以下の文章は、自主サークル「ヘーゲル研究会」の三月例会で報告者(筆者)が提出したレジュメに若干手を入れたものである。テキストに中央公論社版「世界の名著」シリーズ「ヘーゲル・序論」を用いて、若きマルクスが「ヘーゲル哲学の真の生誕の地であり、秘密である」と記した、ヘーゲルの「精神現象学・序論」の解読を試みたものである。本研究会への参加を楽しみに闘病を続けていた澤野登氏が、2月初めに急逝したため、そのこころの痛手も癒えぬままに記した拙稿を、いま氏への追弔の意をこめて発表させていただく。
<著書の時代背景>
ヘーゲル(1770-1831)が、ヘーゲルが37歳の時の作品。「序論」は,ナポレオンのイェーナ占領の混乱のなかで書き上げられて,1807 年1 月,著書出版の直前に印刷所に回されたもの。その前年10月に、ナポレオン軍はイェーナでプロイセン軍を撃破して、イェーナ市内に進軍してきた。馬上豊かにナポレオンが進むさまを見たヘーゲルは、「皇帝というか、世界精神が進みゆく姿を見た」という趣旨の有名な言葉を残している。のちにマルクスが、ナポレオンはフランス革命の遺言執行人であると評したように、ヘーゲルもフランス革命という世界史的大事業のエージェントとしてナポレオンを見ていたことがわかる。
しかも神が受肉降臨してイエス・キリストとなったとするキリスト教神学さながらに、ヘーゲルの眼にはナポレオンは世界精神が人間の姿をとったものと映じたというところに、ヘーゲル哲学の特色がよくも悪くもあらわれている。この世の「はじめにことば(ロゴス)ありき」とした「ヨハネの福音書」の精神に通じるものである。
<精神現象学のテーマと見取り図>
p.109 「学問一般の生成、あるいは知識の生成を叙述すること・・・そこ(感覚的意識)から本来の知識(理性)にまで生成してゆき、学問のエレメント、学問の純粋概念そのものを産み出すにいたる」
略図の簡単な説明※
第一段階―対象についての感覚的表象と自我との一致=感覚的確信(認識の出発点としての素朴な意識)
第二段階―対象についての感覚的表象と自我とのずれ(非同等性)=区別であり、否定性である~
否定性を媒介にずれの解消へ向かう
第三段階―他在となった対象を自我に取り戻し、ふたたび同一性・同等性回復=範疇(抽象的概念)成立
~しかし対象についての範疇と自我との新たなずれ~次なるステージへ移行し、具体的普遍としての概念へ、そこでようやく概念と存在は一致し、真理へ到達する。
――→哲学とは、表象を思想やカテゴリー、より正確には概念に変える行為である。
※「精神現象学」本文では、意識の上向の行程は、感覚・知覚・悟性・自己意識・精神・絶対知となっている。
<ヘーゲルに特有の哲学観=真理観>
p.89 哲学は、特殊的なものを内に含む一般性(普遍性 Allgemeinheit)というエレメントにおいて成立する ★エレメントの語義は重要、脚注参照―水は魚に取ってのエレメント。
――マルクスにも引き継がれる「具体的普遍」としての理論体系-マルクスの場合は批判的経済学の体系。
p.90 哲学上の諸説の対立・相異を、「真理が進歩していく発展過程」という観点からみる。そうすると、それらの所説が対立し排斥し合うという「その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらは互いに争わないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である」
――個々の哲学諸説を固定化し自立化させて観るのではなく、生成し発展しつつある真理の全体(体系的有機的統一)の不可欠の契機として位置付ける。たとえば、主観と客観、直観知と反省知は対立しつつあるようにみえながら、じつは理性という主客の統一体のそれぞれが必要な契機をなしている。当然、立場の違いからくる不要な軋轢や抗争は避けられ、より高次の統一体をめざして競争的協力関係に立つことにつながる。その反面、対立する二項の予定調和的宥和ではないかという批判もありうる。
★P.91の脚注(1)ヘーゲル的「概念」の説明は重要。概念的な把握begreifenの意味押さえること。
p.92 「教養Bildungビルドゥング」とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されていくことである」
