ブルマンさんへ

確かに、マルクスの「価値実体論」なるものは、「形而上学的思考の極み」と言われてもしょうがないでしょう。かの「蒸留法」は、リカードの「価値とは投下労働である」という断定的記述をペダンチックに言いかえたにすぎません。この「論証」なるものを素直に理解できること自体が不思議でなりません。「信者」でない限り、疑問を持つほうこそが正常な思惟の働きだと思います。

しかし、「信者」と違って、「グル自身はさすがだ」と思うところあります。それは、グル自身が「価値は幽霊のような対象性だ」と言っているところ、およびベイリーのリカード批判に配慮をしているところです。グルは、「リカード流の理解そのままならば、『労働者の手から労働ビームが発せられ、それが生産物に入っていくというオカルト話』(松尾匡さんの表現―パクリご容赦)になってしまう点にある程度気付いていたと思います。この点を考慮してやらなければ…。

さて、このグルの二面性―リカードの忠実な弟子という則面とその批判者としての則面―のうち、私は、宇野さんから学んで後者の面を重視したいわけです。こう言うと、「なんだ君は、結局価値なるものは幻だと思っているんだろ」と言われそうですね。でも、ちょっと待ってください。確かに「学知」から見ればそうでしょうが、商品世界に住む「当事者」にとっては、価値は「存在する」のです―それは、「裸の王様」の王国の臣民にとっては、例の着物が「存在する」のと同様です―。それどころか、この「幻のようなもの」は、お金という「物」の姿をとって、人々の行動・意識すら支配しているのです。そうは思いませんか?

ブルマンさんの続きのお話を期待します。