ブルマンさんの論理は全く正しい。価値形態論についてのマルクスのオリジナルの論理そのものからは、確かに「唯一の存在」=一般的等価形態は出てこないでしょう。
今4つの商品と4人の商品所有者ABCDがいるとします。そうするとこんな4つの交換の申し出を表す式ができるでしょう。
A⇒B,C,D・・・1
B⇒A,C,D・・・2
C⇒A,B,D・・・3
D⇒A,B,C・・・4 (⇒は交換の申し出を示す。左辺と右辺は交換できない)
見た通り、どの商品も一般的等価形態になりうるわけです。そこで、マルクスは本来交換できない、1式の左辺と右辺を無理やり入れ替えてAという一般的等価形態を導出するわけです。でも。1式が交換可能なら、2,3,4式も交換可能なわけで、結局一般的等価形態が4つも出てくることになり、ここで論理は破綻してしまうわけです。
この通り、ブルマンさんのマルクス価値形態論批判はまさに正しい!
しかし、ブルマンさんの批判が正しいのには前提があります。つまり、4者の交換が量的に無差別、均一であるという前提です。
そして、「そうした前提が正しいのか」と疑問をぶつけるのが宇野派の価値形態論なのです。むしろ、「交換が量的に無差別、均一である」というのが特殊であり、むしろ不均一なのが一般的ではないのかというわけです。つまり、
A⇒0.9B,0,3C,0.2D
B⇒0.3A,0.4C,0.5D
C⇒0.ⅠA,08BかつDを求めない。
D⇒0.3A,0.95B,0.2C
このような不均一の式のほうが一般的ではないでしょうか。そして、このようにBに対する需要がかなり多い場合、Bはその使用価値が求められるのではなく、交換手段、すなわち一般的等価形態として求められるようになるというのが、宇野派の論理だと思います。
すなわち、「その使用価値がもっとも普遍的に求められる商品が、その使用価値自身ではなく、その交換手段(価値の担い手)としての機能=一般的等価形態を求められる」というパラドックスが存在するのです。これこそが宇野派の価値形態論の要諦だと思います。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study973:180512 〕