――実体的生活とは、人々が前近代的な共同体に埋没して、おきてや慣習のままに生き、個人としての自覚を持たない状態である。これに近い文言として、カントの有名なことばがある。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである」(「啓蒙とは何か」)。つまり教養と啓蒙は、ほぼ同義ということになる。しかも両者とも、前近代から近代への歩みを、人間の幼年期から思春期・青年期への成長と重ね合わせているのである。ドイツ教養小説との共有基盤。ここでは普通の意識から学問的な自覚へ上昇を遂げることを教養(自己形成)としているのである。本文「疎外された精神―教養」では、個人が個として成熟し社会化して、社会的存在となることとしている。
〔用語説明〕
◆実体(英: substance, ラ: substantia, 古代ギ:ousia)は、古代ギリシア出自の古典的な哲学用語。近世になってもスピノザ、ヘーゲルの哲学で重要な位置を占めた。独語Substanzの語源は、ラテン語sub・stare(下に立つ)=事物を支える根源的なもの。語源的にはSubjekt(主観、主体、主語)が、ラテン語subjectum(下にある)なので、実体も主体もほとんど原義は変わらない。井上哲次郎が、substanceを本質と訳したように、現象の背後にあって、現象を支える普遍的なものという意味。なお、近代の認識論中心の枠組みでは、Subjektは「主観」と訳されることの方が多い。
伝統的に実体は神とほぼ同義。アリストテレスは実体を「不動の動者」(他の一切を動かすが、自分は動かないもの)としたように、他に依存せず、自分自身によって存在するものとされている。ただし近代哲学の歩みは、実体などという形而上学的な概念の解体の過程だと言える。
「実体化」の一般的理解=概念あるいは抽象的観念など単に思考のうちにあるものを客観的にある実体とすること。たとえば、共同体において人々が共有する習俗や慣習や考え方の総体を実体化して、民族精神という独立した精神的な実在に仕立て上げるというように、今日では実体化は、観念的固定化という悪い意味で使われることが多い。
p.92「真理が現実に存在するためにとりうる真の形態は、学問としての体系のほかにない」
p.93「真理が現実に存在するのは、概念というエレメントにおいてのみである」
――真理=学問体系=概念形式と概念体系とするヘーゲルは、シェリングらの感情、直観知、宗教的陶酔を真理とする立場を批判する(もちろん学の出発点としては認めている)。事柄そのものへ沈潜して、その内的な連関と必然性をつかみ、体系に高める学問的な労苦を抜きには真理はつかめないとする。
<精神の発展史過程から現代的課題を位置づける>
P.94 第一段階―意識と実在とが合致する実体的な生活(古代・中世)~精神は自足し、まどろんでいる
第二段階―実体世界の解体と実体なき反省の世界(啓蒙的近代)~人格的独立と引き換えの孤立と自己喪失
第三段階―失われた実体性と存在充実の回復(現代)~これを哲学的洞察にではなく、信心や愛とかに求める傾向に対する仮借なき批判-主観と客観の絶対的同一性の哲学を説くシェリングなど、ロマン主義をヘーゲルは徹底批判
――東洋思想も、真理を宇宙的原理と自己との神秘的合一とする(たとえば、ウパニシャッド哲学における梵我一如―ブラフマンとアートマンの合一)。しかし自我中心の西洋思想と違って、そこでは自我の滅却を条件とする。瞑想や修行を通して自我を滅却し、主客の合一をはかる。
――人類史の三段階区分法は、ヘーゲルの影響もあるのか、マルクスも資本論準備ノートで次のような俯瞰を行なっている。
第一段階「人格的依存関係」――共同体の力にもとづく人格的支配への服属
第二段階「物的依存性のうえに築かれた人格的独立性」――人々の社会的関連は貨幣という物象に転化、それと引き換えの個々人の人格的独立性
第三段階「「諸個人の普遍的な発展の上に,また諸個人の社会的力能としての彼らの共有的・社会的な生産を従属させることの上に築かれた自由な個性」――「アソシェーション」という自由人の連合
<ふたたびヘーゲルの学問観と方法>
p.96 「現代が誕生のときであり、新たな時代への過渡期であることを見てとるのは、別に難しいことではない」 時代転換のとき=量から質への飛躍~徐々に進む変化が極まって、突然旧い世界の崩壊と新しい世界へのbreakthroughが起こる
