ヘーゲル「精神現象学」序論を読む(2)

<対象化の論理>をめぐるヘーゲルとマルクス
 かつて60年代から70年代初めにかけて、ヘーゲルとマルクスの継承関係について、構造主義の流行を背景としつつ、疎外論か物象化論かをめぐり、特に主体概念をどう捉えるのかを中心に様々な哲学的議論があったと記憶している。しかし肝心の学識不足もあり、筆者にここでその時の議論を蒸し返す余裕はない。ただここではヘーゲルの「精神現象学」を再読して感じた、「対象化の論理」をめぐるヘーゲルとマルクスの異同について、若干の考察を行なってみることにしたい。

▼ヘーゲルにおける対象化の論理とは
「ところで精神は、対象ともなる。というのは、精神とは、みずから他のものに、すなわち自己の対象になり、そしてこの他であることを止揚する運動にほかならないからである。・・・直接的にして無経験な、したがって抽象的なものが、いったん自分にそむいて自分を疎外し、すぎにこの疎外から自分へ帰ってきて、このことにより、そこではじめて現実的なものとして表明され、意識の所有となるという、この運動こそ、まさに「経験」と呼ばれるものなのである」(「精神現象学」序論 p.116「世界の名著」)
 哲学史家のK・レーヴィットは、「ヘーゲルの教養の概念」(1964年)という論文において、ヘーゲルにおける難解な「対象化」の哲学的解析、つまり対象化における自己意識内の主体的契機と客体的契機の相互作用の分析を試みている。それ自身わかりやすいとはいえないが、理解の一助にすべく、私流にパラフレーズしてみよう。
1.対象的な仕方で世界にかかわるとは、直接与えられたものから,おのれを遠ざけ疎外する(=外化する)。そのことによって、対象とするものの直接性が奪い取られ、それ固有の自立性においてみられるようになる。
2.同時に、人間はおのれ自身にも距離を取り、おのれの直接性(衝動、欲望)を抑制して、対象に対してより自由なかたちで、つまりより一般化したレベルでかかわる。
3. いったんは自己に疎遠となった対象の自立性・他者性を踏まえつつ、それを我がものとすることによって、人間は「他在のもとにありながら、おのれ自身のもとにある」(ヘーゲルの自由の定義)状態に還帰する。対象化とは、精神的存在に固有の領有(自己同化)行為である。

▼若きマルクスー「『ヘーゲル「(精神)現象学」とその最終成果における偉大なるもの――運動し、産出する原理としての否定性の弁証法―は、ヘーゲルが人間の自己産出過程を一つの過程ととらえていること、つまり対象化(Vergegenständlichung)を脱対象化(Entgegenständlichung)として、外化(Entäusserung)をこの外化の止揚(Aufhebung) としてとらえたこと、したがって彼が労働の本質をとらえ、そして対象的な人間を、現実的であるがゆえに真なる人間を、自分自身の労働の成果として概念把握したことである」(「経済学哲学草稿」―「ヘーゲルの弁証法と哲学一般に対する批判」)
 このマルクスの総括は、ヘーゲルの対象化概念を、人間を主体として言い換えたもので―ヘーゲルにおいては「精神」は世界そのものを表し、これが真の主体である―、基本的にヘーゲルと同じ論理構成とみなしてよいであろう。ただ同草稿で、共産主義社会を人間主義と自然主義とが統一されたものと構想しており、直観的なかたちであれ、人間の活動が自然過程と調和するあり方を理想とする点で、自然を含むすべての存在の理性への取り込みと主知化を目標とするヘーゲルとは異なっている。

▼「資本論」のマルクスー労働は手労働のみならず、高度な精神労働をも含む、しかも経済活動に限らない人間独特の生命活動にほかならない。成熟したマルクスは、かの「労働過程論」と題する一節で使用価値の生産に対応するものとして。超歴史的というか、「歴史貫通的な」労働の本質規定を行なっている。
「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝
Stoffwechsel(metabolism)を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。

①人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる。②・・・もっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室を蝋で建築する以前に自分の頭のなかでそれを建築しているということである。労働過程の終わりには、その初めに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせているだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的―その目的を彼は知っており、その目的は彼の行動の仕方を法則として規定し、彼は自分の意志をその目的に従属させなければならない―を実現する」(資本論第1巻 第5章「労働過程論と価値増殖過程」)

