ここに紹介するのは、先月20日、92歳で亡くなったアメリカの著 名な草分けの女性ジャーナリスト、ヘレン・トーマスの晩年の率直な発言に触れて、中東研究の歴史家ローレンス・デヴィッドソンが考察した 一文で す。拙訳ですが、ヘレン・トーマスの略歴も下記に添えてみました。
日本では、主流メディアが巧妙な世論誘導に精を出しジャーナリズムが死にかけているとき、人種的偏見とは何か、 ジャーナリストの気骨、デモクラシーにおけるジャーナリストの役割、などについて参考になれば幸いです。(2013年8月15日記)
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On the Death of Helen Thomas
ヘレン・ トーマスの死
ローレンス・デヴィッドソン(松元保昭訳)
2013年7月21日
インティファーダ・パレスタインより
著名なジャーナリスト、ヘレン・トーマスは、2013年7月20日、92歳 で亡くなった。彼女はホワイトハウスを担当する最初の女性ジャーナリストで、先例のない50年 間をそのように生きた。彼女は、常にきびしい質問を浴びせるにもかかわらず、その仕事を継続した。彼女の経歴を中傷したアメリカのシオニ スト・イデオローグによるご都合主義的な攻撃さえなければ、それは栄光の人生行路であった。以下に紹介するように、そのことが起きたと き、私は彼女を弁護する記事を書いた。そのオリジナルは2010年6月23日 であったが、ここに最新版を提示した。
●パートⅠ ヘレン・トーマス怒る
ヘレン・トーマスは、ホワイトハウス記者団のなかでも最も尊敬されて いた。しかし、いわば政治的に敏感にならざるをえない致命的な話題について、思ったことをあけすけに語ったその日、彼女は失敗してしまっ た。彼女は大きな声ではっきりと、ユダヤ人は「パレスチナからとっとと立ち去る」べきだ、そしてヨーロッパに帰るがいい、と語った。さら に彼女は、パレスチナは「ドイツでもポーランドでもない」と付け加えた。
あいにくにも、一部始終がYouTubeに アップされる羽目になった。案の定、アメリカのシオニストたちは、 彼女のいたるところを非難した。彼らの上司たちが受けたヘレン・トーマスのきびしい質問に腹を立てていたかもしれない数人のホワイトハウ ス情報部員が、この告発の最前線にいた。前クリントン大統領首席法律顧問ラニィ・デイヴィスは、ヘレン・トーマスは「言論の自由の限界を 越えたため彼女の名誉は奪われる」べきだと、ただちに公表した。
合州国憲 法修 正第一条(言 論の自由など権利章典に基づく基本的人権=訳注)の 法的保護からシ オニスト国家の批判を除外するイスラエルの支援者たちの攻撃が進行した。デイヴィスは、ヘレン・トー マスは「彼女自身が反ユダヤの人種的偏狭者であることを明らかにした」と付け加えた。別の前ホワイトハウス報道官エリー・フレッシャー は、ヘ レン・トー マスのホワイトハウス記者資格を剥奪し、彼女は解雇されるべきだと語った。彼もまた、彼女を反ユダヤの人種的偏狭者と呼んだ。ユダヤ人文 化教育促進協会(B’nai B’rith) の国際議長デニス・グリックおよび副議長デニール・マルレイシンは、ヘ レン・トー マスはイランのアフマディネジャド大統領の盟友であり、「イスラエルの非合法化」を捜し出す徒党 の一味 である、と非難した。
●パートⅡ 考えるべき問題
イスラエルの行動の仕方は、自国が「非 合法である」ことに、ヘ レン・トーマスなどまったく必要としない。彼ら自身、申し分ない事をやっているのだ。彼女の 発言は、 ガザ支援船に対する(公海上の)海賊襲撃の余波で出回ったものであり、そのときイスラエル部隊はマヴィ・マルマラ号で9人 の救援活動家を殺害していた。実際、いつもそ のように行動するシオニストたちが他の人々の怒りに腹を立てる正当な理由などほとんどない。明らかにヘレン・トー マスの発言は怒りと失望の気分でかっとなったものである。われわれは誰もが、かっとなると何か言うものだが、幸いなことに、ほとんどはYouTubeに アップされたりはしない。
しかも、こうした発言のほとんどは自己流のやり方であって、そこでは 現実的で分別ある見解を表したりしないということもわれわれは知っている。かつて私は、中東研究会の例年の会合で講演をした尊敬すべき中 東歴史家が、もしイスラエルがその地理的位置から切り取られて地中海に沈んだら、世界はもっと住みやすい所になるだろうと言ったことを聞 いた。この人物は人種的偏狭者であったろうか?そんなことはない。彼はユダヤ人だった。また彼は「自己嫌悪」の人でもなかった。それどこ ろか、彼は怒っていたのだ。
「イスラエル人とパレスチナ人について感じた先週の私のコメント」を 後悔していると述べ、ヘレン・トーマスは謝罪を表明した。苦境に追い込まれた彼女を考えると、彼女が本当に後悔していることは疑いない。 彼女はさらに進んで、「それらの発言は、すべての党派が相互の尊重と寛容の必要性を受け入れるとき、そのときだけ中東に平和が訪れるだろ うという、私の偽りない信念を反映してはいない。その日はじきやってくるかもしれない。」と語っている。