――この箇所、フランス革命の熱烈な支持者であった若き日の情熱が、そのまま文章に反映しているといわれる有名な一節。これと比較されるのは、「法権利の哲学」序文において、学問の役割を「ミネルバの梟」(黄昏になってようやく飛び立つ)にたとえている箇所である。時代が成熟し、黄昏期になってようやく学問は完成する―「哲学は、思想において捉えられたその時代」。若き日の革新思想からの後退とみるべきか。しかしマルクスも経済学が学として成立する条件を、当該の時代が成熟し自己批判が可能になることに求めている。
p.97精神の冠たる学問も同様―「新たな精神のはじまり、それは、教養のさまざまな形式のあいだに変転をかさねてきた広大な過程の所産であり、いくえもの紆余曲折と、たび重なる努力と労苦とを経て得られた報酬である。それは、この経過と拡散とから自分に立ち返ったばかりの全体Ganzeであり、このようにして生成した全体の、いまだ単純な概念でしかない。この単純な全体が現実性を得るためには、いまではこの全体の諸契機となっているさまざまの形態が、ふたたび新たに、ただしこの新たなエレメントにおいて、すなわちここで生成してきた新たな意味において、展開され、形態を得ることが必要である」
――歴史的な精神の歩みと、学問の論理的な概念構築過程を重ね合わせるのが、ヘーゲル思想の特徴である。つまり論理的なものと、歴史的なものの一致、あるいはヘッケルのいう「個体発生は、系統発生を繰り返す」という命題と相似。われわれが教養を積むとは、人類が達成してきた知的業績を現代の地点に立っておさらいし直し、わがものとすることであるーたとえば、ニュートンやライプニッツという天才が生み出した微分積分法を、こんにちではふつうの高校生が習得する。
このメカニズムをヘーゲルは次のように記す。p.110
「教養を得るということは・・・個人の側から見れば、それは、個人が自分の目の前にあるものを獲得し、無機的自然を消費して時分に取り込み、自分の所有にすることである。しかし実体であるところの一般的精神(普遍的精神)の側から見れば、このことは、実体がみずから自己意識を持つようになり、自分の生成と自分への還帰とを実現していくことに他ならない」
――つまり、歴史的に生成・自己発展しつつ累積してきた文化的総体、主体的な統一体である「客観的精神(世界精神)」の過程に、個々人たる主観的精神は参与しつつ、その遺産をわがものとすることによって自ら成長遂げ、よってもってこんどは自覚的行為者として客観的精神の持続と蓄積、変化と革新に寄与する、ということであろう。
p.98 「完全に規定されているものであって初めて、それは同時に顕教的exoterisch(公開的)であり、把握されることができ、学ばれてすべての人々の所有となりうる」
――秘伝や奥義といった秘教的(esoterisch)な伝達方法は、学問の公開性にはなじまない。数理科学と市民社会を生み出した西欧文明の特色といえる。
<分析的な悟性=否定性の偉大なるはたらき>
p.98 「学問をこころざす意識が、悟性による理解を通して理性的な知識に達しようとするのは、正当な要求である」 思考に特化した人間homo cogitans―デカルト的自我=純粋自我一般(~カントの先験的統覚)~学問的営為の入り口
p.113 「分析のはたらきは、悟性というあの何より驚嘆すべき偉大な、いや絶対的ともいうべき威力の業である」
「精神の威力は、否定的なものに面と向かってそれを直視し、そのもとに身を置くという、まさにこのことに存する」
――感覚的所与の全体を分解分析して自立した要素を取り出す作業―「否定的なものの巨大な威力」
この否定的な力によって、実体は自己展開する運動のエネルギーをあたえられ、主体となる。しかも否定性は自己自身のうちにあり、したがって媒介も外部にあるのではなく、自己自身のうちにある。
――主客二元論に立つ分析的精神は、とかく近代社会の分裂の元凶として槍玉にあげられる。しかし統一的な理性を重んじるヘーゲルにおいてもなお、分析的思考を学問(科学)の不可欠の契機として強調していることに注意。なお認識論における分析的な理性は、社会哲学の場面では個我の自覚の強調に通じる。和が優先されるアジア的風土においては、依然として個の確立は市民社会成立の要件となる。今日の問題は、個人主義の行き過ぎというより、超大衆社会化の結果として個人の原子化が進み、個人の生を下支えする実体的なもの=コミュ二ティのきずなが失われていることである。
