(2023年2月24日)
先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。
ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。
美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。
人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。
1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。
だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。
どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。
この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。
そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。
いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2023.2.24より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20884
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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