フランスでのテロを境に、宗教について考えることがありました。
それは、我々日本人は、自分の持つ宗教的信念や他宗への態度、また、宗教一般への態度が如何に大らかであるか、と云うことです。
良く言われることですが、お正月には、神社へお参りに行き、親族の命日には、僧侶に読経を願い、墓参もするものの、他宗の勧誘を受けて信心の対象を乗り換えることも多いのですし、お参りに行く神社に至っては、要するに何処でも構わないようです。 私自身も正月には、近所の神社へ行き、また、日頃は御無沙汰している京都の神社へも行き、と見境がありません。
一応は、我が家伝来の本願寺を先祖から伝わるまま家の宗教として継承していますが、詳しく経典を読んだことも無く、京都の本山へは数十年も御無沙汰です。
そんな自分から観れば、他国の人々が宗教的信念に基づいて抗争を繰り返している事態が充分に理解出来かねるのです。 本心では、阿保じゃないか、とも思えるのが事実です。
でも、そんな私でも、休日の朝早くから、何処かの新興宗教が布教で訪問されると、我が家は、念仏を御唱えしているだけで他宗には興味は無い旨をお伝えはするのです。 でも、敵対する積りはありません。
ところが、国が違えば、或は、人が違えば、そうした事態は、容易に流血に繋がるのでしょう。 例えば、第二次大戦後に独立したインドとパキスタンのように、自身が信じる宗教に従って国境線を定め、その国境線を目安に全国土の民衆が、己が信じる宗派が住まう地域へ移動し、その過程でお互いが殺戮を繰り返したのが歴史の教えるところです。
勿論、日本でもそうした事象は歴史には残っています。 本願寺の門徒が当時の戦国大名と刃を交えた史実もあります。 関西では、本願寺が、今尚、強い影響力を持っていることはそうした歴史に学べば理解が出来ることです。
処で、何年も前のことですが、キリスト教会(新か旧か、それとももっと他宗かさえ忘れました)での御葬式に参列したことがあります。 正直に申し上げて、顔の黄色い人々が白人のキリスト像が観える場で、賛美歌を謳い、西洋伝来の宗教者特有の衣服を着用された職業的宗教者の御話を聞くのには堪えられず、途中で失礼を申しあげたことがあります。
後ほどに、何故、耐えられなかったのを反省しました。 それは、幼児の頃に亡父母や祖父母とともに訪れた本山と近隣のお寺での仏事の数々が、突然、脳裏に蘇り、眼前で繰り広げられる場違いな宗教的催事に集中することが出来ないようになってしまったからでした。
一種、生理的な拒否反応でした。 何かが自分を駆り立てるようにその場から立たせてしまったようでした。 後ほど、私の挙動を不審に思われた友人から離席の理由を尋ねられて答えに困るほどでした。
御寺や神社と云うものが自分の生活史に深く刻み込まれてしまっていたのでしょうか、その自分の何十年の生活史からは、切り取ることが出来ないものとして寺と神社があり、それと相反する存在は生理的に受け入れが出来ないようになってしまっていたのでしょう。 要するに私が日本人として出来上がってしまったのでしょう。 それなら、西欧伝来のバター臭い宗教に馴染めないのも当り前ですが。
さて、この度のフランスでのテロに関わっては、諸々の観測が可能ですが、こと宗教的な観点から観れば、仏風刺週刊紙シャルリー・エブドは一線を超えていたのではないのでしょうか。 テロに合理的事由があるのではありませんが、言論の自由を盾に他宗を攻撃し侮辱することが許される社会こそが理不尽である、と思われるのです。
イスラム原理主義に基づくテロを合理化する積りは毛頭ありませんが、他人が持つ信仰を悪し様に貶す言論が無原則に認められる道理はありません。 これがキリストとキリスト教を意図的に継続して誹謗する言論であったとしてフランス人も含めて西洋では如何なる反応を示されるのでしょうか。
西洋は、何世紀にも渡り、イスラム世界を蹂躙し、植民地化し、新植民地主義的動機に依ってイスラム世界を分断し、抗争を仕掛け分裂させ、己が欲望に抗う民衆を虐げて来ました。
中東地域の政治勢力を己が欲望に馴染む勢力と馴染まない勢力に分け、ISISのように西洋に抗う存在ならば、西洋の神よろしく天から爆弾を降り注ぎ、あらゆる手段で無害化しようとして来ました。
従って、反イスラムとしての西洋宗教とその意向を汲んだ言論との間に境目が無いのを承知してイスラム世界が立ち向かうようになっても、それは、西洋諸国の今までの仕打ちの倍返しであるのでしょう。 そう思えば、欧州での反応が如何にも薄ら寒く思えます。