p.102 「実在が把捉され表現されるためには・・・同時に形式Form(形態)として、しかもその豊かな展開の全体において、把捉され表現されるのでなければならない。そのことによってはじめて実在は、<u>現実的なもの</u>として把捉され表現されることになる」
――分析の重要性は、形式(形態)の重視と重なっている。分析は科学にとって不可欠の方法である。マルクス曰く、「研究は素材を細部にわたってわがものとし,素材のさまざまな発展形態を分析し,これらの発展形態の内的なきずなを探り出さねばならない」(「資本論」第1巻,第2版へのあとがき)。それは今日の言語学がいうところのarticulation分節―接合という概念に近いのではないか。ヘーゲルの場合、全体が様々な分肢より構成され、その有機的なつながりと相互作用によって成り立っていると考えられている。
ここでの本題ではないが、ヘーゲルにおける内容と形式(形態)の対概念は重要である。現実の事柄は内容と形式の統一のうちにある。しかし内容の変化発展にともない、既成の形式との齟齬が大きくなり対立抗争状態になるが、やがて内容に適合する新たな形式が生成すると、そこに内容と形式の一致する新たな<u>現実</u>が成立する。まさに唯物史観でいうところの、歴史の駆動力としての生産諸関係と生産力との矛盾という命題と瓜二つであろう。
――「現実的」wirklichとか「現実性」Wirklichkeitという独特の意味-学にとって現実的という意味。
例えば、ガリレオにとって数学的に表現されたものが、現実的―物理学的空間の斉一性、量的規定への還元と数学による定式化。日常的な意識に映じる現象は、そのままでは非現実的であり、ヘーゲルにとって哲学的概念によって構築される世界が、真の現実的世界。
(しかし近代科学の自己欺瞞にも注意―フッサールによる近代科学的方法論の存在論化批判「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」)
〔用語説明〕
●現実的wirklich、現実性(態)Wirklichkeit(reality)とは、本質Wesenと現存在Existenzとが一致した状態をいう。wirklichはwirken(=work)「作用する」から来ていることばで、動きや勢いとその結果を連想させる。ヘーゲルのこの用語の使い方には、アリストテレスの質料形相論由来のニュアンスが含まれている。アリストテレスは、自然における万物の生成を次のように説明する。まず材料にあたる、可能態(デュナミス)の状態にある質料(hyle,materia)が、設計図にあたる形相(eidos,form)を得て、
その結果として例えば机という現物ができる。これを可能態の現実態(エネルゲイア)への転化という。
胎児はいわば可能態にある人間であり、成人は現実態となった人間ということになる。しかもヘーゲルの場合、現実態への転化の過程は、意識の上向過程と相即不離。つまり可能態から現実態への転化は=即自
an sichから対自für sich(an und für sich)への転化と二重写しになっている。
――→アリストテレスが自然現象を説明する際の四原因論、つまり目的設定(目的因)―素材(質料因)―
設計(形相因)―加工(作用因)―製品(結果)は、自然現象に目的因を認めているところからもわかるよ
うに、その範型を人間の労働過程に求めていることがわかる(擬人化)。
p.104 自然に合目的性を認めたアリストテレスを評価←→近世哲学は、自然から目的論Teleologie排除、しかし歴史観にはキリスト教の終末論の影響で、目的論残る。
p.102 「真なるものは全体Ganzeである。そして全体とは、自己を展開することによって、自分を完成してゆく実在にほかならない」
――論理実証主義者や分析哲学者たち(ラッセル、ポッパー)が、ヘーゲル=全体主義者として猛攻撃した思想である。マルクス主義がまだ威勢のよかったころでも、K・ポパーのholism(全体論)批判は、現代で最も手ごわい論敵とみなされていた。
<真理を実体としてでなく、主体としても捉える>
序論における中心命題が、この実体=主体論である。以下、繰り返し繰り返し、この命題、つまりヘーゲルの中心思想が噛んで含めるように説明されている。