彼女の常に正直で鋭い50年 以上もの報道経歴を考えると、この最 後の発言は、恐ろしいイスラエル の行動に彼女が正面から向かっていなかったら(出てくるはずのな い)、ありのままのヘレン・トーマスを表現していることは疑いようがない。フレッ シャー、グリック、およびマルレ イシン、彼らは明らかにご 都合主義者なのだが、そういうシ オニストたちから、人 種的偏見という中傷や彼女の 経歴を破壊せよと いう合図が出てくるなどとは、まっ たく釣り合いがとれない話だ。
●パートⅢ シオニストの人種的偏狭
いま人種的偏狭を話題にしている以上、その評価におけるシオニストの 行動を検討してみよう。そもそも、ひとが人種的偏狭者として批判するなら、その批判の根拠を見なければならない。イスラエルのユダヤ人 は、過ぐる65年、 イスラエルのアラブ人に対して組織的な差別をして過ごしてきたし、さらに継続する占領地のパレスチナ人に関して言えば、アパルトヘイト体 制を打ち込んで支配システムを樹立してきたという不愉快な事実がある。イスラエル・ユダヤ人にかんする最近の調査は、彼らの多くが、パレ スチナ人を隣人として望まない、あるいは同じアパート街区にアラブ人が住むことを認めない、ということを示している。イスラエルの学校教 科書は、現在ユダヤ人国家と呼ぶこの地域のパレスチナ人の歴史を故意に消し去ったのだ。
この差別的な環境は、イスラエル政府によって促進されている。イスラ エルのジャーナリスト、ミィア・グアルネリは、状況をこのように説明している。「継続するパレスチナ人の虐待は、毎日イスラエル人の自由 をことごとく危険にさらしている。もしあなたの政府が法令を無視して、あなたの隣人の公民権を停止しそのもっとも基本的な人権さえも踏み つけているなら、あなた自身の自由が無傷なままであるなどとどうして期待できますか?」イスラエルの自由は、厳密に言えば、あまりに多く が自民族中心主義の特権として知られている。これは、彼らが生きている社会が何かひどく間違っていることに気付いている公正で人道的なイ スラエル・ユダヤ人がいない、と言うことではない。いることにはいるが、当然ながら彼らはあまりに小さな少数派である。
別な言葉で言えば、現在のような体制をとり作戦行動をしているイスラ エルは、積極的な国家であり、かつ消極的な人種的偏狭者といえる。この結論は、(イスラエルの人権組織を含む世界の人権組織の大部分に よって根拠づけられた)証拠に基づいている。こうした事情で、今日、イスラエルは人種主義者の場所であり、「ユダヤ人国家」から、そのす べての市民が平等な権利を持つ一国家、民主的な世俗国家に変 えられねばならない、と 私は主張する。それは、イスラエルのユダヤ人すべてがヨーロッパに戻るとか東地中海で溺れるという要求ではない。それはまさに、シオニズ ム・イデオロギーの崩壊という要求である。
もしユダヤ人文化教育促進協会の人々がこれを知ったなら、彼らはかん しゃくを起こして私を反ユダヤの人種的偏狭者と呼ぶだろう、と私は賭けてもいい。それが、わがダブルスタンダードの世界に入るやり方なの だろうから。
(以上、翻訳終り)
ご参考:ヘレン・トーマス略伝
★Helen Thomas biography
http://www.biography.com/people/helen-thomas-38119
<概略>
ヘ レン・トーマスは、1920年8月4日、 ケンタッキー州ウインチェスターに生まれた。彼女は、ケネディ政権のとき、ホワイトハウス記者団の最初の女 性メンバーとなり、その後50年以上、10人の大統領について取材報道した。彼女は、UPIの初の女性ホワイトハウス局長で、ワシントンの歴史的な記者グ ループ、グリッドアイアン・クラブの最初の女性メンバーであった。ほぼ60年UPI に勤めたあと、トーマスはシンジケート組織ハーストのコラムニストになった。2010年、 イスラエル・ユダヤ人はパレスチナから「出て行く」べきだという議論を呼ぶ彼女の発言がYouTubeで表面化したのち、老練ジャーナリストは引退した。トーマスは、2013年7月20日、92歳で亡くなった。
<初期の経歴>
ヘレン・アメリア・トーマスは、1920年8月4日、ケンタッキー州ウインチェスターでレバノン人移民の娘とし て生まれた。食料雑貨店を営む父と主婦である母は、9人の子どもをもち、トーマスが4歳の時、一家はミシガン州デトロイトに移った。彼女が高校に入 学した時、トーマスはジャーナリストになりたいと考えた。1942年、彼女はデトロイトのウェイン 州立大学で英語の学位をとり卒業した。
