代きっての音楽家に、エンタメ と割り切って妥協する余地がなかった。もちろん、できないことを無理強いするこ とに意味はないから、実際の演奏会では種々の妥協を成立させなければならないことは、コチシュも良く分かっていた。呼ばれた身としては、主催者の意図を台無しにできないことは分かっていた。しかし、だからと言って、リハーサルをいい加減に終えていいわけがない。それは第一線で精進している音楽家としての矜持である。

安倍元首相が頻繁に外遊していたことや、トランプ大統領ときわめて親しかった ことから、日本では国際的な政治家だと過大評価された。そういう評価をするのは 勝手だが、それはあくまで日本の一部の人々の内輪の評価に過ぎなかった。島国で 国際関係に不慣れな日本人は、国をまたいで活動をする人々を「世界的な著名人」だと錯覚する。世界を知らない日本人が簡単に陥る錯覚である。ワールドクラスというのは、分野にもよるが、世界のトップ 30 あるいはトップ 50 として数えられる 人々である。世界は広く、常に天才的な人物が次から次へと頭角を現す。そういう世界の中で、自らの立ち位置を知り、進退を決めることは重要なことである。もちろん、それはたんにそれぞれの分野での活動を止めることを意味するものではない が、少なくとも活動の目的や方法が年齢とともに変わることを受け止めることだと 思う。そうしなければ、醜態をさらすだけになる。肝に銘じたいことである。

初出:「リベラル21」2024.5.21より許可を得て転載
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