p.101「生きた実体は、存在といっても、真実には主体であるところの存在である。あるいは同じことであるが、生きた実体とは、その実体が、自分自身を定立するSich-selbst-setzen運動であり、みずから他者となりつつそのことを自分自身に関係づけ媒介するという、このかぎりにおいてのみ真に現実的であるところの存在である。主体としてのかぎりでは、それは単純な否定性であり、まさにそのことによって、単純なものを分割する働きである。その際、対立的なものへと二重化しながら、互いに交渉のないそれら二つの項のあいだの差異と対立がふたたび否定される。根源的な、あるいは直接的な統一そのものではなくて、このように自分を回復する同一性、あるいは、他であることにおいて自分自身に帰ってくる反省Reflexion(還帰)、これが真なるものなのである。真なるものは、それ自身になりゆく生成としてある。それは円環、すなわち、前もって目的として立てた自分の終わりを始めとし、そして、それを実現する過程と終わりによってのみ現実的であるところの円環である」
――ただし閉じた円環ではなく、意識―自己意識(感性・知覚・悟性)―理性―精神―絶対知の行程にみられるように、それぞれの段階が円環をなしながら、より高次の段階へと高まっていく「螺旋的回帰」の運動=たとえば、精神現象学の到達点(存在と意識、知と対象との分離克服=知のエレメント)が、次に来る論理学(思弁哲学)の出発点となる。
p.106 「真なるものは体系としてのみ現実的であるということ、あるいは、実体は本質的に主体であるということは、絶対者を精神として語る考え方のうちに表現されている」
――すべての存在を貫いて統一的に働く原理としての「精神」―即自~対自~即自対自。真に実在する現実は、多様な諸規定からなる全体であるーp.4参照のこと。たとえば、資本主義という体系的全体は、体系の端緒である商品―そこには資本主義の矛盾のもっとも単純で原基的(エレメンタール)な形態である使用価値と価値の矛盾が表現されている―から始まって、貨幣、労働力商品、資本といった諸経済的要素が有機的につながり、日々再生産していくシステム―それを経済学は経済的諸範疇の体系的編成として表現する。ここでは詳しくは論じないが、「資本論」準備ノートにおいて、マルクスはヘーゲルの学問体系の合理的な核心を取り出してみせる。ヘーゲルの体系―「論理学」や「法権利の哲学」にみられるように―「具体的なものは、それが多く諸規定の総括であり、したがって多様なものの統一であるからこそ、具体的なのである。・・・ヘーゲルは、実在的なものを、自己を自己のうちに総括し、自己のうちに深化し、そして自己自身から発して運動する思惟の結果であるとする幻想におちいったのであるが、しかし抽象的なものから具体的なものに上向する方法は、具体的なものをわがものとするための、それを精神的に具体的なものとするための、思惟にとっての様式にすぎない。だが、それは具体的なもの自体の成立過程ではけっしてないのである」(「経済学批判要綱―ノートM 経済学の方法」)。ここには若き日のラジカルでイデオロギー的なヘーゲル批判とは違った接し方をしているのがわかる。
p.116 「<u>精神とは、みずから他のものに、すなわち自己の対象になり、そしてこの他であることを使用する運動にほかならないからである。・・・抽象的なものが、いったん自己にそむいて自分を疎外し、つぎにこの疎外から自分へ帰ってきて、そのことにより・・・意識の所有となるというこの運動こそ、まさに『経験』と呼ばれるものである</u>」(下線は、引用者)
――対象化と疎外との関係にも注意せよ。学の予備段階として、精神の経験の学としての「精神現象学」は、位置づけられることになる。別言すれば、個人をして無教養なレベルから知の立場まで導くことを使命とする。
<学の歩みと哲学史>
ヘーゲルのスピノザ批判―神を唯一の実体とする考え方には、自己意識(主観性・個人性)が欠けている。
ヘーゲルのフィヒテ批判―実体なき主観性 ―→両者の統一としての自己意識ある主体=精神
<否定性の弁証法とマルクスとの関係>
p.116 実体と自我とに齟齬があるということ、この否定性こそが運動を生ぜしめる。
――若きマルクスの「経済学哲学草稿」(パリ草稿 1844年)は、ヘーゲル弁証法の核心的意義を次のようにまとめている。これは、難解なヘーゲルに取り組む我々にとって、導きの糸となるであろう。