 ヘーゲルの対象化概念と、成熟したマルクスのそれを比較対照すると、以下のようになる。
下線①の観点はヘーゲルには欠けている観点である。人間労働は自然と人間の物質代謝過程を媒介する行為であり、自然の絶対性、必然性をあくまで前提として行われる行為である。スピノザは、人間はどこまでいっても自然の一部でしかないとしたが、ヘーゲルにおいては自己意識をもたない自然は、精神に従属するものとされている。マルクスはスピノザ的な観点を一面の真実として保持している。
 下線②は、これこそ第一義的に対象化行為とされるところのもの。すなわち、精神的であれ肉体的であれ、労働という対象化行為は、合目的的にして合法則的行為であり、その媒介行為を通して自然対象物を変化させてわがものとし、翻っては自分自身の肉体的精神的特性をも変化させる行為であることである―ただし精神的労働の場合は、対象化の相手は自然対象物ではなく、ことばやイメージや観念体系である。
 要するに、ヘーゲルにおける対象化概念では、自然はどこまでいっても従属変数すぎない。ヘゲモニーは、あくまでも自我主体の方にある。繰り返しになるが、対象化とは、自我主体の内なるもの(イメージ、構想、観念、希望、情熱など)をもとに与えられた自然素材を加工し、客観的な対象として具現化することである。それは同時に、具現化した対象を我がものとして自己自身に取り込み、そのことによって主体は本源的な自己の自然性から離陸し、より普遍的な自己へと上昇することになる。このことをヘーゲルは教養(自己形成、自己陶冶)と名付けたのである。
 レーヴィットは「この行為(対象化―N)は西欧に固有のもので、この行為によって「西欧人は地球を変形し開墾してきたのである」としている。すなわち対象化とは、Eurocentrism(西欧中心主義)であり、対象化の実践と論理は、特殊ヨーロッパ的な要求と能力として、またそれこそがヨーロッパ哲学と科学をもたらしたものであるとする。要するに、ヘーゲルは対象化の論理をヨーロッパの精神的優位の要諦をなすものであり、世界を汲みつくす普遍的な全体知を創造する元になったものとしたのであろう。そうだとすれば、対象化の論理は、理性信仰に由来する特殊な文明論的ニュアンスを帯びていることになる。世界の植民地化の過去も現在の地球環境の危機も、ヘーゲル=ヨーロッパ的な対象化行為に淵源するという結論を引き出すのはそう難しくはないであろう。
 したがってレーヴィットは―ある意味で彼の師であるハイデガーとともに※―、次のように結論付ける。「ヘーゲルとマルクスの関心を惹くのは、・・・自然の根源的な生産性ではなく、自らを生産する精神であり、人類史の世界変革的な作業である」(「哲学的な世界史だって?」)として、また「ヘーゲルと自然蔑視を共有するマルクス」(同上)として、人類の本源的な自然性からの乖離を促進したという点で、ヘーゲルとマルクスは同罪とする。私は、日ごろレーヴィットの洞察力に感心するところも多いものであるが、これは黙認できないマルクスの誤読であろう。資本論のマルクスにおいては、飽くなき利潤を求める資本の拡大再生産がもたらす地球環境への甚大な影響について、十分研究し視野に収めていた点は、強調しておきたい。農芸化学者リービッヒの業績に基づき、資本制生産が富のすべての源泉である土地と労働者を疲弊させ、破壊することによって拡大するメカニズムをマルクスは暴露している。労働が大文字の自然における、自然と人間との間の物質代謝を媒介する行為である以上、物質代謝過程を攪乱させて環境・気候変動を悪化させ地球を破滅においやるのか、それとも人類の生存を確保できるように物質代謝過程を理性的に組織しコントロールするのか、その選択の責任は当の我々にあることをマルクスは明らかにした。
※「自然の優位性に定位する。人間がどれほど自然から突出し、脱-存し、超越し、反省を行おうとも人間だけを自然
世界の全体へのこうした所属や帰属の例外とするわけにはいきません」(「ハイデガーの存在への問いについて」)

 このことを銘記したうえで、レーヴィットの指摘するように対象化の西欧的偏りにも目配りが必要であることに同意する。レーヴィットが、ヨーロッパ固有のものとした対象化の論理と実践とはいかなるものか、くどいようだがもう一度おさらいしておこう。
 答えというよりひとつの仮説であるが、それは西欧における際立つ強い自我のあり方を示しているものではなかろうか。対象化と脱対象化の局面で現れる強い自我―それは対象に自我の基準を押し付けるとともに、変形した対象を自我に強力に取り込む力にとなって現れる。古代ギリシア以来の西欧における理性信仰という精神的伝統を見ればわかるであろう。地中海交易の早くからの発達と原始的共同体の解体と都市の形成が、多少なりとも独立性のある個人を析出し、商品経済の発達から計算能力をはじめとする抽象化一般化の能力が鍛えられたのではなかろうか。古代ギリシアの、三平方の定理を発見したピタゴラスは、「万物は数で成り立ち、数の法則にしたがう」と説いたが、のちに「自然という書物は、数学という文字で書かれている」として、近代動力学を創始したガリレオ・ガリレイの先駆者となったのだ。花鳥風月を愛でる日本人の美的自然意識との距離は計り知れない。
 やや乱暴な整理であるが、東西思想とも真理を主客の一致とする点では同一であるが、そのベクトルは正反対である。西洋では強い自我への対象の取り込みと、取り込みによる自我の拡張、つまり対象の征服と自己同化である。対照的に、東洋においては、自我の極小化による対象(あるがままの自然)との一致、というより対象へのまったき没入がめざされる。これをヘーゲル的な、つまりキリスト教的な視点で見ると、「東洋諸民族は目的も意味もなしにただ単純にあるがままにあることに満足」していることになる。限界なき対象化活動とは対照的な、受動的なものの見方や生活態度と言い換えてもよい。しかし環境への負荷が少ないこうした生活態度は、地球的規模での「均衡の回復」に必要なヒントを与えるとしたのは、わが師ルイス・マンフォードであった。※彼は、行きすぎた合理化―あらゆるものの量への還元と効率化、機能化、機械化、規格化、画一化など―と人間の原子化・断片化にブレーキをかけ、相互扶助、共生、協働による有機的調和と全体的な人格性の回復のための智慧がいまこそ必要であるとした。