大学の後、トーマスはワシントン・デイリィ・ニューズのコピーガールとなり、すばやく報道記者に昇格 した。1943年、彼女はUPに加わりローカ ル・ニュースと女性にかんする記事を担当し始めた。
1950年代はじめに、トーマスはワシントンの著名人および政府諸機関を担当し始めた。1958年に、UPがINS(インターナ ショナル・ニューズ・サービス)と合併してUPIになった時も、彼女はUPで仕事を続け、1974年までその組織で働いた。
<ホワイトハウス報道>
1960年、トーマスは、次期大統領ジョン・F・ケネディおよびホワイトハウス日刊紙記者会見および報道会議を担当し始め た。1962年、彼女は、ホワイトハウス特派 員および報道写真家のための恒例の夕食会に女性の参列も許可されるように、ケネディ大統領に提案するよう説得した。
1970年、その地位に就いた最初の女性として、UPIのホワイトハウス特派員部長に任命されてから、トーマスは女性ジャー ナリストの道を切り拓くために活動を続けた。1972年、ニクソン大統領の歴史的な中 国への旅行中、トーマスは、同行する唯一の女性新聞ジャーナリストであった。
トーマスは、女性ジャーナリストの障壁を取り壊し続けた。1974年、UPIのホワイトハウス部局を率いる初の女性となった。1975年、彼女は、後にその代表に指名されたワシントンの歴史的な報道グループ、グリッドアイアン・クラブ への参加を認められた最初の女性となった。さらにトーマスは、1975年から1976年、ホワイトハウス特派員協会の 初の女性理事長となった。
彼女の先駆的な業績を越えて、ホワイトハウス記者会見ルームに彼女自身の座席をもつ唯一のメンバーと して、ホワイトハウス記者団の不動の地位を獲得した。しばしば、「報道のファースト・レディ」と呼ばれ、彼女は、50年にわたって10人の大統領を担当した。記者会見ルームの最前列の席から問い糺 される彼女の痛烈な質問の数々は、アメリカの市民に有名になった。彼女は、統一教会の指導者文鮮明師が経営したメディア・コングロマリッ ト、NWC(新世界通信)によって報道機構が悪評を買ったのち、2000年にUPIを辞職した。
<最後の論争の経過>
UPIから辞任した2か月後、トーマスは コラムニストとして新聞王ハースト財団に雇用された。彼女は、2002年にNNA(全国新聞協会)から 終身授与賞、および2007年にはワシントン・プレス・クラ ブ財団から生涯業績賞など、パイオニアとしての経歴ゆえに賞賛を受け続けた。
しかし、トーマスのキャリアは、2010年の論争で終った。 それは、イスラエル人は「パレスチナからとっとと立ち去る」べきだ、さらに「ポーランド、ドイツ、アメリカ、他のどこへでも」帰るがいい、と彼女が語った ことがYouTube で表面化したのだった。トーマス は、彼女の発言について謝罪を表明した。「それらの発言は、すべての党派が相互の尊重と寛容の必要性を受け入れるとき、そのときだけ中東 に平和が訪れるだろうという、私の偽りない信念を反映してはいない。その日はじきやってくるかもしれない。」
トーマスは一週間後に引退したが、2011年7月、彼女はフォールズ・チャー チ・ニューズ・プレスのコラムを執筆するため復帰した。2012年8月、PLO代表のマフムード・アッバスに代わってパレスチナの 活動家で学者のハナン・アシュラウィが、パレスチナ人を擁護したという理由でトーマスにメダルを授与した。
<私生活と死>
トーマスは、AP通信のホワイトハウス通信員ダグラス・コーネルと1971年に結婚し、1982年の彼の死まで続い た。彼女の報道に加えて、トーマスは3冊の本を書いた。『ホワイトハウ スの最前列で―私の人生と時代』(1999)、『記憶をありがとう大統領殿― 機知と知恵、ホワイトハウスの最前列から』(2002)、『民主主義の番犬?―弱々しく なったワシントン記者団およびいかに市民の期待を裏切ったか?』(2006)。
彼女が60年以上も過ごしたワ シントン・DCのアパートで長い病の後、2013年7月20日、トーマスは亡くなった。彼女の死に際して、オバマ大統領は、彼女の先駆的な経歴に栄誉を讃える声明を発表した。 「ヘレンは、ジャーナリズムにおける女性世代のために障害を取り除きドアを開けた真のパイオニアだった。」と彼は述べた。「彼女はケネ ディ大統領以来、ホワイトハウスのあらゆることを担当した。その間、彼女を前にして気を引き締めなかった大統領は―私自身を含めて―ひと りもいなかった。ヘレンをホワイトハウス記者団の最長老にさせたことは、在職期間の長さではまったくない。不屈の質問を問い糺しわれわれ の指導者に責任をとらせるとき、われわれのデモクラシーが最もよく機能するという彼女の激しい信念がそうさせたのだ。」
(以上、松元保昭訳)
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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