「したがって、ヘーゲル「(精神)現象学」とその最終成果における偉大なるもの――運動し、産出する原理としての否定性の弁証法―は、ヘーゲルが人間の自己産出過程を一つの過程ととらえていること、つまり対象化(Vergegenständlichung)を脱対象化(Entgegenständlichung)※として、外化(Entäusserung)をこの外化の止揚(Aufhebung) としてとらえたこと、したがって彼が労働の本質をとらえ、そして対象的な人間を、現実的であるがゆえに真なる人間を、自分自身の労働の成果として概念把握したことである」(「ヘーゲルの弁証法と哲学一般に対する批判」)
※外化と内化、あるいは異化と同化と言い換えてもいいだろう。
――ヘーゲルがあらゆる存在者に認めた、一方で自らが自らにとり他者となりながらも、つぎにはその他者性を帯びた定在を自らにとりかえすという否定性の弁証法を、その原基形態が労働のうちにあることを若きマルクスは見抜いた。
「ヘーゲルは近代の国民経済学者の立場に立っている。彼は労働を人間の本質ととらえ、自己を実証しつつある人間の本質としてとらえている。(ただし)彼は労働の肯定的側面だけを見て、その否定的側面を見ない」(同上)
――ヘーゲル哲学がその本質的な部分で、イギリスの古典派経済学の影響を強く受けたことを物語るものであろう。その場合、労働は手労働のみならず、高度な精神労働をも含む、経済活動に限らない人間独特の生命活動にほかならない。成熟したマルクスは、かの「労働過程論」と題する一節で使用価値の生産に対応するものとして、したがって労働に「歴史貫通的」一般規定をあたえている。
「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間がしぜんとのその物質代謝
Stoffwechsel,metabolismを彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる。・・・もっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室を蝋で建築する以前に自分の頭のなかでそれを建築しているということである。労働過程の終わりには、その初めに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせているだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的―その目的を彼は知っており、その目的は彼の行動の仕方を法則として規定し、彼は自分の意志をその目的に従属させなければならない―を実現する」
――マルクスの唯物論に反対する人々は、労働に対してイメージ、観念、言語の先行性と優越性を強調する。わがL.マンフォードやハンナ・アーレントらは申し分のない一流の思想家であるにもかかわらず、こうした偏見を強く持っており、唯物史観は芸術や思想に類するものを経済的な要素に還元するものだと非難する。労働するにあたっての目的観念、完成のイメージや工程の構想・設計等精神的なものの先行性こそ、人間労働に特徴的だとマルクスが強調しているにもかかわらずである。
――人間は労働によって対象を変化させる(それは頭脳の中の観念や構想の具現化でもある)だけでなく、同時に自分自身の精神的身体的自然をも変化させる。ここにはヘーゲルの自己意識論の機制が見事にオーバーラップしている。人間の対象化の活動は、対象を変化させることにより、そのことが自己自身に帰ってきて(反省・還帰)自己の変化をもたらし、対象並びに自己自身の認識、ならびに両者の関係の認識に変化をもたらすのである。
<具体的普遍性という概念とマルクス>
――「プラハの春」の立役者のひとり、チェコの哲学者カレル・コシークは、社会的現実を構造を持った自己を展開し、形成する全体(具体的総体性)として概念的に把握することが、ヘーゲルとマルクスに共通しているとしている。そのうえで、マルクスにおいては、人類の対象的実践のなかで、主体としての人間の第一義性が認識されていることが強調される。(Karel Kosik「具体的なものの弁証法」せりか書房 チェコスロバキア 初版1963年)
ただし、「パリ草稿」での主体概念とヘーゲルの主体概念とを比較対照せよ。
~48年革命敗北後、資本主義の構造的認識と人間理解を深めるべく、1850年代からロンドンにおいて経済学研究を本格的に開始する。ヘーゲル的主体・客体弁証法を超えるものとしての資本論?