※マンフォードは、以下のように、残念ながらヘーゲルもマルクスも理解できなかったにもかかわらず、しかし実際には近いところにいた。―彼によれば、マルクスの唯物史観とは、「芸術、宗教、哲学、道徳は、生活手段の生産の必要が万事を左右する経済活動の世界の、いわば影にしかすぎない」(「人間の条件」)というドグマであると。これでは人間万事、物質によって支配されているというのとほとんど変わりがない。ハンナ・アーレントのマルクス理解の程度も同様である。
 話を元へ戻そう。西欧的なバイアスのかかった対象化行為を社会学の主題として取り上げた最大の人は、M・ウェーバーであろう。「合理化」という文化現象が、ヨーロッパの歴史および政治・社会・経済・文化の全領域の発展においてすべてのものを貫通しているとした。「合理化」とは、対象から価値や目的をはぎ取り、機械的要素的な因果関係に置き換えて、量的な規定、つまり計算可能性Berechenbarkeitという基準にしたがって対象を主体的に再構成することをいう。合理化において特に問題になるのは、目的合理性(形式合理性、部分合理性、道具的合理性)であり、与えられた目的に対して最も適合的にして効率的な手段を選択する行為において現れる。詳しくは「宗教社会学論集 序言」を参照されたい。そこには西欧のみで出現し、世界を制覇した政治・経済制度や思想哲学、科学技術のさまざまなカタログが例示されている。特に世界史的な意義をもつ文化形象としては、数理科学―数学的実験的に精密で合理的な基礎づけをもつ自然科学―の発達であったろう。J・ニーダムの記念碑的労作「中国の科学と文明」が明らかにしたように、数千年に及ぶ科学と技術の蓄積を持ちながら、しかし中国は西欧の数理科学にあたるもの(ついでに言えば、自治都市や市民社会)をついに産み出しえなかったことと対照的である。ウェーバーは、二十世紀のグローバル世界において、体制の違いを超えて共通する文化的な類型として対象化行為=合理化を捉えている。したがって合理化の政治社会制度的な実現形態である官僚制からは、社会主義であろうとも逃れることができないとした。市場制度のもとでの競争に勝ち抜くためには、否が応でも経済の効率化による生産性の向上に努めなければならず、その意味で合理化と非人間化から免れるすべはないというペシミズムが、彼の結論であった。
 我々はここまで若きマルクスに倣って、対象化行為=労働としてきた。しかしよく考えれば、人間の行為は労働に尽きるわけではない。対象化行為は、労働を祖型としながらも労働に限らず、あらゆる人間的な生活活動や創造行為に及んでいる。「人間的教養のための、精神的発達のための、社会的役割を果たすための、社交的交流のための、肉体的精神的生命力のための自由な活動のための時間」を人間は必要とする(マルクス「資本論」第1巻 第8節 労働日)。しかも社会の発展にともない、人間の直接労働の比重が低下するのに対応して、むしろ対象化行為の外延と内包は進化する。現状では労働を支配するのは資本であり、超過利潤をめざして効率化を極限まで追求するのは資本の本性であるので、まず資本の軛から労働が解放されるのが必要条件である。
 マルクスは「ゴータ綱領批判」で、共産主義社会では「労働が第一の欲求となる」としたが、そうなるためには労働がその苦役性・非人間性を脱し、かつ必要労働時間が極端に短くなっていなければならないだろう。そうなれば、ヘーゲルが考えたような人間の自由と自己実現を可能ならしめる対象化行為は、人間の第一の欲求としての労働と相互に浸透し合い、その境界線はほとんどないに等しくなるであろう。

〔対象化行為と労働の相互関係図〕

左から右への方向が時間軸で、左が現在だとすれば、右は未来。人間の対象化活動は大きくなるが、労働の占める比重は、絶対的にも相対的にも小さくなる。必要労働が縮減すれば、人間自身と環境にかかる負荷は当然ながら小さくなる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔study1254:230404〕