★総体性をめぐる哲学的対立 総体性概念をヘーゲル=マルクス哲学の中心概念とみなすルカーチらに対し、全体論holismを全体主義に通じるものとして否定、piecemeal social engineering(部分改良)を唱えるK・ポパー
★ヘーゲルの認識論、歴史観・社会観・人間観~運動として、過程として現実を捉える疎外論に、アダム・スミスら古典派経済学の影響が、どの程度ありやなしや?~「イェーナ実在哲学」の分析・研究を進める必要がありそうである。
p.126 本格的な弁証法に先立つ「三重性の原理」Triplizität(triplicity)については、p.127の脚注に注意のこと。カントのカテゴリー表が出発点だという。
「ものごとの秩序や構造をとらえるのに、形式論理的な二分法による分類・・・とちがって、対立し矛盾し合う二項と、それらを媒介し綜合する高次のもの」という捉え方のことを指す。ヘーゲル弁証法にいうアウフヘーベン(止揚)という思想につながった。
<数学的方法の限界>
p.122「数学は、その認識が明証性Evidenzをもつことを誇り」とする。しかし数学は量を原理とし、空間がエレメントとなっているため、相等性Gleichheitに沿って知は進行する。
――ヘーゲルは、質を捨て量的規定をのみ扱うところに数学の明証性の限界をみる。相等性とは、同一律・矛盾律・排中律のみ※を尺度とすることである。真なるものは、質と量との統一規定のうちにあるとする。数学的、形式論理的な推理を批判するという点には、「幾何学的秩序にしたがって論証」するスピノザの「エチカ」への批判も込められているのであろう。
※アリストテレスが定式化した形式論理の三原則は、同一律<AはAである>、矛盾律は<Aかつ非Aでない>、排中律<Aまたは非A>。
<真なる学問は、必然性をもった概念の自己運動による全体の展開である>
p.115 「(純粋な本質としての学の)運動ということは、内容の連関という面からみれば、その必然性を意味し、内容が拡大していって有機的全体になることである」
「(精神現象学の)道程は、概念の運動に運ばれ、意識の世界全体を、その必然的連関において包括するであろう」
――へーゲルは序論の最後部で、命題論理学への批判を執拗に行ない、学の方法論としての弁証法の優位性を主張している。内容に関して無関心で「論証を事とする形式的思考」に対する批判であり、今日の論理実証主義への批判に通じる議論であるが、ヘーゲルはそれ対し以下のように「概念把握的思考」を対置する。
p.136「(学の態度として要求されるのは)自分の自由を内容のなかへ沈めこむこと、そして、内容がそれ自身の本性によって、すなわち内容自身のものとしての自己によって、運動していくようにしした上で、この運動を観察することであり、その労苦である。概念に内在しているリズムに自分の方から介入することはやめ(ること)」(下線は、筆者)
ここでいう「概念に内在しているリズム」とは、真なるものが主体である以上、「それは、弁証法的な運動、すなわち自分自身を産み出し、展開し、そして自分へ帰っていく過程にほかならない」(p.141)
――ヘーゲルのいう概念把握的思考は、一見すると奇妙な擬人的世界の様相を呈してる。認識過程と存在過程が一体化しているので、普遍的な概念(理性、精神)が、まるで生き物のように己の内在的論理(固有の必然性)にしたがって自己展開して、己の特殊的な諸分肢を産み出して、それらの連関が有機的な総体(=具体的普遍)を形成するとされている。認識者は無作為のまま、ただ概念の自己展開の過程を観望する(zuschauen)だけでいいとされる。
現代哲学の常識的立場からみれば、概念の運用や推論の正しさの検証作業を介在させないとすると、何をもってヘーゲルは必然性を立証しようとしているのか、いったい必然性を担保するものは何か、すぐに疑問が湧くであろう。どんな哲学的な立場に立とうとも、認識の結果と当該の現象や経験との突合せによる検証ないし反証は、真理成立の絶対条件であるからである。
もしヘーゲルのレトリックを真に受けたとすれば、ヘーゲルは荒唐無稽な、無謬神話の世界を築いただけで、そこから我々が学ぶべきものは何もないということになる。たしかに若きマルクスも、そういう一面をラディカルに批判した。ヘーゲル弁証法のトリッキーさを、「思弁的構成の秘密」(「聖家族」)を暴露するというかたちであげつらったのだ。
その要旨を簡単に記しておこう。梨=果物、リンゴ=果物、イチゴ=果物・・・それらに共通する果物という一般的概念を実体化して果物なるもの(本質概念)を立て、かつ述語の位置から転倒させて主語=主体の位置に措き、それの自己活動による区別の結果、梨やりんごという個々の定在が産み出されるとして、ヘーゲル弁証法の汎論理主義(Panlogismus)的マジックを脱構築して見せるのである。これはフォイエルバッハによる宗教一般の神格化のメカニズムの解明を踏襲したものである。
繰り返しになるが、真に実在するのは、ロゴス、概念、精神など称される普遍的なものであるとし、宇宙や自然などの一切のものをその自己展開したものとみなす。初めにロゴスありき(ヨハネの福音書)で、そのロゴスから天地が創造される。イエスの誕生は神の受肉とされるが、神は精神であるが故に、自己意識を持った人間のかたちをとることは必然であるとする。いずれにせよ、こうしたこじつけめいた論理展開では、多様な現実を先験的な論理の枠組みに閉じ込めてしまう危険性を持つ。存在の本源的な統一~分裂~再統一というシェーマにあてはめて現実を解釈し、否定性の弁証法を徹底させずに、矛盾対立する諸契機を宥和させて、哲学的円環を閉じてしまうのである(=歴史の終わり)。「法権利の哲学」においては、市民社会における潜在的な階級対立は、国家の絶大なる統合機能によってその矛盾の否定性が宥和されてしまう。
しかしである、先に引用した「経済学哲学草稿」における、ヘーゲル弁証法に対するマルクスの高い評価を思い出してほしい。そこではなによりも「否定性」の弁証法が、ヘーゲル哲学の核心的部分とされていた。それだけではない、「経済学批判要綱」においても※、資本論そのものにおいても、ヘーゲル弁証法の「具体的普遍」という理論的概念をめぐって、間接的ながらその意義を高く評価し、マルクス自身の理論的完成の参考にしているのである。
ここではこれ以上詳しく立ち入ることができないが、ヘーゲルの表面的なレトリックに惑わされずに、その作品に具体的にあたってみて、いわゆる概念的な把握の仕方がどこまで貫かれているか否か、その方法にどの程度現代的な意義があるのか等々、それを検証する作業を今後の課題としたい。
※「経済学批判要綱」序説・「経済学の方法」、「資本論」第1巻 第二版あとがき
〔参考文献〕
金子武蔵「ヘーゲルの精神現象学」ちくま学芸文庫 1996年
長谷川宏「ヘーゲル『精神現象学』入門」講談社選書メチエ 1999年
K・レーヴィット「ヘーゲルからハイデガーへ」作品社 2001年
加藤尚武「ヘーゲル『精神現象学』入門」講談社学術文庫 2012年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1252:230319〕